和田秀樹「安倍晋三元首相を殺害した山上徹也容疑者は複雑性PTSDかもしれない」
プレジデントオンライン / 2022年7月17日 11時15分
■「現職の総理に、こんな愛妻家がいるのか」
安倍晋三元首相が奈良県で暗殺された事件は、私個人としても衝撃的だった。
これまで私は、本欄や自分のメールマガジンでも、安倍政権の政策や安倍氏の言動を批判してきた。正直にいえば、政治家としての安倍氏を評価していない。
それ以上に許せないのは、安倍氏が関わったとされる森友・加計問題をフェイクニュースと断じたり、安倍氏の友人とされるジャーナリストにレイプをされたと民事裁判で認められた伊藤詩織をおとしめるような発言を繰り返したりする、安倍氏の取り巻き論壇人たちの存在だ。
しかし、人間としての安倍氏は別だ。
数度直接会ったことがあるが、政治家の中でもっとも気さくで私のような無名の文化人にも腰が低く、育ちのよさを感じさせる人だった。ワイン好きな昭恵夫人には私が開いたワイン会に何度もおいでいただいたが、夜11時ごろを過ぎると、安倍氏が心配して電話をかけきた。「現職の総理に、こんな愛妻家がいるのか」。そんな不思議な感銘を受けたものだ。
政治家らしからぬ愛嬌のある人だったので、突然の死が残念でならない。だから、山上容疑者は許せないし、警察の警備の怠りにも憤りを覚える。
報道によれば、今後、容疑者は精神鑑定も受けるという話なので、あまり軽々しいことは言えない。だが、動機はかなりありふれた「報復・怨恨」になるだろう。これは「憤懣、激情」に次いで、ほとんどの年齢で、殺人事件の動機の2位にあたるものだ。この事件の場合は、憤懣・激情の要素も強そうだ。
ただ今回の事件の場合、元首相は容疑者の直接的な怨恨の対象ではない。怨恨の対象は、多額の献金で家庭を崩壊させた母親が入信していた旧統一教会で、元首相はその教団関連団体に宛てたビデオレターに出演していた。
週刊誌報道では、怨恨の対象との親密な関係が(どの程度の根拠があるかは別として)何度も報じられていたこともあり、その恨みが妄想とは言い切れないように思える。容疑者は教団の宣伝塔に映った人間を殺害した構図のようだ。
■ネグレクトのサバイバーにしばしばみられる複雑性PTSD
『週刊新潮』(7月21日号)を読むと、容疑者の激しい恨みは、悲惨な生活を余儀なくされたことによる点が大きいことがわかる。この宗教に彼は人生を大きくねじ曲げられたことは間違いない。
同誌にはおおよそ次のようなリポートが掲載されている。
彼(容疑者)の父親は京都大学を出て、祖父の経営する会社の取締役にまでなった優秀な人だったが、母親が別の宗教にのめりこんだことを苦にして自殺する。その後、母親が統一教会に入信し、熱心な信者になると、家をあけることが多くなり、実質ネグレクト状態になる。伯父に「食べるものがない」と幼少期の容疑者は電話をかけることが多かったらしいが、冷蔵庫の中には食料品は何もなかったことが頻回にあったそうだ。
それでも快活に学校に通っていたが、おそらく経済的なことだけでなく、精神的にも彼の支えになっていた祖父が他界すると生活は暗転する。母親は祖父から相続した土地を売り払い、さらに自分が引き継いだ祖父の会社を破産させてしまう。
ここで将来を悲観したのか、自衛隊に入隊していた任期中に自殺未遂事件を起こしている。さらに今から7年前に兄が病を苦にして自殺しているが、これだって母親の宗教のために経済的に破綻しているという要因がなければ自殺にならなかった可能性は小さくない。
もちろん身内の自殺は、多くの人にとって相当強いトラウマになるのだが、このような単発的なトラウマだけでなく、母親によるネグレクト状況が続けば、児童虐待のサバイバー(虐待されたのちも生き延びて社会に出ている人たち)にかなりの頻度でみられる複雑性PTSDに陥る可能性は高い。
この複雑性PTSDは、単発性のトラウマと違い、反復性のトラウマによってパーソナリティの変容などが生じるかなり重い心の病だ。
昨秋、小室圭さんと結婚した秋篠宮眞子さまが、社会からの批判によって生じる複雑性PTSDだと診断して公表した精神科医がいた。だが、批判レベルで心を病み、うつ状態に陥り、最悪、自殺することもあるものの、そういう症状は複雑性PTSDとは言わない。
その医者は「批判がおさまれば速やかに回復する」と言ったが、虐待を受けてきた人が虐待する親から離れて、それを受けなくなったからといって回復することはない。環境が変われば回復するのであれば、複雑性PTSDでなく、おそらく適応障害である。
複雑性PTSDの悲劇は、その後、さまざまな精神症状に苦しめられ、社会適応が困難だということだ。就職や結婚が長続きせず、生活困難に陥る人が多い。とくにアメリカでは児童虐待が発見されると親元に原則返さないのは、ある一定の確率で、この手の複雑性PTSDが生じてしまった人がその後に重大犯罪を犯す危険があるからだ。
実際、日本でも2004年の大阪教育大学附属池田小学校事件(児童8人が死亡、教員を含む15人が重軽傷を負った)の犯人や、1999年に山口県の母子殺害をした少年が、虐待サバイバーだったことが知られている。
■「怨恨の背景には複雑性PTSDの心理がからんでいる」
日本という国は、1万人に1人の確率の自動車による死亡事故を高齢者が起こすと、高齢者全員に認知機能テストを義務化し、多くの高齢者から自動車免許を取り上げる。
ところが、それより確率的にも被害規模的にもはるかに大きいものなのに、虐待されている子供たちを無神経にも親元に返し、虐待環境で育てようとする。そんな方針の日本政府に疑問を感じざるをえない。
今回の山上容疑者の非は明らかである。私には彼の起こした銃撃事件を擁護するような気持ちは毛頭ない。
だが、その一方で彼のような「虐待サバイバー」を人格的にただ非難するより、再発予防のため虐待されている子供の施設を整備するほうがはるかに急務だと考える。
私は、今回の容疑者が恨みの対象について、その関係者である安倍元首相を殺してやりたいと思うくらい、高いレベルの怨恨をもった背景には複雑性PTSDの心理がからんでいたように思えてならない。
ついでにいうと、自殺は連鎖することがある。近親者に自殺者がいるとそのリスクは高くなるのだ。父と兄を自殺で失っているこの容疑者も、恨みの対象を殺して、自分も死刑になっていいというような「拡大自殺」の心理もからんでいたのかもしれない。
もうひとつ、今回の事件で痛感したのは、今と昔でテロの性質が異なるということだ。
私が生まれた1960年に起こった野党第一党である日本社会党の浅沼稲次郎氏が17歳の少年に刺殺された事件。この少年は、大日本愛国党という民族主義・反共政治団体に所属しており、左翼運動を抑止したいという明らかな政治的意図をもっていた。
その後は、むしろ左翼団体のテロが目立った。例えば、日本中を震撼(しんかん)させた連合赤軍事件(1971年)、海外に渡った日本赤軍はテルアビブ空港で乱射事件を起こし、26人もの死者を出した(1972年)。三菱重工爆破テロ(1974年、死者8人)などもあった。
ただ、その後は公安当局が徹底的にこれらの左翼団体をマークし、また極左は怖いという考えが蔓延したため、日本の学生運動は自由主義世界でもっとも弱体化した。かつての過激派も高齢化が進み、テロを起こすパワーはほとんどないと言ってよい。
■宗教によって心がねじ曲げられた人間によるテロ
それと比べて、右翼団体のテロは散発する。1987年から90年にかけて朝日新聞や当時のリクルート会長を銃撃し、朝日新聞阪神支局では2人が死傷された。
2007年には長崎市長が暴力団幹部の男に射殺されたが、これは政治的背景というより公共工事の選定にまつわる恨みによるものとされている。ただ、同じ長崎で1990年に「天皇にも戦争責任があると思う」と発言した市長が右翼団体の人間から銃撃されている。
その後のテロは世界的にみても、宗教絡みのものが多い。日本でもオウム真理教事件(1995年)は、世の中を震撼させた。そういうものが落ち着いてきた頃に今回のテロは起こった。
宗教によるテロというより、宗教によって心が捻じ曲げられた人間によるテロだった。最近のテロを見る限り、どうせ自殺するなら人を巻き添えにして死のうという拡大自殺と考えられる事件が多い。
前述のように虐待サバイバーによる犯行が起こっても、その犯人を指弾するだけで、虐待されている子供を救う話につながらないのでは意味がない。
格差社会化が進み、やけくそを起こしかねない生活レベルの人も増えていく。諸外国では格差が大きくなると凶悪犯罪が増えていく傾向は自明のことのように言われている。だから格差是正を重視するのだ。
左翼団体や右翼団体、反社会的勢力によるテロについてはその周囲をマークすればかなりリスクが低減するだろうが、このようなテロはマークしきれない。できるのは、治安機能としての警察組織を改善していくことだ。
■民間人による暴発的なテロの時代に警察は対処できない
精神科医としての経験からいうと、今の警察は治安を軽視しているようにしか思えない。
私の患者さんたちがストーカー被害に遭っても、警察がなかなか被害届を受け付けてくれないそうだ。人手不足を理由にされるらしい。
ところが、警察を一歩出ると、一時停止違反をつかまえるために一日中3~4人も警官が立っている交差点がいたるところにある。
交通事故死者数はかつての8分の1になっているし、一時停止違反で重大事故などめったにないのに、治安への人員配置を怠って、交通取り締まりに人を割くというのは、警察が違反金狙いの金儲け集団に変貌したとしか思えない。
私の邪推かもしれないが、中村格(いたる)現警察庁長官が就任して以来、その傾向が強まっている気がする。
多くの場合、一生治らないようなPTSDの原因にもなるレイプ事件にしても、警察は被害者側からの被害届を受理はするものの、そのうち3割しか起訴しないのだ。
いずれにせよ、今回の元首相銃撃事件で、警備は明らかに手薄だったし、一発目の銃声が鳴り響き、安倍氏がきょとんとしているのに、3秒後の2発目の発射(これが致命傷になった)までその前後にSPが守りに入ることもなかった。
警察がもっとしっかりしていたらこんな悲劇は起きなかった。民間人による暴発的なテロの時代には、治安組織としての警察の再建の必要性を痛感した事件だったことは確かだ。
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精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授
1960年大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院精神神経科、老人科、神経内科にて研修、国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデント、東京大学医学部附属病院精神神経科助手、米カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、高齢者専門の総合病院・浴風会病院の精神科医師を経て、現在、国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、川崎幸病院顧問、一橋大学・東京医科歯科大学非常勤講師、和田秀樹こころと体のクリニック院長。
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(精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授 和田 秀樹)
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