「航空券がなければワープロで作ればいい」天安門事件直後の中国から民間人を脱出させたANAの"神対応"
プレジデントオンライン / 2022年7月23日 10時15分
■天安門事件直後の中国からの脱出の記録をまとめたANA社員の手記
ANA北京支店営業マネージャー、尾坂雅康は、当時の「邦人脱出オペレーション」を「日記」に残しており、『天安門事件 北京動乱の60日』という手記にまとめた。貴重な民間人の記録である。
武力弾圧から2日が経った6月6日。帰国便を求める北京在留邦人からの予約が集中した。
邦人にとって最大の問題は、市内から車で約40分かかる北京首都国際空港への「足」がないことだった。タクシーは止まり、ガソリンスタンドも閉鎖した。通常タクシーなら50元で行くが、足元を見て10倍の500元を要求する白タクも登場した。リヤカーを自転車で引くリキシャに乗って3~4時間をかけて空港に向かう邦人もいた。
■発券ができないANAは「空港に行く」よう勧告
中国において当時、日本の航空会社で自社の航空券を発券できるのはJAL一社だけで、1987年4月に北京便を就航した後発のANAは、日中航空協定に基づき予約しかできなかった。ANAは航空券を独自に発行できず、北京支店では乗客に対して航空券の予約証明を手渡し、客は、航空局と国営航空会社の機能を持つ国家機関「中国民用航空総局」(中国民航)のカウンターか、北京空港の中国民航カウンターで予約証明を提示して料金を支払ってようやく航空券を購入できた。
尾坂によると、緊急事態に際し、そもそも発券が不可能なANAでは客からの問い合わせに対して「一刻も早く空港に行く」よう勧めた。
JALとANAは6日、定期便に加え、夜に臨時便を運航し、ANAでは成田行きの定期便に277人、羽田行きの臨時便には317人が搭乗した。
■大手商社からの「優先搭乗」要請を毅然と拒否
6月7日、北京首都国際空港――。
「北京内戦か」のニュースを受け、北京脱出を急ぐ在留邦人は空港を目指した。同日午前に日本人が多く住む建国門外で起こった戒厳部隊による無
ANA支店のある北京飯店にいた尾坂雅康のもとには、大手商社の総代表から電話があった。「自社の社員と家族をANAに優先搭乗させてくれないか」。こう求められた尾坂は、空港では航空券を求める邦人の長い列ができており、「先着順でお願いします」と答えた。「支店長を出せ」と立腹されたが、支店長につなげば、受けざるを得なくなると思い、断った。手記にこう記している。
「生命の危機に瀕した日本人に会社や肩書でランクをつけることはできなかった」
7日午後、戒厳軍の包囲を突破して何とか北京飯店を脱出し、混乱を極める北京空港に着いた尾坂にとっての難題は発券問題だった。前述したようにANA便の搭乗予約はできるが、発券に関しては中国民航のカウンターで行う必要がある。体一つで命からがら空港に着いた多くの邦人は航空券を持っていない。
当初、中国民航から預かった100枚ほどの航空券を使って発券していたが、瞬く間になくなった。そのうち中国民航の空港発券カウンターの担当者も消えてしまい、航空券自体が手に入らない。JALは航空券を持っている邦人を優先しているため、航空券を持たない邦人はANAに行列をつくった。
■ルールを犯しワープロで「疑似航空券」を作成
その時、整備のスタッフがアイデアを出した。
「ワープロで擬似航空券を発券すればどうでしょう」
尾坂は即座にOKし、支店から持ち込んだワープロで「擬似航空券」を印刷した。個人だけでなく、企業でのまとまった申し込みも多く、団体航空券も発券した。金額は、中国建ての片道運賃(1390元)を日本円に換算した運賃で、きりのいい8万円と決めた。尾坂は手記にこう書いた。
「エイヤの算出だが今は非常時、日本に帰ることが最優先である。(擬似航空券は)ルール違反ではないか、本社は認めない、誰が責任をとるのかと厳しい指摘もあった。必死の表情で救いを求めるお客様を前に迷いは消え『責任なら尾坂がとります』と応えてハンドリングを続行する」
「ここは戦場という認識だった。一瞬の判断が生死を分ける」
■手持ちのない客には「運賃未払い」での搭乗を許可
続く問題は、緊急避難のため現金を持ち合わせていない乗客への対応である。銀行は閉鎖され、現金は引き出せない。特に留学生はそうだった。
尾坂はこれについて、帰国を最優先するため、パスポートをコピーし、あるいは名刺にパスポート番号と運賃請求先を記入してもらい、帰国後速やかに全日空のカウンターで支払ってもらう約束を交わし、運賃未払いのままの搭乗を認めた。平満支店長は「お客様に一刻も早く無事にご帰国いただくことを全ての判断基準とする」という尾坂の意見を尊重してくれた。しかし本社対策本部に報告すると、元北京駐在の担当者はしばらく沈黙。
「おまえ本当にやってしまったのか」
「本社では想定していないこと、とんでもないことをしたらしい。いつ空港閉鎖になるかわからない。非常時のハンドリングと自ら言い聞かせ、組織人としては終わったことを自覚した。もう北京での仕事はないだろう、懐かしい日々が去来した」(「尾坂手記」)
■日本大使館から「外国人をなぜ搭乗させるのか」と叱責
6月7日、ANAは定期便で134人を運んだほか、北京発羽田行臨時便を2便出し、それぞれ528人、324人が搭乗した。
尾坂の手記によると、この日の搭乗手続きを終えてから、支店長の平満は日本大使館公使から次のような趣旨の電話を受けた。「叱責」だった。
「全日空便(定期・臨時)には外国人がおよそ200人はいるではないか。日本政府の要請した臨時便であるにもかかわらずどういう訳か」
尾坂は平に呼ばれ、事情を説明し、外国人を乗せた人道的判断については理解を得たが、平は「本社に正式の抗議があるだろう」と述べた。尾坂のもとにも、同郷で懇意にしていた日本大使館文化部長から電話があり、「非常に困ったことをしてくれた。これでは庇えない」と言われた。
事の発端は、ANAのカウンターに、なぜか外国人が次々と並んだことだった。臨時便は、日本政府が要請したものだが、費用も政府持ちではなく、航空会社の判断で増便した形だった。尾坂が聞いたところでは、JALは臨時便について日本政府の要請であり、「邦人優先」でハンドリングしていた。こういうこともあり、外国人がANA便に集まったのだという。
■「命の危機に国籍は無関係」
「これらの人々は全日空に救いを求めて並んでいる。海外の事件で日本人であることを理由に外国機に搭乗を拒否されるようなもの。生命の危機に瀕し救いを求めるのに国籍は関係ない。日本航空同様に臨時便の趣旨から邦人優先、外国人を乗せるべきではないという声が強かったが、現場で対応するスタッフの意見は行列の順番を守り、きちんとお金を支払い、全日空に救いを求めている方を差別してはならないというものだった。力強い同意を得て外国人に対しても搭乗の受付をするように指示する」。手記にこう記した。
米国の臨時便として運航したUA(ユナイテッド航空)も、空席があれば、誰であろうが乗せる対応を行っていた。
なぜ日本大使館がANAの対応を「叱責」したかというと、6月7日の搭乗手続きが終わってから、大使館の手配したバスに乗った約100人の日本人留学生が空港に到着したからだった。尾坂らが最終便の出発を説明すると、大使館員は、日本政府の退避勧告に対して「大学は安全だ」と譲らない留学生をようやく説得して集めてたどり着いたのに何事かといら立った。大使館にすれば、日本人留学生より外国人を優先するのは問題ではないかという論理であり、空港の現場にいた館員は大使館上層部に報告したのだろう。
そして大使館員は留学生に対してこう告げた。
「皆さんの乗る予定の全日空は座席を用意できない。ここで解散します」
■空港難民のためにVIPルームを即金で借り上げ
空港ロビーには、搭乗できない人々で溢れており、大使館員やANA側が空港近くのホテルに空室状況を聞いたが、受け入れてくれない。このままでは難民状態だ。
「空港が戒厳軍に包囲されている」「戦車が近くまで来ている」「空港閉鎖がある」――。
様々な情報が流れており、もちろん銃声が絶えない市内に戻すこともできない。
その時、ANA北京空港所長がこう提案した。
「空港にはVIPルームがあるから借りよう」
空港と交渉すると、即金で支払えば、VIPルームを提供してくれるという。幸い現金なら、帰国便航空券を購入した乗客からの代金が十分にある。VIPルームには空調やソファもあり、柔らかいカーペット敷き。空港の冷たいロビーより快適だ。尾坂らはVIPルーム全室に当たる5~6室を借り上げ、留学生に提供し、翌日便の搭乗手続きも行い、搭乗券も手渡した。
■「大使館がVIPルームを手配したことにしてほしい」
日付が変わり6月8日午前2時。
尾坂らは臨時の宿泊ホテルである空港に近い麗都飯店に向かう準備をしていたところ、大使館員が空港事務所を訪ねてきた。
「留学生がVIPルームにいるが、誰が手配したのか」
ANAで手配し、支払いも終了していると説明したら、館員はさらに尋ねた。
「領収書はあるか。本件は大使館が手配したことにして欲しい」
結局、北京空港所長から指示があり、大使館側に領収書を渡し、後日支払いも受けた。尾坂は手記にこう記した。
「釈然としないものが残る」
■食い違う大使館の記録とANA社員の手記の内容
6月13日の中島大使発外相宛公電「邦人保護(当館が行った邦人救援活動)」は邦人保護のために大使館員が行った奮闘ぶりが描かれているが、「今回の邦人退避には日航及び全日空の協力が極めて大きく、両航空会社の協力なくしては今次作業は遂行しえなかった」と記されている。
日本大使館としては、パスポートを学校などに置いたまま空港に来た留学生をはじめ邦人50人弱に対して「帰国のための渡航書」を発給すると同時に、現金やクレジットカードを所持していない留学生らには「日航、全日空と交渉して金銭の持ち合わせのない者には借用証を入れることで航空券を入手出来るよう手配した」としている。
大使館が主導して対応したような書き方である。尾坂の手記と事実関係が食い違うのは次のVIPルーム借り上げのくだりである。同公電はこう記録している
「7日は、北京より帰国する邦人のピークとなり、定期便2便、臨時便4便にても約100名(婦女子、病弱者、老齢者を優先的に乗せたためほとんどが留学生)の積み残しが発生。これらの者を深夜空港から再度市内ホテルへ移送することは極めて危険な状況であったので、当館では館員数名を派遣し種々慰問するとともに、空港内VIPルームを手配、右に宿泊せしめるようアレンジした。当館館員も留学生と共にVIPルームに宿泊(他の中国人、第三国人らはコンクリートのロビーにごろ寝した状況であった)」
繰り返しになるが、尾坂によると、実際に手配したのは「当館」ではなく、ANAであり、大使館は同社に大使館が手配したことにしてほしいと依頼したのだ。
■ホワイトハウスはANAの対応を賞賛
「擬似航空券」、運賃未払いの乗客や外国人の搭乗―。いわばルール違反、超法規的措置である。しかしこうした人権感覚のある柔軟なハンドリングの結果、数日後の6月13日、尾坂らのもとにはANAワシントン支店長から「全日空機でアメリカに帰国された方々から感謝の声が次々と届いている」と連絡があった。「ヒューマンな対応であった」という声だった。ワシントンの日本大使館にもANAのハンドリングに対して感謝の手紙が届いた。
日米の外交交渉においても6月16日、ホワイトハウス国家安全保障会議(NSC)で中国政策を担当したダグラス・パールは、在ワシントン日本大使館公使らと会見した際、こう謝意を伝えた。
「中国滞在の米国人の国外退去にあたり日本側から得られた協力に感謝したい。特に成田で全日空が建設されたばかりのホテルを米国人乗客に無料で提供したことについては関係者はもとより米政府としてもこれを非常に多としている」(松永駐米大使発外相宛公電「米中関係[NSC内話]」1989年6月17日)。
北京からANA便で成田空港に到着し、ANA便でワシントンに向かう米国人乗客に対し、完成したばかりの開業前の「成田全日空ホテル」に無料で宿泊してもらったのだ。
北京の日本大使館は、日本政府要請の臨時便に外国人を搭乗させたANAの支店長や尾坂らを叱責したが、実際にはANAの「人権民間外交」に救われたのは、人権感覚の欠如した外務省であり、日本政府だったのではないだろうか。
(敬称略、肩書は当時)
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北海道大学大学院 教授
1969年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社に入社。中国総局(北京)特派員として中国での現地取材は10年に及ぶ。2020年に早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(社会科学)。現在、北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授。著書に『中国臓器市場』(新潮社)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)、『中国 消し去られた記録』(白水社)、『マオとミカド』(同)がある。
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(北海道大学大学院 教授 城山 英巳)
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