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「○○を倒せば世界はもっとよくなる」そんな過激思想に共感する人を増やす"多様性"という落とし穴

プレジデントオンライン / 2022年7月20日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oxinoxi

「○○を倒せば世界はもっとよくなる」。そんな過激思想に共感する人が増えている。なぜなのか。文筆家の御田寺圭さんは、「現代では多様性が重んじられ、だれもが肯定されるようになった。だからこそ、だれかを断固として否定するための口実を提供する過激思想(ラディカリズム)が存在感を強めている」という――。

※本稿は、御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)の一部を再編集したものです。

■共鳴するラディカリズム

ある過激な思想に耽溺していた人が、しばらくすると別の過激な思想の信奉者になっていたり、もしくは両方をかけもちしていたり――といった光景はよく目にする。「エコロジー系のオピニオンリーダーを信奉していた人が、次は反原発運動にのめり込み、最近では反ワクチン活動家になった」「格差反対運動に熱心だった人が、反差別活動家になり、ラディカルなフェミニズム思想にも賛同していた」――といった具合だ。

いくつかの思想や運動には共鳴性がある。とりわけ、反ワクチン、極端な脱原発運動家、フェミニズム、ヴィーガンなど、ラディカルでピーキーなリベラル/レフト(左翼)系思想では、こうした傾向が顕著に認められる。

反ワクチン論に傾倒している人が、同時に過激な反原発論者であったり、あるいはヴィーガンである人がフェミニズムに傾倒していたりといった光景は日常茶飯事だ。ともすれば、列挙したそれらすべてを内面化して、界隈を渡り歩いているような人もいる。ひとりふたりの話ではない。今日では、SNSを少し眺めてみればいくらでも見つけることができる。特定の思想が強い磁力で相互に作用し合っているのは、おそらく偶然ではない。

■「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えた人びと

こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動を見つめていると、ある種の共通点が見えてくる。すなわち、共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えているという点だ。心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱(ぜいじゃく)となる。

生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を細かく解きほぐして消化していくような、根気を要する作業に耐えうる認知的リソースがない。

心も体もすでに疲弊し切っている人が、その上でなお、自分の苦しさをもたらしている根源的な事象について多面的・多角的・客観的・相対的に分析して、その複雑な機序と構造を理解するのは、相当に困難な試みになってしまうことは想像に難くない。すでにそうした余力が奪われてしまっていて、ただ現実の苦しみに必死に耐えるしかなくなっているからこそ「生きづらい」のだ。

拳を上げた人々
写真=iStock.com/FilippoBacci
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FilippoBacci

■責任を「外部化」してくれるシンプルな物語

「生きづらさ」で窮している人が、「複雑性」と対峙(たいじ)するという迂遠な作業から遠ざかり、代わりに目の前に提示されたシンプルな物語に身を委ねたくなるのは、自然のなりゆきである。弱っている人は「複雑系」への疲れと、「単純系」への憧れを持ってしまう。身も心も弱り、疲れ切っている人の目の前に提示されたシンプルな物語が、なおかつ責任を外部化するものであれば、それはなおのこと魅力的に見えるようになる。

たとえば、ラディカル・フェミニズムであれば、「あなたがこれまで抱えてきた生きづらさは、個人的な努力や能力に帰するところではなく、男性あるいは男性社会によってもたらされた不当な搾取であり、加害行為なのだ」と説明される。そう説かれる者の責任の一切を外部化し、「生きづらさ」によって消耗し切った女性たちを次々に動員していく。

■主観的な苦しみは否定しないが…

その人にとって主観的な経験として耐えがたい苦しみが存在していることは否定しえない事実であるだろう。一方でその主観的事実の存在によって世界のすべてが説明されるわけではない。ある女性にとっての苦しみがあることは、世界がその女性を苦しめるものとして存在していることを断じるものではない。

並んだマッチ棒に火のついたマッチで点火しようとする様子
写真=iStock.com/JamesBrey
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JamesBrey

しかし、そのような原因帰属の飛躍、つまり認知的誤謬は、たとえ誤謬であったとしても、すでに疲れ切ってしまっている人にとっては些末なことだ。いま目の前に、自分の痛みを理解してくれる人がいて、その痛みの原因をはっきりと――自分以外のなにか、あるいはだれかにあると――示してくれることが重要だからだ。痛みに寄り添ってくれる物語は真実となる。

「○○を倒せば世界はもっとよくなる」、「それを倒すことで世界がよりよい方向に進む」と期待できるわかりやすい悪を明確に提示してくれる「単純系」と、「あなたの生きづらさや苦しさは、あなたのせいではなく○○の加害によってもたらされた」とする「責任の外部化」が、多くのラディカルな思想に共通する。この共通点があるからこそ、多くの人を、複数の思想のかけもちに誘い込む。

傷つき弱った人に刺さった棘――そうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声――をやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が、多くの人を魅了するのは当然だ。グローバルな情報ネットワークやコミュニケーションの相互作用がますます強化され、その複雑性が日増しに強まっていく世界において、「単純系」の魅力は失われることはなく、むしろその版図を拡大し続ける。

■私憤が共鳴によって義憤になる

共鳴するラディカリズムに集まる人びとは、お互いが自分と同じような生きづらさや抑圧感を抱えていることを認識しはじめる。やがて、物語と人が共鳴するだけでなく、人と人ともまた共鳴するようになる。文字どおりの意味で、自分ひとりが抱えているにすぎなかった私憤は、大勢の人が同じ思いを共有していることによって公憤へと昇華されるのである。

「個人的なことは政治的なこと」という広範なリベラリズム運動に歴史的に共有されてきたコンセプトは、私憤が共鳴によって義憤になるという機序を端的に表現したものだ。

■共鳴性によってもたらされた権力

「生きづらさを超克するための努力をするのではなく、自分の周囲や社会が変わって、自分がつらくならないように配慮してほしい」――とする、生きづらさを抱える人びとの深層にある願いにも、共鳴するラディカリズムは正当性を付与してくれる。ワクチンをやめれば、肉食をやめれば、男が謝罪すれば、○○党の支持者が考えを改めれば、私は生きづらさを感じずに済むのに――それらはかつて、ひとりよがりの、ともすれば「わがまま」などといわれて一笑に付されていた考えだったが、共鳴して増幅されたそれらを、もはや社会は無視できなくなった。

御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)
御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)

自らは現在の場所から一歩も動くことなく、共鳴性によって得た大きな権力により、他人や世間に影響を及ぼすことができるようになる。生きづらさを抱える参加者たちは、往々にしてこれまで縁遠いものだったであろう自己有能感さえ得ることができた。環境に配慮しない企業は悪だ。女性を蔑視するあの人物は悪だ。公憤を掲げる人びとが押し寄せれば、巨大な権力に見えた相手が平伏して従う光景が広がった。

結集した声によって達成される「世直し」の過程において「いままで自分たちの言葉は、不当にも耳を傾けられなかっただけであり、本当は自分たちこそがただしかったのだ」という確信がますます深まっていく。傍(はた)から見れば集団的先鋭化・極性化だとしても、しかし当人たちの主観ではそのような認識はない。ますます共鳴性を拡大し、純化しながら、自分が社会に寄り添うのではなく、社会が自分に寄り添うことこそが正道であると語気を強めて説く。

■「多様性」の時代の不安と疎外感

長い歴史の中で、多くの人びとの人生を、ときにやさしく、ときに冷酷に規定してきた「大きな物語」は失われた。その空席を埋めたのが「多様性」だ。一人ひとりが、大きな権力や規範体系によって縛られることなく、それぞれの自由を謳歌(おうか)できる時代となった。そこではすべての人が「ただしい」とされた。

だが、だれもが「ただしい」と肯定されているはずなのに、それでもなお生きづらさを抱えてしまう人がいる。この多様性の時代に感じる生きづらさは、不安と疎外感をかえって高めてしまう。

「この世界は、みんながただしいはずだ。それなのに、どうして自分はいまこんなに、つらくて、苦しいのだろうか(もしかして、自分は間違っているのではないか)」という疑念がますます大きくなる。「だれもが肯定されている」世界は、心身ともに傷つき弱った人にとっては、よりどころを失った苦しみだけが付きまとう世界だった。

■「大きな物語」の復活を願う人びと

自らの「ただしさ」を信じられなくなった人びとは、「大きな物語」――すなわち、「ただしい」「ただしくない」がはっきりと分けられ、従うべき筋道として「ただしい」側が示される物語――が恋しくなった。生きづらさをつくりだしている悪の名を明確に呼ばない多様性の優柔不断さに嫌気がさし、自分たちの「ただしさ」と別の人の「ただしくなさ」がはっきり提示される世界への再構築を望んだ。特定のだれかについては「ただしくない、間違っている、倒されるべきだ」と示してくれる秩序体系の復活を求めたのだ。

だれもが肯定される現代だからこそ、だれかを断固として否定するための口実を提供するラディカリズムはその存在感を強めている。

■「多様性」の反動として生まれたラディカリズム

今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動は、その党派性にかかわらず、複数の「ただしさ」を提示することで社会的統合を目指す「多様性」の反動として生まれたものだ。

右派左派それぞれの政治的系統に顕在化するラディカルで暴力的な思想運動は、その行動様式や価値体系や政治的指向性はそれぞれ大きく異なっていたとしても、しかしいずれも「多様性」の反動によって生まれた、血を分けた兄弟たちである。

トランプ主義、極右政党の台頭、ヴィーガン、Antifa、ラディカル・フェミニズム、反ワクチン、Qアノン――枚挙にいとまがない過激思想の台頭は、ここに集まるだれもがただしいと肯定される時代に生きる人びとが、ついにそのただしさの寛大さに疲れ果て、邪悪な巨人とそれを倒す勇者の叙事詩をふたたびこの世に求めた結果である。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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