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土にしみこまずに地面にぽろぽろと転がる不思議な雨…広島の少女たちが浴びた「黒い雨」の恐ろしい作用

プレジデントオンライン / 2022年7月21日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/robert mcgillivray

1945年8月6日、原子爆弾が投下された広島では広範囲に真っ黒な雨が降った。この「黒い雨」は人々に何をもたらしたのか。当事者たちに取材した毎日新聞記者の小山美砂さんの著書『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)より、旧亀山村(現広島市安佐北区)に住んでいた森園カズ子さんの体験談を紹介しよう――。

■青い空に太陽が輝く、夏の朝の出来事

森園の家は、旧亀山村の中で西綾ヶ谷と呼ばれた地域のほぼ入り口に位置し、農業を営んでいた。5人きょうだいの4番目に生まれた彼女は、豊かな自然の中で元気いっぱいに育った。家の前には小川があった。ウナギやカニ、エビが生息する清らかな流れは、洗濯や炊事のための生活用水をまかなう水源であり、子どもたちの遊び場だった。

あの日の朝は、いつもより早起きだった。出征兵士の見送りのため、学校の裏手にある神社に集められた。国民学校2年生だった森園も、「日の丸」を描いた布を結びつけた竹棒を、精いっぱい振って送り出した。「戦争」の意味は、よくわかっていなかった。

空は、突き抜けるように青い。太陽は力いっぱいの熱を放って、真っ白に輝いていた。焼き付ける日光から逃れるように学校へ急ぎ、一息ついたのは8時過ぎ。窓からは、たっぷりと光が注いでいた。窓際の席に座り、級友に「おはよう」と声をかけると、窓の外からバイクのエンジン音が聞こえた。「あ、中村先生が来ちゃった」。往診に向かう医者の姿が見えた。

午前8時15分。

日差しの比ではない。強烈な、黄色に近い光が目の前に「ピカーッ」と広がり、すぐに「ドーン」と、爆音が聞こえた。窓ガラスが音を立てて割れ、教室を分けていた仕切り戸が倒れた。

爆弾が落とされたら、防空頭巾を被って机の下に入りなさい――。たたきこまれた動きをとるまもなく先生が駆けつけ、「防空壕(ごう)へ急ぎなさい!」と指示した。児童約60人は一斉に外へ駆け出し、裏手の防空壕を目指した。森園は記憶していないが、一級上の男性はこの時、南側に連なる山の間から、もくもくと薄黒い雲が立ち上がるのを見たという。

多くの村人が、立ち上がる「きのこ雲」を見ていた。「これは広島に何か大ごとが起きた」。

■村人たちは「鬼畜米英」の侵入かと怯えていた

動揺して大声で話し合っていると、「キラ、キラ」と陽の光を反射しながら風に揺れる3つの影が見えた。落下傘だった。何かを吊るしているようだ。「毛唐(戦時中に使われた欧米人の蔑称)が攻めこんで来た!」。山林に落ちた落下傘につかまって、「鬼畜米英」が侵入してきたと思ったのだ。

実際にはアメリカ軍が爆発による風圧などを測るために投下した計測器だったが、村人は慌てて防空壕や山林に身を隠した。消防団員に出動命令がかかった。サイレンが激しく鳴り、「時限爆弾だから200メートル以上は逃げるように」と警報が出された。

「次の爆弾が落ちてくるんじゃないか」。森園らは恐怖に身を震わせたが、しばらく経っても何かが起こる気配はない。午前10時を過ぎた頃だろうか、消防団や家族、教員が付き添って、帰宅することになった。

防空壕から出ると、あたりがほの暗くなっていた。森園は、「不気味な空じゃね」と、不安な気持ちで見上げていた。すると、はらり、はらりと、白い灰や焼け焦げた紙が落ちてくるではないか。ふわり、ふわりと舞う紙をつかもうと、空に向かって何度も手を伸ばした。

■ザーザー降りの「黒い雨」と息もたえだえの被爆者

やがて、雨が降り出した。ぽつ、ぽつ。腕に落ちた水滴は丸く、形を保ったままころころと皮膚の上を滑り落ちていく。油分を含んでいるようで、しかも真っ黒い。足元に落ちた水滴は、土にしみこまずにぽろぽろと転がっていった。「この雨は、なんじゃろか」。幼い森園の目に、その異様な雨粒はむしろ興味深く、面白く映った。

教員に連れられて、7、8人の児童らと急ぐ帰り道、ものの10分で雨はザーザー降りとなった。家に帰ると、6つ上の姉に「あんた雨に濡れてどうしたん」と叱られた。同じく濡れて帰った3つ上の姉と、汚れた服を川で洗った。水は、茶色く濁っていた。

「広島に新型爆弾が落とされたらしい」

うわさは、またたく間に広まった。広島の中心と県北を結ぶ可部街道には、火傷で皮膚がただれ、大量の血を流した裸同然の人たちが、親族の家を目指して息もたえだえに歩いていた。

服はボロ切れのように裂けて焦げ、髪は縮れて逆立ち、裸足のまま20キロもの道程を歩いて北の郊外を目指してきたのだ。

命からがら逃げてきた彼らも、そしてそれを伝え聞いた森園らも、その「新型爆弾」の正体を知る由もなかった。

■広島の町の上空で炸裂した核兵器「リトルボーイ」

アメリカのハリー・トルーマン大統領が声明で、投下した爆弾は「atomic bomb(原子爆弾)」だと明かしたのは、その16時間後だった。

現在の原爆ドームから東に約130メートル離れた島病院の上空で、「リトルボーイ」と名付けられた核兵器は炸裂した。それは「核分裂」のエネルギーを利用し、従来の火薬爆弾と比べて桁違いの爆発力を持っていた。原料は、核燃料として使用されるウラン235。濃縮したウランを、核分裂の連鎖反応が始まる臨界量より少ない2つのかたまりに分けておき、爆薬の力でぶつけた。すると、100万分の1秒という極めて短い時間に核分裂が連続して起こる。

この時、一度に膨大なエネルギーを放出し、たった1発の爆弾でも壊滅的な被害をもたらした。

■地表面は鉄を溶かす高温となり、熱線と爆風が襲う

爆発地点は、地上約600メートル。爆発点での最高温度は、通常の爆弾では5000度程度だが、原爆は100万度を超えていた。爆心地の地表面の温度は3000〜4000度。鉄の融点である1538度を優に上回った。爆心地から約1.2キロの範囲で遮蔽(しゃへい)物のない場所にいた人は表皮が瞬時に炭と化し、内臓も熱傷障害を受けほとんどが即死、または数日内に死亡した。

爆風による被害も甚大で、爆心地から約2キロ以内の建物が大損害を受けた。熱線と爆風は甚大な火災を引き起こし、複合的に死傷者を増やした。

原爆が「非人道兵器」であり、その存在を許してはならない理由は、熱線や爆風による殺傷能力だけではない。他の兵器と比べた最大の特徴は、放射線を放出する点にあるだろう。放射線は細胞を傷つけ、壊し、出血や脱毛といった急性障害の他、がんなどの深刻な病を引き起こす。

原爆の惨禍を生き延びた人にも、被ばくの影響がいつ、どのような形で表出するかわからない。放射線の人体に対する影響は完全に解明されてはおらず、今も研究と議論が続く中、被害者の心身は蝕まれ続けている。そして、その影響に対する不安は世代を超え、放射線による被害に「終わり」は見えない。

■原爆炸裂後も人々に取りついた「残留放射線」

原爆が放出した放射線は、大きく分けて2つある。1つは核爆発から約1分以内に出た「初期放射線」だ。最大2.5キロまで届いたとされ、初期放射線を浴びた人は、「外部被ばく」の影響を受けた。

もう1つは、「残留放射線」と呼ばれるものだ。放射線は地上に到達し、それを浴びた土壌や建物に含まれる金属を放射化(放射線を放つ物質に変化すること)した。原爆炸裂後、分単位以上の長期に及ぶ放射線被ばくを起こした。なお、残留放射線には原爆の燃料で未分裂のまま飛び散ったウランなどの放射性物質が放出するものも含まれている。こうした放射性物質を体内に取り込んだ場合、「内部被ばく」した。

原爆炸裂時は郊外にいたが、その後に爆心地付近を通過・滞在した人(入市被爆者)や救護に従事した人(救護被爆者)にも、発熱や脱毛など直接被爆者と似た症状が現れた。その要因は、爆心地近くに滞留、または被爆者の衣服や髪の毛などに付着していた放射性微粒子(エアロゾルを含む)を吸い込んだり、水や食べ物とともに取り込んだりすることで内部被ばくしたものと考えられている。

■「黒い雨」は外部被ばくと内部被ばくをもたらした

放射性微粒子は、衝撃波や爆風で巻き上げられ、さらに爆発による高温で気化し、高空へ拡散して広い地域に到達した。その一部は、「きのこ雲」や二次火災に伴う積乱雲から降った雨とともに、地上に降り注いだ。この時降った雨が黒く汚れていたのは、火災により生成されたススが原因だ。また、雨だけでなく、灰や焼け焦げた紙片などが降ったとの証言もある。中には、爆心地近くの学校名や病院名が印字されているものもあった。

こうした放射性降下物こそ、森園が浴びた「黒い雨」の正体だ。

黒インク
写真=iStock.com/idmanjoe
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/idmanjoe

本書では、「黒い雨」とは必ずしも雨滴だけを指すのではなく、チリや灰を含んだ降下物の総称としたい。森園は、放射性物質を含んだ雨を直接浴びたことで外部被ばくし、またそれらを体内に取り込むことで内部被ばくしたのだった。

真夏日だったあの日。口を大きく開けてカラカラに渇いた喉を潤した人。生あたたかい雨が心地よくて「シャワーのように」浴びたという人。雨が流れ込んだ川は黒く濁り、いたるところに魚が浮いた。その川で野菜を洗って食べ、水を汲んで飲んだ人もいる。

■「体の中の機関銃」が絶えず弾丸を打ち出す

水の都は、黒く汚れた。

雨は県内各所で強く降り、爆心地から西に約2.8キロ離れた旭山神社では、大量に降り注いだ黒い雨が所在していた山の火災を消し止め、焼失を免れたという逸話も残る。その恐ろしさを知らず、「慈雨」と思って浴びた人もいただろう。

小山美砂『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)
小山美砂『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)

その雨が人々の体を死ぬまで蝕むことになるとは、誰も知り得なかった。放射性物質の量が半分になるまでの期間を「半減期」といい、その期間は物質によって異なるが、広島原爆では長いもので30年以上ある。「草木も生えぬ75年」とささやかれ、広範に、しかも長期に影響を及ぼす放射線への恐怖が後に人々を襲った。

そして、呼吸などを通して取り込んだ放射性微粒子は、排出されるまで体内にとどまり、内部から細胞や組織を壊し続ける。

日本で原発が積極的に導入された1970年代から反原発を唱えていた原子核物理学者の水戸巌(1986年に53歳で死去)は、当時から内部被ばくの危険性を訴えていた。妻の喜世子によると、生前、次のような言葉をたびたび口にしていた。

外部被ばくは、機関銃を外から撃たれたようなもので、一過性。だが、内部被ばくは体の中に機関銃を抱えて、内部から絶えず弾丸を打ち出されているようなものだ。

■29歳で内部被ばくした女性は80代で相次いでがんに

実際に、その「弾道」を捉えた研究がある。被爆者医療の第一人者で、広島大学原爆放射能医学研究所の所長を務めた同大名誉教授の鎌田七男らは2015年、29歳の時に黒い雨を浴びた女性の肺組織に残存するウランが、放射線を放出したことを示す痕跡の撮影に成功した。

女性は爆心地の西約4.1キロで黒い雨が激しく降った広島市古田町に住み、約2週間、近くの畑で採れた野菜を食べたり、井戸の水を飲んだりして過ごした。82歳で肺がんと胃がん、84歳で大腸がんを発症。鎌田らの研究成果は、放射性物質という「機関銃」が戦後70年経っても体内に残存し、弾丸を放ち続けていたことの動かぬ証拠だった。

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小山 美砂(こやま・みさ)
毎日新聞記者
1994年、大阪府生まれ。2017年に入社し、希望した広島支局に配属。被爆者や原発関連訴訟の取材に取り組んできた。原爆報道キャップとなった2019年秋から、当事者の証言や思いを伝える連載「区域外の被爆者を訪ねて 『黒い雨』の原告は訴える」を開始。以降、100人近くへの取材を通して被爆者援護の課題を発信してきた。2022年4月より大阪社会部に在籍。著書に『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)がある。

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(毎日新聞記者 小山 美砂)

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