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表向きには「肉食厳禁」と言っていたが…「明治時代まで日本人は肉を食べなかった」という通説のウソ

プレジデントオンライン / 2022年7月8日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nitrub

日本人はいつから肉を食べるようになったのか。フードアクティビストの松浦達也さんは「7世紀から江戸時代にかけては肉食禁止令が出ていた。しかし、実際にはお上も庶民も禁を破り、肉を好んで食べていたという記録が多く残っている」という――。

※本稿は、松浦達也『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

■日本人が肉を食べなくなったのは646年以降

さて、ここで江戸時代までの日本の肉食の歴史を、“超訳”版でざっくり振り返っておきたい。

日本で肉食文化が一般に広まったのは、明治の文明開化以降のこと。江戸の後期から「ももんじ屋」などのぼたん鍋料理店はあったものの、地域や調理法は限定的だった。7世紀以来何度となく繰り返されてきた肉食禁止令もあって、おおっぴらに食べることに抵抗のある人々も少なくなかった。

そもそも、古来豚肉などを食べていた日本人が肉を食べなくなったのは646年、孝徳天皇の大化改新の詔が発布されて以降のことだ。

当時のお触れを意訳すると、「4~9月までの間に農民が酒を飲み、(鳥や魚などの)うまいものを食べるなんてもってのほか。農作業にいそしむべし」という内容である。

このお触れ自体は肉食禁止というよりも、「贅沢禁止」「仕事にいそしむべし」という性格のものだったが、そもそも肉を食べていなければこうしたお触れは出るはずがない。

■桓武天皇が肉食禁止令を出した本当の理由

675年には天武天皇が「牛・馬・犬・猿・鷄」の明確な肉食禁止令を初めて発布した。

このお触れは仏教由来とする考え方が多いが、実は本音の部分では律令制度の導入に伴う徴税体系を強化したかったという側面もあったと思われる。

当時の牛や馬は農耕用。目先のおいしさにかまけて……という意図はなかったとしても、不具合の出た牛馬をと畜してその肉を食べれば農作物の収量は減る。さらに酒を飲み、農作業がおろそかになればもっと減る。当時の税は米だ。為政者として、税収を減らすわけにはいかない。だからこそ、肉食をはじめとする贅沢を禁止して乗り切ろうとしたのではないか。

ところが、いまより遥かにお上の威光が強かったと思われる当時でも、思いのほか庶民は言うことを聞かなかった。その証拠に、平安時代以降にも、こうした肉食禁止のお触れはたびたび出されることになる。

■小野小町はジビエを好む肉食系女子だった

9世紀(801年)には桓武天皇が「牛を殺して神様に祀っちゃダメ!」(『類聚国史』より)とのお触れを出した。

嵯峨天皇に至っては、あまりに肉食禁止が守られないことにいらだったのか、811年、「農人が酒を呑み肉を食うことを禁じて久しくなるが、これに逆行する傾向なので一層取り締まりを強化する」とのお触れを出していた。

それでも人は肉を食べていた。9世紀半ばに記された『玉造小町壮衰書』によれば、当時の美人女流歌人と言われた小野小町も、鶏、クマ、ウサギ、鹿肉を好む肉食系女子だったという。

その後も幾度となく「肉食禁止」「殺生禁止」のお触れが出されるものの、肉食の記録はそこかしこに残っている。

■「日本人は野犬、鶴、大猿、猫を好む」

象徴的なのが16世紀に来日した宣教師たちの記録。かのフランシスコ・ザビエルを含めた宣教師が来日間もないうちは「日本人は肉を食べない。罪悪視すらしている」と本国に報告するが、滞在が長くなると「日本人は野犬、鶴、大猿、猫、生の海草を好む。牛肉は食べないが好む」(1585年、ルイス・フロイスの報告)とその裏側を知るようになる。「食べないが好む」とは、これいかに。どう考えても「食べない(ことになっている)が好む」というカッコ書きが透けて見える。

といっても、表向きは日本人の「肉食厳禁!」は変わらなかった。豊臣秀吉もイエズス会の宣教師を京都に呼びつけ、「人民の大切な牛馬をなぜ食うのか」と問い詰め、「食べたら厳罰」を言い渡したという。

江戸時代に入っても肉食禁止は変わらず、制度上はむしろ厳格化した。1687(貞享4)年以降、何度も生類憐れみの令が発布されるが、その間にも、彦根藩が考案した牛肉の味噌漬けを大石内蔵助が堀部弥兵衛のもとへ「栄養つきますよ!」と贈るなど、肉食禁止が守られたのかはなはだあやしそうな文献が多数残されている。

結局、江戸や大坂で庶民の食文化が花開く18世紀以降、各地でなし崩し的に肉食ブームが沸き起こる。

■水戸藩9代藩主・徳川斉昭が愛した牛肉の味噌漬け

水戸藩9代藩主の徳川斉昭は希代の肉好きで、彦根藩特産品の牛肉の味噌漬けが大好物。毎年楽しみにしていたというのだが、1850(嘉永3)年に井伊直弼が彦根藩の家督を相続してからこの牛肉ギフト習慣がぴたりと止まる。仏教に傾倒した井伊直弼は、それまでのしきたりを反故にし、牛肉を贈らなくなったのだ。

徳川斉昭の肖像〈作者不明〉(図版=京都大学附属図書館所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
徳川斉昭の肖像〈作者不明〉(図版=京都大学附属図書館所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

斉昭は九女の八代姫の輿入れに、乳牛を伴わせたと言われるほど、筋金入りの肉好きだ。彦根藩から牛肉が贈られてこなくなった後も、斉昭は彦根藩へ牛肉を贈るよう、たびたび書状を送ったという。

以下、1893(明治26)年に匿名の元水戸藩士が書いた幕末時の水戸藩の党争における顛末(てんまつ)記「水戸藩党争始末」から抜粋・意訳する。

「牛肉が贈られてこない。毎年楽しみにしているのだから送ってくれ。『牛の殺生を禁じた』と言うけれど、これまでも送ってもらったし、彦根の牛肉は格別。せめて我らだけは特別扱いしてほしい」

こうして頼み込む徳川斉昭を「国禁ゆえ」とソデにし続ける井伊直弼。彦根藩は老中から「牛のと殺数が多すぎる! 吟味せよ!」と目をつけられたことで及び腰になっていたのかもしれないが、ここで斉昭の恨みを買ったことが、直弼が殺害される桜田門外の変につながったという異聞もある。

■“烈公”斉昭の尋常でないバイタリティー

徳川斉昭の逸話はまだある。斉昭は計37人の子を産ませた“豪の者”で、大奥にいた京都の公家出身の唐橋という美女にも手をつけた。

この唐橋、実は第11代将軍、家斉の娘・峰姫づきで、家斉自身も側室に迎えようとしたが、唐橋の固辞に遭い、断念したといういきさつがあった(本来は生涯異性関係を持たない職ということになっていた)。

斉昭はそんな唐橋と密通し、懐妊までさせた。その倫理観はさておき、肉由来であろうバイタリティーが尋常でなかったことは確かだ。

子宝にも恵まれ、世継ぎの心配もないのに毎年のように子をつくり、末っ子が生まれたのは斉昭が58歳のとき。絶倫を地で行く“烈公”だった。あれこれヤリすぎたせいか、その後、斉昭は蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、そのまま亡くなった。過ぎたるは及ばざるがごとし、である。

■ひそかに「豚一様」と呼ばれていた慶喜

松浦達也『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)
松浦達也『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)

ちなみに37人いた子どもの一人が江戸幕府最後の15代将軍、徳川(一橋)慶喜であり、彼もまた稀代の肉好きだった。ただし、慶喜は豚肉に傾倒し、「豚肉」が好きな「一橋家」出身だから「豚一様」。家来衆からひそかにそう呼ばれていたという。

日本人の平均寿命がまだ40代と短かった時代に慶喜は76歳まで天寿を全うし、大往生。側室との間に21人の子どもをもうけた。斉昭の37人と合わせると親子で58人の子どもをもうける絶倫ぶり。慶喜にも、他藩に肉をたびたび要求しては困らせたという逸話がある。少なくともこの2人、肉に対する執着と性に対する前のめりな姿勢については間違いなく親子である。

ともあれ、表向きに肉食が解禁されるのは江戸末期から明治初期にかけてである。日本人は、古くから建前と本音を使い分けて、上手に肉と付き合ってきた。お上の規制と実情は、いつの時代もちょっぴりズレている。

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松浦 達也(まつうら・たつや)
ライター/編集者/フードアクティビスト
東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども行い、食にまつわるコンサルティングも。著書に『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、「マンガ大賞」の選考員もつとめる。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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(ライター/編集者/フードアクティビスト 松浦 達也)

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