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天安門事件以降、日本は中国になめられている…外交官の部屋を蜂の巣にされた日本政府の"弱腰すぎる"対応

プレジデントオンライン / 2022年7月20日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Radka Danailova

1989年の天安門事件のわずか3日後の6月7日、北京にある日本の外交官のアパートが中国人民解放軍によって銃撃されるという事件があった。日本は中国政府に抗議したが、中国の反論に遭った日本は“弱腰すぎる”対応に終始した。北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――。

■天安門事件の3日後に北京の外交官アパートが銃撃された

防衛駐在官(武官)の笠原直樹はその時、北京のメーンストリート・長安街に面した外交官アパート「斉家園外交公寓」の自宅にいた。

「お父さん、解放軍が通るよ」。子供が呼んだ。

笠原が窓際に出てみると、兵士を満載したトラックの縦隊がゆっくり東へ向かっている。時々パン、パンと威嚇射撃をしている。笠原は空砲のようだと感じた。

「部隊交代で帰って行くんだな。よしビデオでもとるか」

笠原は、8日に避難のため一時帰国する妻に、撮影したビデオや写真を持たせて、陸上幕僚監部に届けるよう頼んでいる。

天安門広場から長安街沿いに東に向かって永遠に続くような軍用トラック100両以上の長い列だ。トラックに乗った兵士が、建物に向かって無差別に乱射した。

ビデオを撮っていると電話がかかってきた。政治部のチャイナスクール外交官、佐藤重和からだった。

「武官。今、建国公寓(建国門外外交公寓)が撃たれましたよ」
「空砲でしょ」

「空砲なんかじゃないですよ。実弾です」。ガチャンと電話を切られた。

「おかしいな。なぜ実弾を。それも外交官アパートに撃ったんだろう」

笠原は急いで大使館に向かった。大使館は大騒ぎで、別の外交官アパート・建国門外外交公寓に住んでいて自宅を撃たれた館員が興奮した様子で説明している。幸いにも誰もケガ人はいなかった。

「しかし許せない行為である」

■16発もの銃弾を部屋に撃ち込まれた大使館員も

被害が大きかったのは、広い敷地に十数楼の中層アパートが立ち並ぶ建国門外外交公寓のうち長安街に面した1号楼(9階建て)。後に日本大使館が中国外交部に提出した抗議書に添付された資料によると、館員12人の自宅の窓や壁、天井、カーテン、エアコン、絨毯などが被弾した。

最も被害が大きかったのは、日銀から出向していた露口洋介書記官の7階の部屋で、16発の弾丸が確認された(中島大使発外相宛公電「外交部への申し入れ[館員住宅の被災]」1989年6月16日)

露口は既に大使館に出勤した後だった。自身は独身で妻子はおらず、「阿姨(アイ)」と呼ばれる中国人の家政婦もバスが動かず出勤していなかったため、幸いなことに部屋には誰もいなかった。露口はインタビューに当時をこう回想する。

「普通に大使館で仕事をしていて朝10時頃、バリバリという音がした。本当に大使館の窓の外で音がしているように聞こえたので、思わず伏せた。しかし何も起こらなかったので、何だったのだろうと思い、夕方帰宅したら家がボロボロだった」

「(外交公寓目がけて乱射された際に)部屋に家族がいた人もいた。他の館員の部屋では子供が窓から、『兵隊さんが走っている』と見ていたら、子供の上をビシッと弾丸が通り、弾痕が付いたと言っていた。うちの部屋には外壁も含めて30発くらい来た。窓にはめ込み式のクーラーがあり、それが撃ち抜かれて火花がパチパチと飛んで壊された。部屋の中の壁は跳弾でえぐれ、崩れた漆喰(しっくい)が散乱し、絨毯は漆喰だらけで使い物にならなくなった。床には何発か弾丸が落ちていた」

天安門
写真=iStock.com/fstockfoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fstockfoto

■干していたシャツの心臓部に穴が開いていた

家政婦は、外に洗濯物を干すと黄砂などで汚れるため、部屋の中に紐を吊るして掛けることにしていた。銃弾が撃ち込まれた当日、紺色のポロシャツはちょうど、人間の心臓の高さ辺りに掛けており、その日帰宅したら、ポロシャツの胸付近に弾丸が突き抜け、穴が開いていた。「ここに私が立っていたら死んでいたかもしれない」。露口は、ぞっとした。

その日夜(6月7日夜)、銃弾を受けて壁が穴だらけの外交公寓でいつもとは違う夜を過ごした。

「人民解放軍内部で内紛があり、内戦になるかもしれない」という情報が飛び交う中、すぐ前の建国門陸橋には多くの戦車が円を描くように配備され、外側に砲身を向けていた。「市の外側から攻めてきて撃ちだしたら外交公寓なんて全部吹っ飛ぶな」と館内で話をしていた。

「非常に怖かった。夜寝ている時、『寝たまま死んじゃうんじゃないか』とびびっていた。ガタガタ震えながら寝た記憶がある」。当時を振り返った。

■アパートを蜂の巣にしても絶対に謝らない中国政府

一貫していることがあった。日本の外交官らが住むアパートが無差別乱射を受けても中国側は一切、「申し訳ない」などと謝らなかったことだ。

日本大使館内では、「謝らない」中国側の姿勢に怒りが高まり、大使館員で最も被害を受けた露口は、畠中篤公使が外交部と交渉する際、同席させてもらった。日中国交正常化交渉で通訳を務めた畠中は経済担当公使だったが、総務部長も兼務していた。

「交渉をずっと聞いていて、絶対に謝らないと分かった」

露口はこう実感した。

久保田穣、畠中両公使は、乱射から2日後の6月9日、中国外交部の徐敦信アジア局長と1時間40分にわたり面会した。外交部からは、現在国務委員兼外交部長として中国外交をけん引する王毅・日本課長、大使館側からは総務部二等書記官の片山和之(現ペルー大使)が同席した。建国門外外交公寓1号楼に住む片山の部屋にも12発の弾丸が撃ち込まれた。

■銃撃は「戒厳部隊に向けた発砲への対応」と主張する中国

徐敦信は久保田らに対し、事件の状況について、一つは建国門外外交公寓方面から、もう一つは長安街を渡った対面の南にある工事現場から発砲があり、兵士1人が死亡し、3人が負傷したと明かした上で、戒厳部隊の銃撃はこれに対応したものだと説明した。さらに徐は、政府は迅速に措置をとり、外交官アパートから部隊を撤退させたとし、「外国の友人は中国のことに干渉しないよう希望する」と釘を刺した(中島大使発外相宛公電「中国政情[徐・アジア司長との意見交換]」1989年6月9日)

戒厳部隊に対して複数から発砲があったことへの反撃――。中国政府の主張を信じる西側外交官や特派員は当時から少なかった。

笠原直樹は2019年、筆者のインタビューに「(西側の報道機関が支局を置く)建国門外外交公寓の屋上からメディアの人がカメラで撮っていたでしょ。推測でしかないが、西側のマスコミが次々と報道するので、引き挙げる際に『襲撃を受けた』という理由にして『脅そう』としたのではないか。(カメラ撮影する記者らに対して)あそこから顔を引っ込めさせようとしたんじゃ」と語った。

■日本の「意図的発砲」との主張に不快感を表した中国

真相は不明なまま、畠中公使は6月16日、外交部に行き、徐敦信アジア局長、王毅日本課長と面会し、抗議の意を表す書面を手渡した。この中で日本大使館は外交公寓に対する発砲を「戒厳部隊蓄意槍撃」(戒厳部隊による意図的発砲)と断定した。

これに対して徐敦信は強く反応した。

「今次日本側申し入れにある外交団に対する『意図的発砲』との見方及びこれに関わる中国政府及び戒厳部隊に対する責任の追及については受け入れることができない」

その上で、「進行中の戒厳軍に対し建国門外外交団アパート及びその向かい側のビルから発砲があり真にやむを得ず反撃したというものである」と従来の説明を繰り返した。そればかりか日本側への不快感を露わにした。

「ちなみに他の外交団からも今次事件に関する抗議を受けているが、これを『意図的発砲』としたのはおそらく日本のみであろう」

中国と日本の国旗
写真=iStock.com/estherpoon
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/estherpoon

■中国側の強硬姿勢に日本は抗議を表沙汰にしなかった

畠中は徐敦信の頑なな強硬姿勢に腰が引けたのだろうか。徐から「本件申し入れ文書の内容をもし日本側が公表するのであれば、中国側としても上記文書に対し反論せざるを得ず問題解決が難しくなる恐れがある」と迫られると、こう応じた。

「右文書は公表せず、後日中国側正式回答を得た上で取り扱い振りを検討したい」

このやり取りは、前述の東京宛ての「秘」公電「外交部への申し入れ(館員住宅の被災)」に記載されたが、同公電ではこう但し書きが加わった。

「当館としては現段階で本件を文書で申し入れたことが明らかになり、文書の内容、先方の反応等について外部の関心を呼ぶことはかえってわが方の対応を難しくするので、少なくとも正式回答があるまで外部に公表しないことが適当と考えるので本省(外務省)におかれてもかかるラインで対応願いたい」

外交官宅が無差別乱射を受けるという前代未聞の事件について、中国政府に文書で抗議したことを当面、隠して表沙汰にしないという「弱腰」対応である。

■日本政府は銃撃事件について専門家チームを送らなかった

警察庁から日本大使館に出向した南隆は、法務省出身の検事と一緒に、銃弾被害を受けた部屋を一軒ずつ訪れ、実況見分して写真付きの調書を作成した。南はその調書を基に中国側担当者と一軒一軒を回ったが、中国側は結局、サインを拒んだ(南インタビュー)。

城山英巳『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)
城山英巳『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)

外交部との交渉は、畠中が中心に行い中国側は弁償に応じた。露口の場合、銃弾で使い物にならなくなったクーラーは、外交官用免税店で売っている新品に取り替えられ、漆喰で使い物にならなくなった絨毯も交換してもらい、着られなくなった衣服については見合う金額を渡された。

南は「(外交公寓への乱射事件後)米政府は専門家チームを派遣して、どこから撃たれ、どういう被害状況だったか綿密な調査を行い、政府報告書を作成したと聞いている。しかし日本政府は専門家チームを送らなかった。(大使館は)『官』として指示するどころか、逆にそういう(調査の)動きを妨害しようとした。人が死ぬようなことがあっても何も変わっていない。国民の生命を守るという国家として最低限度の責務についての意識がない。こういうことはきちっと対応しないとなめられてしまう」と回顧した。

■アメリカ大使館にはなぜか中国側から警告があった

北京の米大使館は、学生たちの民主化運動の「黒幕」と共産党から敵視された反体制天文物理学者・方励之を大使館に匿ったため中国政府と対立を強めていたが、日本とは違った展開を見せていた。

6月7日午前の戒厳軍による無差別乱射は、「攻撃に対する反撃」という突発的な事件では決してなかった。

前日の6日深夜、米陸軍武官ラリー・ウォーツェル少佐は、「中国人民解放軍の青年将校」と名乗る者から電話を受けた。「明日午前10時から午後2時のあいだ、部屋にいないようにしてください。特にアパートの2階以上には決して上がらないように」。ウォーツェルは明日、外交官アパート周辺で何かが起こることになっており、青年将校は上官から命じられて自分に電話してきたのではないかと考えた。そして大使のリリーは、大使館にできるだけ多くの館員と家族を招集して、万一の事態を回避しようとした(リリー『チャイナハンズ』)。

当時の日本大使館員に取材したが、日本大使館にはこうした警告の電話はなかった。とすれば、中国軍内部には当時、西側の外交官や報道機関を断固威嚇すべきだという強硬論とともに、米外交官が死亡すれば、危機的状況の米中関係が決定的に破綻してしまうという危惧もあったということになる。さらに米大使館は、「必ず何か起きるだろう」と判断するに足る警告電話を中国側から受けたならば、日本など同盟国になぜ情報を共有しなかったのかという疑問も同時に湧く。

反目し合っているように見える米中両国がしっかりと裏で手を組む現実があった。

(敬称略、肩書は当時)

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城山 英巳(しろやま・ひでみ)
北海道大学大学院 教授
1969年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社に入社。中国総局(北京)特派員として中国での現地取材は10年に及ぶ。2020年に早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(社会科学)。現在、北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授。著書に『中国臓器市場』(新潮社)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)、『中国 消し去られた記録』(白水社)、『マオとミカド』(同)がある。

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(北海道大学大学院 教授 城山 英巳)

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