日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由
プレジデントオンライン / 2022年7月9日 12時15分
■「旅行の先々で、奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見た」
天正十年(一五八二)二月、
そのヨーロッパ旅行記は、『天正遣欧使節記』
「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌(さば)かれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫(れんびん)の情を催さない者があろうか」
情報通の豊臣秀吉は、このような日本人奴隷の海外への大量流失について問題視していた。最下層からはい上がった秀吉は、大名出身者にはない危機感があったのだろう。
■豊臣秀吉がキリスト教を禁止した理由
彼が九州出陣中に発令したバテレン追放令に関連する史料(天正十五年六月十八日付覚、全十一条)には、次のような国内外を対象とした人身売買禁止令(第十条)が含まれている。
秀吉の出陣によってもたらされた九州における戦国終焉(しゅうえん)の結果、おびただしい戦争奴隷を生み出した。それが中国・南蛮(東南アジアをさすのであろうが、ヨーロッパにも日本人奴隷はいた)・朝鮮国に売り飛ばされていたことが、この禁止令の前提にある。
翌日付でバテレン追放令が発令されていることからも、イエズス会やポルトガル商人が奴隷売買に関与した疑いを、秀吉がもっていたとみてよい。
宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、秀吉が「予は商用のために当地方(博多)に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剝奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている」と語ったという。
■日本人は「商品」としてポルトガル商人に売られた
また別の箇所では、「彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと、二束三文で売却した」などと、生々しく戦争奴隷の実態を記している。
これらからは、島津軍に敗れた大友領の民衆が、たちまち人盗りの餌食になったことがわかる。逃げ惑う女性や子供を拐(かどわ)かして、それをきわめて安値で購入したポルトガル人や東南アジア人の商人によって、国外へと売り飛ばされていったのだ。
秀吉は、人身売買禁止令をはじめバテレン追放令や海賊禁止令(初令)といった画期的な全国令を、九州の地から次々と発令した。従来これらは、国内法として理解されてきたが、同時に外交を意識したものであった。
大航海時代の立役者であるポルトガル人は、危険を冒してインドから中国を経て日本へと各地に拠点を設けていった。宣教師たちも含めて、彼らは人種差別を常識としており、黒人などの奴隷を使役していた。そのような状況のもと、日本人は「商品」として彼らの拠点に売られていったと推測される。
ヴァリニャーノは、日本人が「きわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由に耐え忍ぶ」ことに驚嘆している(『日本巡察記』)。このような特徴に、ポルトガル商人が着目したのかもしれない。
■東南アジアに作られた日本人町
続いて、なぜ東南アジアに日本人の戦争奴隷が向かったのかについてふれておきたい。
例えば、最盛期には1000~1500人が居住したといわれるタイのアユタヤ日本人町は有名であるが、一四世紀中期から一八世紀頃まで、東南アジアにおいては広く日本人町が形成されていた。
戦国時代から織豊時代にかけて、主家の敗戦によって発生した大量の牢人たちが、日本を離れて東南アジアの日本人町に移り住んだことが知られている。
彼らは勇猛な傭兵として軍事力と経済力を蓄えており、アユタヤ国王に重用され日本人町の自治を支えたといわれる山田長政がその代表である。
ここには日本人女性が少なかったため、また当時盛んだった男色の需要に応えるかたちで、日本人戦争奴隷の受け入れ先になったのではなかろうか。海外への傭兵の大量拡散が、同時に戦争奴隷の日本人町への流入を促進したのであろう。
■戦争の実態は人盗り、物盗り
中世において戦争は、常に人盗り・物盗りを伴うものであった。これこそ、軍隊の大部分を占めた百姓あがりの雑兵たちの目的だった。
これに対して、天下人たちはその禁止を掲げた。近世大名軍隊は、「公儀の軍隊」たることが義務づけられ、粛々と行軍して戦場に向かい、陣立書にもとづき戦闘を遂行することになっていたのである。
信長の晩年以来、軍法によって町や村などへの狼藉行為などは厳禁されたのであるが、秀吉の天下統一戦において禁圧することはできなかった。朝鮮出兵においては、朝鮮国の学者、陶工などの職人をはじめ、一般民衆も含めて日本国内各地に拉致した。
例えば、藤原惺窩に儒学(朱子学)を伝授した朝鮮人儒者姜沆(カンハン)の幽閉、有田焼・薩摩焼をはじめとするすぐれた陶磁器の誕生などが知られる。
それでは、人身売買禁止は戦国の終焉を告げた大坂の陣までに実現したのだろうか。
大坂夏の陣直後の元和元年五月、醍醐寺僧侶の義演は戦場で「女・童部」の掠奪が多発していることを書き記している(『義演准后日記』)。
■屏風絵に書かれた上半身裸で命乞いする女性の姿…
これに関連して、人盗り・物盗りの現場を描いた生々しいシーンが、黒田屏風として知られる大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)に描かれているので紹介しよう。それは、大坂落城の悲劇が活写された左隻に認められる。
そこには、華やかな小袖を着た若い娘が、なんと徳川氏の三つ葉葵紋の指物を差した雑兵たちに両手を取られて、今まさに拉致されようとしている。「公儀の軍隊」であるはずの幕府軍が、この為体(ていたらく)なのである。
続いて描かれているのが、神崎川を越えて北摂の郷村地域に避難しようとする民衆に襲いかかる野盗や追いはぎたちである。彼らが、幕府方の雑兵である可能性は否定できない。上半身裸の女性が彼らに命乞いする姿は、誠に哀れである。
大坂夏の陣の翌年にあたる元和二年(一六一六)十月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。
ここで人身売買は一切禁止とし、もしみだりに取引した者は売損・買損とされ、かどわかし売りについては、売った者は死刑と定められたのである。
この法令は、従来の解釈のような元和偃武が実現したことにあわせて、はじめて幕府が発令したものではなく、以前からの法令を改めて出したものとみられる。これには、関連する同年十月二十九日付朽木元綱宛板倉勝重書状(『朽木家文書』)がある。
■江戸幕府も人身売買を厳禁としていたが…
京都所司代であった板倉勝重は、京都でかどわかされて売られた女性たちについて、先年のごとく近江国でも女改めをするように将軍徳川秀忠から仰せつけられたので、領分でも若狭に抜けてゆく女性たちについては改めるようにと朽木元綱に指示し、あわせてかどわかされた「十五歳より下」の男童部(わらべ)についても改めるように依頼している。
なお、朽木氏とは近江国朽木谷(滋賀県高島市)で九千五百九十石を領した大身旗本である。
女性に対する改めとは、具体的には関所で「手形」すなわち女性の通行許可書である女手形の所持をチェックすることである。女手形は、江戸幕府の草創期から大留守居(幕府の職掌で大身旗本が任じられた)とは別に、朝廷や豊臣氏に対する監視と折衝が任務であった京都所司代も発行していた。
これまで京都所司代の発行した最古の女手形は、元和七年二月十日付で勝重の嫡男重宗が「京都より佐渡まで女改奉行衆」にあてたものとされてきたが、先の勝重書状案によって、元和二年十月以前から発行されていたことが判明した。
この初期史料からは、近江国において元和二年を画期として人身売買の禁止が強化されたことがうかがわれる。同年十一月には、元綱の子息宣綱が朽木氏領内の女改め関所の様子を将軍徳川秀忠の年寄衆に伝えたことがわかる。
女性や男童部の改めとは、具体的には関所で検問して、女手形を所持していない女性や不審な男童は拘留し、詮議のうえ売買が明白な場合は解放することである。
勝重が、かどわかされ売買された女性や男童部が京都から若狭へ向かっていると認識していることから、大坂の陣によって大量に発生した戦争奴隷が若狭小浜などに集められ、東南アジア方面に売り飛ばされた可能性を示唆するであろう。
バテレン追放令から二十年を経ても、事態はなんら変化していなかったのだ。
■泰平の世になっても存続した「女改め関所」
かどわかしたのは、外部から侵攻してきた幕府軍関係者とみなければなるまいが、深刻なのは翌年になってもこのような事態が終息していなかったことである。
東軍に属した大名たちはとうに帰国していたはずだから、「商品」となっていた女性や男童部が京都に相当に滞留しており、その一部が海外市場をめざして若狭へ送り込まれていたとみられる。
ここで、京都から若狭へと向かう街道沿いに設けられた女改め関所とその周辺を描いた絵図が伝存しているので掲げたい。それが、内閣文庫『朽木家古文書』下巻に収録された「近江国高島郡之内朽木兵部少輔(宣綱)領分朽木谷之絵図」の表題をもつ絵図である。
これは、縦70センチ・横81センチの方量で、全体に朽木領が描かれ、近江国今津から若狭国小浜に抜ける九里半街道沿いの山中村(滋賀県高島市今津町)に設けられた関所(山中関)が柵によって簡略に描かれ、その下に「女改御関所」と注記されている。
本絵図については、「内閣文庫が所蔵している江戸幕府関係古文書類の中に混入していたもの」と指摘されている。おそらくは、朽木宣綱が領内の関所の様子を知らせるために幕府に提出したものとみてよいだろう。
朽木領に設けられた女改め関所が、江戸時代を通じて存続・機能していたことからも、戦後処理のための時限立法とみられてきた元和二年十月の人身売買禁止令の評価については、再考の余地が生じる。
■「鉄砲伝来」が日本人奴隷の海外流失をもたらした
それにしても、大航海の時代の到来によって、国内の戦禍がそのまま海外へと不幸を拡散したことは深刻である。
鉄砲伝来とその普及が、農村の若者の傭兵化を促進し戦争を大規模化させた。その結果が、大勢の日本人奴隷の海外流失へとつながったのだ。二度と故郷へは帰れない大勢の女性や子供たちの存在が、そこにはあった。
「公儀軍」だったはずの幕府軍が、禁止されていた人盗り・物盗りを堂々とおこなっていたのは象徴的である。
厳禁していた人身売買も、あくまでも建前だったとみざるをえない。拙著『戦国日本の軍事革命』で詳述したように、誕生したばかりの近世大名軍隊も、実態的には中世の軍隊がもつ野蛮性を十分には克服できないまま、天下泰平が訪れたのであった。
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三重大学教育学部教授
1958年(昭和33年)、愛媛県に生まれる。1987年、神戸大学大学院博士課程修了、学術博士。同年、神戸大学大学院助手。1993年、三重大学教育学部助教授。2003年、同教授。2015年、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授兼任。専攻は日本近世国家成立史の研究。著書『天下統一論』(塙書房)、『戦国日本の軍事革命』(中公新書)など多数。
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(三重大学教育学部教授 藤田 達生)
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