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なぜタカラジェンヌは「女優」ではなく「生徒」と呼ばれるのか…創始者・小林一三が見抜いた「日本人」の欲望

プレジデントオンライン / 2022年7月13日 13時15分

閉会式に登場した宝塚歌劇団(=2021年8月8日、東京・国立競技場) - 写真=AFP/時事通信フォト

宝塚歌劇団の舞台に立つ演者「タカラジェンヌ」は、伝統的に「生徒」と呼ばれる。大東文化大学の周東美材准教授は「創始者の小林一三は、少女たちを演技者ではなく、あくまでも未熟な生徒として売り出すことにこだわった。それがここまでの人気につながったのだろう」という――。

※本稿は、周東美材『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■阪急の開発事業の一環として誕生

宝塚少女歌劇は、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の開発事業の一環として創設された。まずはその設立の経緯から見ていこう。

1907(明治40)年、34歳の小林一三は、創立したばかりの箕面有馬電軌の専務取締役となり鉄道事業に参入していった。彼はそこから、鉄道経営を中心とした都市・住宅・観光地の開発事業を展開し、やがて阪急百貨店、宝塚歌劇、阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)、東宝などの各種メディア事業を連動させ、阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)を形成していくことになる。この若き経営者の最初の事業が、箕面有馬電軌の経営だったのである。

鉄道の開発計画は、大阪・梅田から箕面をつなぎ、さらには池田を経て宝塚、温泉地・有馬までをつなぐという遠大なものだった。だが、当時の箕面や宝塚の一帯は寒村そのもので、特別な名所や旧跡に恵まれているわけではなかった。山林や田畑のなかを突き進むという無謀な計画では乗客は見込めず、とても採算が合わないだろうと、大量の株が売れ残るありさまだった。

■家族向けの観光地として宝塚エリアに目をつける

この鉄道にとって当面の課題は、沿線の観光地化を進めることによって、遊覧電車として利用客の心を掴み、経営に弾みをつけることだった。そのためにまず着手されたのが箕面地域の開発であり、なかでも1910(明治43)年に開園した箕面動物園は賑わいを集めた。この動物園の成功は、子どものいる家族をターゲットにした施設やイベントが沿線開発の鍵であることを示す前例となった(伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』ミネルヴァ書房)。

小林一三は、箕面開発の余勢を駆りながら、家族向けの誘客策を徹底することで宝塚の観光地化を進めていくことになる。古くから宝塚は、温泉地として知られてはいたが、鉄道の乗客を呼び込むためには新たな観光資避暑源が必要だった。

そこで彼は1911(明治44)年5月、宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を新設、翌年には洋館の娯楽場「パラダイス」を開業した。宝塚新温泉は、湯治客や温泉芸者が集まる旧来の温泉街とは異なり、瀟洒な建物、大理石の浴場、婦人化粧室、運動場、珍しい機械を導入したアミューズメント施設などを売りにしていた。

ファミリー向けの誘客策を徹底することで、宝塚は、親子連れの人気観光地として急成長し、沿線開発の資本が宝塚に集中していった。そして、次なる一手として小林が企画したのが、パラダイス劇場を利用した宝塚新温泉での「余興」だった。

■1期生は小学校を出たばかりの少女16人

宝塚新温泉では、1913(大正2)年7月、温泉客のための「余興」として少女に唱歌や「歌劇」を披露させることが計画された。これにより小学校を出たばかりの少女など16名が第1期生として採用され、「宝塚唱歌隊」なる団体が発足した。

この唱歌隊は東京音楽学校を卒業した安藤弘・智恵子夫妻、高木和夫が歌とピアノの指導にあたり、同年11月にはお伽話を芝居に仕組んで演出した「お伽芝居」の創作・普及に尽力していた高尾楓蔭(たかおふういん)と久松一聲(ひさまついっせい)が、演劇・振付の指導者として追加招聘された。「歌劇」という未知なる西洋文化は、まずは既知の学校唱歌やお伽芝居という表現方法を経由して事業化されていったのである。現在の宝塚歌劇団の姿とは大きく異なっていることが想像できるだろう。

■わらべうたや三味線音楽を西洋風にアレンジ

宝塚唱歌隊は1913(大正2)年12月、宝塚少女歌劇養成会と改称され、その第1回記念公演が開かれたのは、1914(大正3)年4月のことだった。このときの演目には、北村季晴作曲《ドンブラコ》と、本居長世作曲《歌遊びうかれ達磨》が選ばれた。いずれも1912(明治45)年に東京で初演されていたもので、日本のわらべうたや三味線音楽を西洋音楽の和声に調和させるなど、和洋折衷の歌劇を目指して試作された演目だった。

創設当初の宝塚少女歌劇には、まだ自前の歌劇を創作する準備が整っていなかった。そのため、すでに発表されていた本居長世らの演目を借用し、初舞台を迎えたのだという。

明治末期から昭和初期にかけて、こうした歌劇は「お伽歌劇」と呼ばれ、レコードや百貨店など各所で人気を博していた。このようにして宝塚ではお伽芝居をオペラ風に演じるという基本路線が定まり、「宝塚少女歌劇団と改名して旗上げ」することが決まったのだった。

■“和洋折衷スタイル“はこの頃から確立されていた

初公演で《ドンブラコ》などの既成曲がひとまず上演された後、宝塚では舌切雀、中将姫、猿蟹合戦、花咲爺、瘤取物語、文福茶釜などのお伽話や歴史物語を素材にしたお伽歌劇が創作されていった。これらのお伽歌劇は、西洋音楽をベースとし、歌舞伎のような旧劇の長所を改良しながら融合させたもので、西洋直輸入のグランド・オペラとは異なる、和洋折衷的な性格が強調されていた。

小さな湯の町に花開いた宝塚少女歌劇は、大いに評判を集めた。その事業を拡大していくために、劇団はまず、三好和氣、原田潤、楳茂都陸平(うめもとりくへい)、坪内士行、岸田辰彌といった気鋭の芸術家を入団させていった。

次に、1919(大正8)年には宝塚音楽歌劇学校を創立し、文部省の認可を得て学校という枠組みを事業に組み込んでいった。学校という制度とイメージをモデルにした小林一三の事業は、箕面有馬電軌所有の豊中運動場から始まり、後に「国民的」なメディア・イベントとなる甲子園野球にも取り入れられていくことになる。

劇団はさらに、1921(大正10)年には専属オーケストラを設置、1924(大正13)年には4000人収容の大劇場を完成させた。NHK交響楽団のようなプロのオーケストラが日本で成立するのは1920年代半ばのことであるから、宝塚がいかに先駆けていたかがわかるだろう。1910〜1920年代の日本社会において、西洋音楽の創作・発表の場はごくわずかしかなかったので、定期的な公演機会のある宝塚少女歌劇は、若き俊英にとってもきわめて魅力的な職場だった。

優しいタッチでクラシックの楽曲をピアノで弾く女性の手元
写真=iStock.com/dima_sidelnikov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/dima_sidelnikov

■思いつきの余興団体が“国民的スター集団”に

以上のような「宝塚情緒」とスタッフ・施設を可能にしたのは、郊外のニュータウン開発事業という物理的・技術的基盤である。

当時の観衆のひとりが、「僕は歌劇は宝塚みたいな田舎に芽生したればこそ今日の発達をなし得たのだと思ひます 宝塚にあつたればこそ!」との所感を記したように、宝塚少女歌劇は、大阪のような大都市ではなく、新たに「田舎に芽生した」ものだった(金子生「高声低声」『歌劇』1918年11月)。

小林一三は、郊外という適地を得ることで近世以来の興行慣行や温泉街の花柳界の慣習などに束縛されず、更地のうえにゼロから巨大な娯楽空間を築き上げることができたのである。

小林一三の少女歌劇は、当初、「イーヂーゴーイングから出発した」気楽な思い付きに過ぎなかった。だが、この計画は、お伽歌劇という独自の形態を生み出すことで、予想を超えた商業的な成功を収め、各地へと拡散することになった。すなわち、日本社会は、オペラという外来音楽を〈子どものパフォーマンス〉として消化していったのであり、そうした変容に具体的な輪郭を与えたのが、都市空間を再編する鉄道というコミュニケーション(交通)のテクノロジーと資本だったのである。

■「未成品」であることを何より重視した理由

小林一三は、正統なオペラの代替品として、不本意ながらお伽歌劇を上演していたというわけではなかった。むしろ彼は、家庭向けの事業計画を徹底するために、お伽歌劇を積極的に上演すべきだと考えていた。

作曲家の安藤弘などは、お伽歌劇のごとき「女子供のアマチュアの遊戯」ではなく、芸術的にもっと高度な「男女本格歌劇」の制作を要望していたが、小林は「芸術家として燃ゆるがごとき信念も、(中略)結局空論に終らざるを得なかった」と、芸術家としての理想よりも、営利企業の経営者としての判断を優先した(小林一三『逸翁自叙伝』講談社学術文庫、200頁〜201頁)。

小林一三は、自らの宝塚少女歌劇を「未成品」としばしば表現し、その存在意義を主張した。たとえば、東京の帝国劇場での出張公演に際して、彼は次のような自説を開陳している。

■「すこぶる幼稚なる、未熟なる」からこそ支持される

歌劇とは申すものゝ、頗る幼稚なる、未熟なる、其理想の一部分すらも表現し得ない我少女の芸術を、東京の本舞台に於て、智識階級の観客の前に提供して御批評を願ふといふことは頗る大胆な行為であるかもしれません。清新にして趣味ある芸術であると広告めいたことは、時々申しますものゝ此未成品を丸出に、決して満足して御高覧に供して居る訳ではありません。

只だ、斯るものが時世の要求である。即ち、『必要品である』といふ条件を具備しなければ何物も存在し得ぬ道理の上に立て、斯る未成品の宝塚少女歌劇すらも、今や必要品として生存しつゝ発達しつゝある時代の要求に対して各位の御指導と御教示とによつて、益々是を向上せしめ、其進運に伴ふ芸術の効果を得たいといふのが目的であります。(小林一三「日本歌劇の第一歩」『歌劇』1918年8月)

幼稚で未熟な少女歌劇は、自分の理想の一部分さえも実現できていない「未成品」であり、そのことに満足しているわけではない。だが、そういう「未成品」が「時世の要求」となっており、「必要品」となっているのだと、小林一三は東京の知識層の観客たちに向けて主張した。かつて演出家のG・ローシーが日本に本格的なオペラを輸入しようとして失敗に終わったのに対して、宝塚の「未成品」が大いに繁盛していることに、小林は自信をみなぎらせていった。

■「少女たちは女優ではなく、あくまでも生徒である」

日本の観客が求めているのは「未成品」であると直観した小林一三は、少女たちをあえて「生徒」と呼び、彼女らの公演は学校での学習成果の実演であることを強調していった。そもそも「ドレミ」でできた舶来の音楽は庶民の日常に密着したものというよりも「学校で習うもの」というのが、当時の社会通念でもあった。

そこで小林は、宝塚音楽歌劇学校の校長に就任して、勉強、服装、外出時のマナーなどあらゆる面で少女たちの学校生活を管理し、厳しい風紀を維持した。また、少女たちは、高等女学校の女学生になぞらえられ、そうすることで、従来の温泉芸者や役者とは異なる演技者のステータスを得ることができた。実際、宝塚少女歌劇では、俳優業に要求された鑑札が免除されていた。

「少女たちは職業的な演技者ではなくあくまでも生徒である」という建前は、従来の演技者、とりわけ「女優」との差別化を果たすうえでも重要だった。当時、女優という職業は、スキャンダラスなもの、性的なもの、卑しいものとして蔑まれることが多かった。たとえば、《カチューシャの唄》の女優・松井須磨子は既婚者である島村抱月と恋愛関係にあったためにバッシングに晒されていた。

■観客側も「いつまでも女優臭くないように」

女優は、主婦のように家を守る女性とは考えられておらず、社会の規範から逸脱する過剰さをしばしば含んでいたのである。だが、家庭向けを強調する宝塚は、こうした女優のイメージが少女たちに差し向けられることをなんとしても回避する必要があった。

そこで、宝塚の生徒たちは女学生のような良家の出身であり、セックス・アピールを伴わないというイメージを前面に打ち出した。そして小林一三は、退団後の少女たちにも、芸道に生きることを否定しないまでも、基本的には芸術的素養のある家庭の妻となり、母となることを期待した。

観客も、「彼女達は或る人の云ふ如く女優ではありません女生徒であるのです」と受け止めていた(南雛作「彼女達の将来に就て」『歌劇』1919年4月)。生徒に少しでも女優の雰囲気を感じ取ったなら、「篠原サンや高砂サンが将校マントを得意気に着て居られるのは何だか女優臭くつて厭です」と難癖を付け、「是非皆サンは何日迄も何日迄も女優臭くない様にお願します」と念を押すことになったのである(弓子「高声低声」『歌劇』1919年1月)。

宝塚バウホール
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

■求められていたのは「清く正しく美しく」ではなく…

宝塚歌劇団の有名な標語に、「清く正しく美しく」がある。これは、独身の女性だけを演技者とする宝塚のコンセプトを表現したものとしてしばしば理解されている。だが、1910年代から1920年代にかけての宝塚少女歌劇をめぐる記事や批評のなかに、このフレーズはまず見当たらない。というのも、この標語が成立するのは、1933(昭和8)年ころのことだからだ(川崎賢子『宝塚』岩波現代文庫、112頁〜115頁)。

周東美材『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』(新潮選書)
周東美材『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』(新潮選書)

ある観客は初期の宝塚少女歌劇の持ち味を表現したフレーズとして「宝塚 無邪気な足を 高くあげ」との川柳を紹介している(船頭子「高声低声」『歌劇』1921年7月)。このように、初期の宝塚少女歌劇とその生徒を形容するキーワードとして頻繁に用いられたのは、「無垢」、「無邪気」、「可愛い」、「あどけない」、「素人」、「幼稚」、「子どもらしい」、「家庭本位」、そして「未熟」といった語であった。これらが、「宝塚情緒」や「宝塚型」を形作る要素でもあった。

たとえば、著名な音楽学者である田邊尚雄は、「雲井浪子を始めとして錚々たる立役者でも、実に清浄無垢高潔なる処女として尊敬すべきものである。東京の女優に通じて見る如き虚栄心なく、頽廃的気分なく、三十余名の学生は実に温かき一家の家庭である」とし、「清浄無垢」であることが宝塚独自の魅力だと評していた(田邊尚雄「日本歌劇の曙光」『歌劇』1918年8月)。

このようにして和洋折衷の無邪気なお伽歌劇は、未成品ながらも、西洋直輸入のグランド・オペラやほかの劇団とは異なるものと見なされて、「宝塚情緒」や「宝塚型」という独自の魅力が見出されることになったのである。

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周東 美材(しゅうとう・よしき)
大東文化大学社会学部准教授
大東文化大学准教授。1980年群馬県生まれ。早稲田大学卒業、東京大学大学院修了、博士(社会情報学)。大東文化大学社会学部准教授。著書に『童謡の近代』『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著)などがある。

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(大東文化大学社会学部准教授 周東 美材)

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