手術9000例超、上皇陛下の執刀医はなぜハードな手術でもちっとも疲れないのか
プレジデントオンライン / 2022年7月8日 10時15分
2012年3月4日。執刀医の天野篤・順天堂大教授(右)らにあいさつされる天皇陛下と皇后さま(現上皇ご夫妻)。天皇陛下(当時78)は4日午後、皇后さまに付き添われて退院。皇居・御所に16日ぶりに戻られた。 - 撮影=藤中一平
■手術そのもので脳を使うことはない
心臓手術が原因で脳梗塞がおきることがあります。上皇陛下の心臓手術を担当してもう10年以上になりますが、その事態だけは避けたかった。手術後に胸水が少し溜まることがありましたが、脳梗塞で倒れることはありませんでした。私にとっては手術そのものより後遺症のほうがずっと気がかりで、5年はその重圧が消えることはありませんでした。手術後もご無事な姿を見て、やっと任務を果たせたのだという安心感があります。
陛下から教わったのは「公平の原則」です。ご自身の前に現れたものはすべて公平に受け止めるという感覚が備わっておられるのです。
もう明かしてもいいと思うのですが、たとえば公務の外出時に陛下は一日に500ミリリットルの水しか飲まれません。心臓はもちろん、健康の観点からいえば決していいことではありません。しかし、トイレの回数が増えると侍従や警備の人たちの動きが増えてしまう。だから、極力周りの人たちの動線を複雑にしないように、ご自身の体を普段から律しておられる。なかなかできることではありません。
■皮膚を切り、臓器の間を進み、患部に到達するまでは“作業”
よく勘違いされるのですが、私自身は手術そのもので脳を使うことはほとんどありません。いつものペースに持ち込んでしまえば、迷いの生まれる二択に追い込まれることはない。私の中では、皮膚を切り、臓器の間を進み、患部に到達するまでは“作業”なんですよ。手術ではない。極端な話、そこまではロボットにやらせてもいいし、医者ですらなくてもいい。本当に大事なのは、患部をきちんと治し、それにより健康を取り戻すことです。
自分が不得手なこと、拒否反応があるもの。そういった場面に直面したとき、脳は糖を消費し、疲労を覚えるのです。頭で考えなくても、無意識的にできるところまで高めておく。目をつぶってでもできるようにしておく。そうすれば脳はそもそも疲れることがありません。
中学の頃に習う英単語や因数分解でも、うんざりするほど基礎の反復をやるでしょう。これが大事なんですよ。そのときに重要になってくるのが指導者の人間。英語や数学の授業がなぜ退屈だったかというと、教える側が「なんのために繰り返すか」を理解しないまま教えていたからだと思うのです。
スポーツでもそうでしょう。試合前のルーティンやデータチェックなど、「事前の作業」をきちんとやっておく。こういう事前の作業や基礎の反復を続けられる人が、野球なら高い打率を残せるし、他の分野でも結果を出せると思うのです。
実は、今日も一件手術があったのですが、「器械出し」という作業を担当する看護師が若手だったんですね。そういう日は、オペに必要な器材がすぐに出てこないこともある。指導者はもちろんいますが、なんとなく体が「今日は気をつけないといけないな」と拒否反応を示すことがあります。すると周りも引きずられてしまい、気遣う場面が増えてしまうわけです。
本筋とは外れた周りのことに頭を使うと疲れてしまいます。そういうときには手術中に必要になりそうなものはすべて事前に準備しておいてもらい、待ち時間のストレスをつくらないようにする。私は中学生や高校生向けに講演をすることがあるのですが、よくこんなことを聞きます。
「今までの人生の中で、明日テストでもいいと思って受けた経験のある人いる?」
すると、「ある」と答える子がほぼいないんですよ。おそらく大人も同じです。山本五十六がしきりに言っていたことに「常在戦場」という言葉がありますが、「いつでもいいよ」と言えるくらい、すべてに対して準備ができている現代人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
■外科医は15分の合間にトイレの個室で眠る
次に着目すべきは「睡眠」です。人は、人生のうち4分の1か3分の1は寝ているわけです。何を食べるかというのは自己責任の部分が大きいけれども、睡眠はどうしようもない部分が大きい。幸い、我が順天堂医院にも「睡眠・呼吸障害センター」があります。いらぬ躊躇はせずに、医療機関はどんどん活用してほしい。
なぜ日本は国民皆保険制度なのか。それは、国民が極端に健康を害し、労働や納税や政治参加といった憲法で定められた国民の義務を果たせなくなる前に治療を受けてほしいからなんです。
だから毎月国民の皆さんに保険料を支払っていただいている。それは精神科や心療内科でも同じことなんです。今どき、そんなことは誰も気にしていないのに、周囲の目を気にするのはよくない。最近は睡眠障害の外来に行くと、傍目には眠っていても歯ぎしりやいきみによって、眠りの深さが十分でないことなどを数値化して、その度合いを示してくれます。
低酸素に至る無呼吸症候群に悩む人も多いです。すると、昼間の行動に影響したり、不整脈の原因になることもあります。女性の場合、生理不順や貧血を引き起こすこともある。睡眠はそれくらい重要なのですから、手遅れになる前に治療を受けてしまえばいいのです。
私も含め、外科医はほんのわずかな空き時間を見つけては寝ています。手術が立て込んでいても、合間に横になって足をあげ、目をつぶって深呼吸すれば15分はしっかり眠れます。
トイレの個室で弁当を食べる学生がいるじゃないですか。さすがに外科医で食う人はいませんが、コーヒーを1杯飲んでトイレで寝る人はよくいます。カフェインが体に入り、効能を発揮して血流がよくなり始めるのが約30分後。つまり仮眠から目覚めた頃にちょうど効き始めるのです。
■感情を表に出すとき独りよがりにならない
私は人生で眠れなかったという経験がありません。若気の至りで当時勤務する病院で上司から解雇を告げられたときも、疲れていれば眠れました。
陛下の手術前日も平常心でした。あの日は東大病院の検討会に行き、帰りに湯島にある行きつけの寿司屋に行こうと思ったのですが、当時はノロウイルスが流行していましたから、ここは素通りして400メートルほど先のイタリアンに行きました。
その日は普段通りの時間に寝て、いつも通り朝5時に目覚め、テレビでぼんやりみのもんたさんの「朝ズバッ!」を観ていました。すると、昔の私の教え子が上皇陛下の手術の解説をしているんですよ。6時になると、今度はNHKで元同僚がまたそれらしい解説をしている。「好き放題言いやがって」と思わないこともなかったですが、冷静さを取り戻して予定通りの手術を終えることができたのです。
というのも、私は常日頃から喜怒哀楽の感情を出さないようにしています。私が感情をむき出しにするのは、仲間内でゴルフをするときだけです。バーディーを取ったら喜ぶし、ダフってしまったり、簡単なパットを外したりしたら時には叫ぶこともあります。マナー的にはよくないですが……。
逆に言えば、そのように自分を吐き出す場を確保できているからこそ、普段、感情を抑えられているのかなと思います。ちなみに、まだホールインワンは決めたことがありません。そのときは大喜びしますよ。
40代までは、おだてられて自分が主役になるのが嬉しかった時期もありました。しかし、ある時期から、「こいつのおかげで手術が成功した」「おまえさん、助けてくれてありがとう」と手柄を周りに渡すようになったのです。すると相手のやる気も高まってくるし、自分自身の気分もよくなる。そうやって周りに手柄や成功体験を渡すと、妙に冷静にふるまえる自分がいることをもう1人の自分が見つけるのです。
心臓の手術というのは、1人の患者に対して200人近い人間が関わっています。外科医や看護師は言うまでもありませんが、病院の受付から、警備員さん、給食のコックや清掃員の方まで含めると、それだけの大人数が動いているのです。
つまり、200個の歯車があるということになります。真ん中の一番大きな歯車は執刀医。それは事実です。しかし、終始真ん中に居続けてはいけないのです。手術が終われば、その後の回復過程において重要なのは看護師や薬剤師。彼らの歯車がきちんと噛み合う場面を見届けながら、自分は真ん中から次第に離れ、最後は端っこに移り、動かないようにする。すると、私自身の負担も減っていく。ターニングポイントを若い医師、臨床工学技士や麻酔科医たちに渡していくと、チーム全体の雰囲気もよくなってくるのです。
■拒否反応がないのなら受け入れてみてもいい
私はこれまでに約9000例の心臓手術を行ってきました。その過程で気が付いたことは、どんな場面でも平常心を保っている人は、実は「信仰」に心を支えられていたりする。私自身も宗教に誘われることが多く、少し勉強したりもしました。
「普遍的な教え」というものは、突き詰めていくと、ほぼすべて一緒なんです。格式の高いものに触れると、自分自身もいい影響を受けられるという側面は必ずあります。
恋人やパートナー、あるいはメンターといった即物的な存在で足りる人はそれでいい。しかし慣れてしまったり、飽き足らなくなったり、それで収まらなくなった人は、アニメの主人公や人間が商業化の過程で作り出した存在に向かうこともあるわけですが、そうではなく人間の原点というか、宗教などの原風景に触れてみるというのも、実は脳を休めるという観点では有効と考えます。しかし、直観的に「気持ちが悪い」と思うなら、受け入れる必要はありません。けれども、「これならなんだか気持ちよく受け入れられるな」という宗教があるのなら、のめり込まない程度に1度は受け入れてみるのもいいのではないでしょうか。
■安心感を与え、治療に対して前向きになってもらう
これは今日のオペで悟ったことなのですが、私にもいつかメスを握れなくなる日が来ます。その日をどうやって決めるかですが、それまで仲間としてずっとやってきた人がいなくなったら、そのときが潮時なのではないかなと思っています。チームとしてではなく、個人のパフォーマンスだけでやっているなと感じたときには外科医を辞めることになるでしょう。
2022年、地方大学を出た1人の女性医師が研修医を経て、私のもとに志願して入ってきたんです。
「うちの科なんか来たら、普通の女性の生活ができないからやめておけ」
私は3回、必死に説得したのですが、それでも入ってきた。この彼女が、今日のオペで初めて足の静脈をきちんと1人でとってくれた。「ああ、オレにもこういう時期があったな」と感慨深いものがありました。
この子が1人でオペができるようになったら、そのときが「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」となるのかなと、そんなことをまさに今日思いました。
しかし、つい最近までは外科医を辞めるときが医者も辞めるときだと思っていました。ところが、「先生と話すと元気になれるんだよね」と言ってくれる患者さんがおられるわけです。そういうふうに言っていただけることはありがたいし、そこで医者としての務めを果たせるのならそれも1つの生き方だなと。医者が患者さんに対して初めにできることは、安心感を与え、治療に対して前向きになってもらうこと。オペをするのはその後の話なのです。
企業経営者にもよく見られるパターンですが、長いことうまくいっている会社というのは社員に手柄を与えます。成功体験を周りにさせることにより、自分自身も冷静でいられるし、周囲のモチベーションも高まる。それにより、自分自身の負荷を減らし、背負うものがない状態にしていく。それが、自分自身の脳を疲れさせない秘訣なのではないかというのが私の結論ですね。
①頭で考えず、無意識的にできるまで、反復を繰り返す
②睡眠に悩んだら、躊躇などせずに医療機関を受診する
③時間があれば、トイレの個室でもいいので睡眠をとる
④喜怒哀楽の感情を表に出せる場を確保する
⑤部下など自分以外の人間に、手柄や成功体験を譲り渡す
⑥宗教など、「普遍的な教え」や「原風景」に触れてみる
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心臓血管外科医
1955年、埼玉県蓮田市に生まれる。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)、新東京病院(千葉県松戸市)などで心臓手術に従事。1997年、新東京病院時代の年間手術症例数が493例となり、冠動脈バイパス手術の症例数も350例で日本一となる。2002年7月より順天堂大学医学部教授。2012年2月、東京大学医学部附属病院で行われた上皇陛下(当時の天皇陛下)の心臓手術(冠動脈バイパス手術)を執刀。心臓を動かした状態で行う「オフポンプ術」の第一人者で、これまでに執刀した手術は9000例に迫り、成功率は99.5%以上。主な著書に、『熱く生きる』『100年を生きる 心臓との付き合い方』(オンデマンド版、講談社ビーシー)、近著に『若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方』(講談社ビーシー/講談社)、『天職』(プレジデント社)がある。
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(心臓血管外科医 天野 篤 構成=タカ大丸 撮影=藤中一平)
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