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お気に入りの僧侶を天皇にしようとした…女性天皇が日本史からパタリと消えたワケ

プレジデントオンライン / 2022年7月29日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SAND555

歴代天皇の中に女性天皇は8人いる。奈良時代の称徳天皇以降、江戸時代の2人を除いて男性が皇位を継いでいる。なぜ女性天皇は途絶えたのか。歴史作家の関裕二さんは「権力を握っていた藤原氏が、藤原氏以外の男性と女帝が結ばれることを恐れたからだ」という――。

※本稿は、関裕二『女系で読み解く天皇の古代史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■父・聖武天皇の遺志を継承しようとした女帝・孝謙(称徳)天皇

孝謙が恵美押勝と激しく戦ったのはなぜだろう。ここに至るまでの理由は、確かにあった。聖武天皇から皇位を譲(ゆず)られた孝謙天皇は、即位当初、藤原仲麻呂に従う振りをしていたが、次第にコントロールが利かなくなっていった。

だから藤原仲麻呂は、大炊王を自身の家で息子のように養い、即位させた。このとき、孝謙天皇は「承塵の帳に浮き上がった瑞字」という茶番につき合ったのだ。心の奥底に、藤原仲麻呂に対する怨(うら)みは募(つの)っていっただろう。

これまでの史学界の通説は、光明子が藤原不比等の娘で、孝謙天皇は藤原不比等の孫と決め付けていた(系譜上はそうなのだが)。しかし、もっと違う視点が求められている。

【図表1】天皇家と藤原氏の関係略図
出所=『女系で読み解く天皇の古代史』

一方で、孝謙天皇は天武系の聖武天皇の娘であり、県犬養三千代の孫でもある。県犬養三千代の初婚の相手は美努王で、親天武派の皇族だったことは、すでに触れてある。

藤原仲麻呂は、藤原の娘だったはずの孝謙天皇が、本当は天武の娘なのかもしれないと、疑いつつ「やはり天武派」と気づいた瞬間、大炊王擁立を決め、孝謙天皇に、あえて「瑞字出現」の「踏み絵」を用意したのだろう。

話は少しさかのぼる。孝謙天皇が即位して最初の行幸地に選んだのは、河内国大県郡(大阪府柏原市と八尾市の一部)の智識寺だった。かつて、聖武天皇がここを訪ね、感動し、同じような寺を造ってみたいと夢を見て、光明子が背中を押した、聖武一家にとってなじみ深い寺だった。

智識寺とは、有志が集まって、財や労働力を持ちより建てた寺のことで、皇族や貴族の寺とは一線を画した。じつは、東大寺は、巨大な智識寺でもある。

■女帝の前に立ちはだかった大貴族・藤原氏

孝謙天皇が即位後すぐに智識寺を訪ねたことは、大きなメッセージになっただろう。

知識集団と縁の深かった行基は、私度僧(朝廷の許しを得ず僧の格好をし、律令の枠からはずれ、放浪し、定住しない乞食坊主でもある)や優婆塞・優婆夷(在俗の仏教徒)を束(たば)ね、藤原政権から疎(うと)まれ、弾圧されていた人びとだ。

※編集部註:初出時、「智識寺建立を指揮していた行基は」としていましたが、正しくは「知識集団と縁の深かった行基は」でした。訂正します。(8月9日15時50分追記)

その僧俗混合の寺(智識寺)のあり方に聖武天皇は心打たれたのだ。孝謙天皇は、聖武天皇の遺志を継承しようと考えたのだろう。

橘奈良麻呂の変(七五七)のときも、光明子と孝謙天皇は、謀反の密告を受けて捕縛された首謀者たちを、「あなたたちは身内だから、そんなことをするはずがない」と、一度釈放してしまっている。

あわてて、藤原仲麻呂が捕まえ直して拷問にかけ、多くの人びとをひそかに殺してしまったのだ。橘奈良麻呂は県犬養三千代の孫だから、光明子と孝謙は、縄を解いたのだろう。彼女たちは、藤原氏のやり方に批判的だったに違いない。しかし、藤原仲麻呂の圧力に、屈したわけだ。

藤原氏は恐ろしい人たちだ。「言うことを聞かぬ者は皇族といえども排除する(殺す)」のであり、「天皇も例外ではない」のだ。これをよく知っていた孝謙天皇は、大炊王立太子に協力してみせたのだろう。もちろん、屈辱的なことだ。

宇佐神宮本殿
宇佐神宮本殿(写真=sk01/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

太上天皇になった孝謙は、道鏡とねんごろになっていった。そして、淳仁天皇がこれを批難し、両者は険悪な状態に陥っていたのだ。

■女帝と僧侶のスキャンダル…「道鏡事件」とは何だったのか

道鏡は何者なのだろう。『続日本紀』に、道鏡の俗姓は弓削連とある。弓削氏は河内に勢力を張っていた一族だ。

道鏡は禅行を積み梵文(サンスクリット語)に通じ、学僧として出世し、看病禅師として宮中に招かれた。道鏡に出会ったとき孝謙太上天皇は、四十四歳で、道鏡の献身的な姿勢に、心を打たれたのだろう。

恵美押勝(藤原仲麻呂)を滅亡に追い込み重祚(ちょうそ)した称徳天皇は、道鏡を太政大臣禅師という役職に就けた。律令の規定にない臨時職(令外官)で、実質的な最高権力者だ。しかも、「法皇」の称号を与え、天皇に準ずる扱いにした。天皇儀礼のもっとも大切な大嘗祭に、僧侶の参加を許しもした。

道鏡の一族も政界に入り、道鏡はひとり勝ちしていったのだった。そして、神護景雲三年に、宇佐八幡宮神託事件が勃発したのだ。「道鏡をして皇位に就かしめば、天下太平ならむ」と、神託が都にもたらされたが、最終的には、道鏡の即位は阻止されたのである。

この事件は何を意味しているのか。独身女帝・称徳天皇が、羽目を外してしまったということだろうか。後世には、男女の醜聞(スキャンダル)となって語り継がれることになる。

八世紀末から九世紀初頭に薬師寺の僧・景戒が記した仏教説話集『日本霊異記』に、次の話が載る。

称徳天皇の御代、天平神護元年(七六五)に、弓削の氏の僧道鏡法師は、皇后と同じ枕に通い(同衾し)、天下の政の実権を握って、治めた……。

■称徳広陰説と道鏡巨根説…下世話な噂話が広がったワケ

鎌倉時代の説話集『古事談』に、次の話が載る。

称徳天皇は道鏡の「陰」では物足りなくなり、山芋で代用品を作り、これを用いていたが折れてしまい、取れなくなってしまった。局部が塞がり腫れ上がってしまった。ひとりの小さな手の尼が手に油を塗り、とろうとしたら、藤原百川が「霊狐なり(化け狐め)」と叫び、尼の肩を斬った。これが原因で、称徳天皇は衰弱し、亡くなってしまった……。

艶笑譚で済ませられる話ではないと思う。称徳広陰説と道鏡巨根説はセットになって広まっていったが、なぜこのような下世話な噂話が広まっていったのだろう。

そもそも、男王は多くの妃を娶とってもこのような批判を受けることはない。称徳天皇が徹底的にけなされ笑いものになったのは、藤原氏が藤原氏以外の男性と女帝が結ばれることを恐れ、二度と女帝が現れないことを願ったからだろう。

この天皇の代で、ヤマト建国時から継承されてきた、三つの王家という大きな枠組みは取り壊された。そのあとにできた政権は、「最後の女帝を晒(さら)し者にした」のだろう。ことに藤原氏の意地の悪さを感じずにはいられないのである。

称徳天皇は、古代最後の女帝となったが、それよりも大切なことは、この女帝の崩御によって、古き良き時代は、いよいよ幕を閉じたことだ。天武の王統はここで途絶え、天智系の王家に入れ替わり、それはつまり、藤原氏だけが富み栄える時代が到来してしまったことを意味する。

藤原氏に最後まで抵抗した帝が、称徳天皇だったのである。

平城宮殿
写真=iStock.com/yipengge
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yipengge

■女系天皇家の始祖になろうとした孝謙(称徳)天皇

孝謙(称徳)天皇は、女性皇族で唯一の「皇太子に立てられた女性(阿倍内親王)」であった。また、仏に帰依した帝でもあった。この点でも、彼女は特異な存在なのだ。

聖武天皇には安積親王(男子)が存在したのに、阿倍内親王が選ばれたのは、「藤原の子」としての聖武天皇の娘だったこと、藤原不比等の娘の光明子が母だったからだ。藤原氏は、聖武→阿倍内親王とつなぎ、「次に誰を藤原の子」にするかを模索し、時間を稼いだ。

孝謙(称徳)天皇は、そういう「藤原氏の思惑」の中で「中継ぎ」を期待されたが、女帝はやがて女系天皇家の始祖になろうとしたのだ。

藤原氏にとって、悪夢以外の何ものでもない。だから、「女帝はまっぴら御免だ」と、藤原氏は反省しただろうし、「女帝は破廉恥だ」と、週刊誌なみのゴシップを、後世に伝えていったのだろう。じつにみっともない男性(権力者)どもではないか。

勝浦令子は『孝謙・称徳天皇』(ミネルヴァ書房)の中で、称徳天皇が『最勝王経』に強い影響を受けていたのではないかと推理した。その国王論に、次の一節が載る。

すなわち、四天王が梵天に「なぜ人間の中でひとりの王(天子)が立つのか、天界においてなぜ天王となれるのか」を問いただした。すると、王に立つ条件は、「前世の積善」と「諸天の加護」のふたつだという。

■「藤原の呪縛から王家と民を解放したい」

その上で、勝浦令子は、称徳天皇が、この教えのままに天皇像を構築したのではないかと推理し、次のように述べている。

皇位継承者の使命を、「天」の授けた者、すなわち前世の積善や天の加護を受けて転生した人物に託すべきであると考えた(中略)藤原氏系の天智・天武合体草壁皇統を血筋として引き継ぐ者がいない現実の中で、次第に天の加護を受けた人物、さらに出家者による継承を模索し始めた可能性が高い。つまり、「尼天皇と僧法王の共同統治体制を現実化していった」と言うのである(前掲書)。

なるほど、かつてなかった発想で称徳天皇の生涯を語っている。そして、仏教徒という視点で謎めく称徳天皇の行動を解き明かしたことは、共感できる。

称徳天皇がそれまでの秩序を破壊しようとしていたことも、確かなことだ。たとえば、身分の低い者に、高い位の「カバネ(姓)」を濫発し、奴婢(ぬひ)を解放してもいる。称徳天皇は、「藤原の呪縛から王家と民を解放したい」という一心ではなかったか。

自身の体の中に藤原の血は入っているが、母・光明子と同じように、藤原不比等を呪っただろうし、藤原氏が多くの皇族や貴族を殺(あや)めてきたこと、さらに、恵美押勝(藤原仲麻呂)に至っては、専横をくり広げ、一家だけで権力を独占してしまった。

称徳天皇は「こんな世の中にするために、王位を継承したわけではない」と、叫びたかったのだろう。だから、諸天の加護を受けて王位に就いた責任を、自覚していた可能性は、非常に高い。

ただし、称徳天皇には、もうひとつ、世直しの策を秘めていたのだと思う。それが、ヤマトの王家の再出発であり、原点に戻る運動でもあったと思う。

■藤原氏に一泡吹かせたが、抵抗により計画は頓挫

恵美押勝(藤原仲麻呂)は恵美押勝の乱の直前、孝謙太上天皇が道鏡を寵愛する様を見て、次のように語っていたという(『続日本紀』)。

此の禅師の昼夜朝庭(みかど)を護り仕へ奉(たてまつ)るを見るに、先祖(とほつおや)の大臣(おほまへつきみ)として仕へ奉りし位名(くらいな)を継がむと念(おも)ひて在(あ)る人なり。

道鏡の朝廷に仕えている様子を見ると、先祖の大臣として仕えていた過去の一族の栄光を復興しようと企んでいるのだ。だから、排斥してしまえ、というのである。

「弓削」の姓を持った過去の大臣クラスの人物と言えば、蘇我馬子と争った「物部弓削連守屋」が思い浮かぶ。「弓削」と「物部」は、地縁的にも血縁的にも強く結ばれている。とすると、恵美押勝や周囲の者たちは、道鏡を「物部系」とみなしていたことになる。「物部系だから危険(邪魔)なのだ」と、考えていたのだろう。

平城京遷都のとき、左大臣は石上(物部)麻呂で、右大臣は藤原不比等だった。このとき石上麻呂は、トップの地位に立っていたが旧都の留守役に命じられ、捨てられた。仕掛けたのは、藤原不比等だろう。物部氏はヤマト建国時から続く名門中の名門豪族だったが、ここに完ぺきに没落したのであり、藤原氏に対する恨みは深かったはずだ。

ちなみに聖武天皇は、恭仁京から難波宮遷都を目論み、藤原仲麻呂を恭仁京の留守役に任命していた。石上麻呂がはめられたワナを再現しようとしたようなのだが、それを見抜いた藤原仲麻呂は逆手にとって、安積親王を密殺してしまった。

それはともかく、称徳天皇は自身に子がなく、天武と天智と藤原の血を継承した王家も、ここで途絶えるために、「物部系の天皇」の誕生を願ったのではないかと思えてくる。「三つの王家の内のひとつ」が物部氏であり、しかも、ヤマトで二番目に王に立ったニギハヤヒの末裔(まつえい)氏族が物部氏であった(一番目が尾張系のナガスネビコ)。

ここに、称徳女帝が「創作」する「新王朝」が誕生するはずであった。しかし、その願いもむなしく、宇佐八幡宮神託事件によって、計画は頓挫する。

■女系も女帝も絶対に許さない、藤原氏の異常な権力欲

考えてみれば、称徳天皇と道鏡の間に子が生まれていたわけではなく、称徳もすでに高齢だった。道鏡が即位しても、絵に描いた餅になりかねなかった。

あるいは、「物部系の道鏡」を女帝の夫という立場で王に立て、「他の妃に子ができれば、新たな王家が生まれる」と、考えていたかもしれない。ただし、道鏡に子が生まれていたとしても、おそらく殺されていただろう。

関裕二『女系で読み解く天皇の古代史』(PHP新書)
関裕二『女系で読み解く天皇の古代史』(PHP新書)

それがわかっていたからこそ、称徳天皇は藤原氏に一泡吹かせただけで矛を収め、静かに消えていったのではなかったか。

称徳女帝は、藤原のための王家を破壊し、新たな時代を切り開こうとしたのかもしれない。しかし、どう足掻(が)いても、藤原氏の権力への執念は異常なほど強かったし、女帝が我を張れば、さらなる不幸が生まれることを、どこかで感じとっていたのかもしれない。

ただ、皮肉なことだが、「女系天皇の誕生は許してはいけない」と、藤原氏は肝に銘じ、「女王の存在も邪魔」と思い至り、江戸時代に至るまで、女性天皇さえ、生まれなかったのだろう。

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関 裕二(せき・ゆうじ)
歴史作家
1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅せられて足繁く奈良に通い、日本古代史を研究。文献史学・考古学・民俗学など、学問の枠にとらわれない広い視野から日本古代史、そして日本史全般にわたる研究・執筆活動に取り組む。著書に『女系で読み解く天皇の古代史』(PHP新書)、『古代史の正体 縄文から平安まで』(新潮新書)など多数。

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(歴史作家 関 裕二)

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