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「風呂場で受けたフルスイングの鉄拳」母は女王様、兄は甘ったれ王子…家庭内ヒエラルキー最下層妹の地獄絵図

プレジデントオンライン / 2022年7月23日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Lalith_Herath

30代の女性は幼少期から母親に筆舌に尽くしがたいDVを受け続けた。母親は息子には甘いところがあり、王子様扱い。一方、女性(娘)や婿養子の父親を家来のように見下し、暴言暴力を繰り返した。ある日、父は出張に行くと言って、失踪。2度と家に戻らなかった。残された女性は、その後――。
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、被害者の家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーは生まれるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破る術を模索したい。

今回は、兄妹差別を受けて育った女性の事例を紹介する。彼女が物心ついたとき、すでに2歳上の兄は王子様のよう。母親や祖父は兄の召使いのように言われるままに動き、妹である女性や祖母、父は奴隷のように扱われていた。彼女の家庭のタブーはいつ、どのように生じたのだろうか。タブーのはびこる家庭という密室から、彼女はどのように逃れたのだろうか――。

■家庭という王国

山陽地方在住の黒島禎子さん(仮名・30代)は、百貨店勤務の42歳の父親、パートで働く36歳の母親のもとに生まれた。母親が一人娘だったため、父親は婿養子に入り、母方の祖父母と同居。黒島さんが物心ついた頃には、すでに2歳上の兄は家庭内で王子様も同然の存在だった。

兄が小学校に上がった頃、66歳の祖父と40歳の母親は、兄がほしがるものは何でも与えた。兄が夕飯の席で、「なんで今日は肉がないんだよ」と言えば、「野菜は嫌いだったよね。ごめんね」と言って母親は慌てて肉を調理して、「待たせてごめんね、いっぱい食べてね~」と言って兄の前に置く。すると兄は、お礼を言うわけでも喜ぶわけでもなく、「当然でしょ?」とでも言いたげな表情で、黙々と食べた。時代劇を見て覚えたのか、いつからか、「余は満足じゃ、ほっほっほ」などと口にするようになった。

習い事も、野球、サッカー、テニス、スキーなど、兄が「やりたい」と言えばどんどんやらせ、その都度ウェアや用具を全て買い揃え、「もういいや。次はこれやる」と言えば、親が退会の届けを出し、次の習い事に移る。

テニスボールを持つ手
写真=iStock.com/Vuk Saric
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Vuk Saric

幼い時分の兄妹ケンカはどの家でもあるだろうが、黒島家は特殊だった。兄が一方的に妹を叩いたり蹴ったり髪を掴んで引っ張ったりしているにもかかわらず、親は全く止めようとしないばかりか、母親は「妹なんだから我慢しなさい」と。さらに兄を焚き付けた。

「『どうせあんたが悪いんでしょ、痛い思いして反省しなさい』という感じです。自分の娘に対してなぜ、と思うのですが、母はとにかく私にオンナとしての対抗心を燃やしていて、仲裁する時にも、嫌われたくないばかりに兄(息子)の肩を持っていました」

母親が黒島さんをかばってくれたことは一度もなかった。

「わが家は、まるで王国のようでした。祖父が王様、母が女王様、兄が王子。祖母と父、私は家来です。祖父は法律関係の仕事をしていたらしいのですが、若い頃は祖母に手を上げることがたびたびあったらしく、祖父母には全く会話がありませんでした。祖母は、私をかわいがってくれましたが、基本的には祖父や母親の機嫌を損ねないようにおとなしくしていました。婿入りした父は、結婚早々に一度、母と別れようとしたらしいのですが、祖父母に反対されて結局別れられなかった。私が物心ついた頃には両親にも会話はなく、母が一方的に八つ当たりをして、父はひたすら耐えている感じでした」

母親は、黒島さんに対しては容赦なかった。食べ残しをすれば平手が飛んでくる。習い事は突然、「女の子なら英語を話せなきゃ」と、無理やり英会話教室へ。「女の子なら、テニスができなきゃ」と、唐突にコーチをつけられる。そして無理強いしておきながら、「才能がない」となじり、「やめたい」と言えば、「あんたにいくらかけたと思ってるの?」と脅す。

服装も自由に選べなかった。「遊ぶ時にパンツが見えて恥ずかしいから」と言ってズボンをほしがると、母親は頬を叩き、「男みたい。頭おかしいんじゃないの?」と嘲笑。トップスはすべて兄からのおさがりだったが、ズボンを履くことは許されなかった。

一方父親は、兄にも黒島さんにも分け隔てなく優しく接した。母親は、兄や黒島さんに、父親に暴言や暴力をするよう強要していたのだが、父親は自分に暴言を吐き、暴力を振るう子どもたちに対しても少しも叱ることなく、遊びに付き合ってくれたり、おもちゃを買ってくれたり、レジャーに連れて行ってくれたりと、おおらかで子煩悩な人だった。

■母親のヒステリックと父親の失踪

ヒステリックな母親の暴力は、気に入らないことをすれば、兄にも同様に振るわれた。暴力は、3歳頃から始まり、その場に居合わせた人が思わず止めに入るほど激しかった。

一度逆鱗に触れると、母親は半日以上は怒鳴る・殴るを続けた。特にひどいときは、「さっき私が言ったことをもう一度言ってみろ!」「声が小さい!」「『うん』じゃなくて『はい』だろ!」「そういえばこの間も……」と次々と話題が移りながら、何日間も怒鳴られ、叩かれ続けた。

風呂場で暴力をふるわれることが多かったのには理由がある。個室であるため、逃げ道を塞ぐことができ、声も遮断できる。また濡れた手だと痛みが増す。黒島さんが小学校に上る前のある日、「あんたを怒っている私の声が外まで聞こえてたって同僚に言われたよ!」と言うので、黒島さんは一瞬、「暴力を止めてくれる人が現れた! これで解放される!」と期待したにもかかわらず、「あんたが悪い子だってみ~んな知ってんのよ!アハハハ!」と高らかに笑われ、「絶望した記憶が忘れられない」と話す。

ダーティバスルーム
写真=iStock.com/lightkey
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lightkey

「母の暴言のバリエーションにはいくつかありました。『頭おかしいんじゃないの?/生意気だ!/ガキのくせに!/ふざけるな!/私をバカにしてるだろ?』……。叩かれるのは、頭、顔、太ももが多かったですが、防御のためにうずくまると、髪をつかんで上を向かせられます。振りかぶって、フルスイングで平手や拳が飛んでくるので、母の指が目をかすめたり、叩かれた後、クラクラして倒れ込んだりしました。兄のメガネが吹っ飛び、破壊されたこともありました」

家の中では唯一、父親は止めに入ってくれたが、祖父母は、「叩かれないよう、お利口さんにしなさい」と言うだけだった。

さらに母親は、暇さえあれば父親の一挙手一投足に文句をつけ、その母親の悪態に黒島さん兄妹は、「そーだそーだ!」と同調しなければならなかった。父親が遊んでくれたときは必ず、「つまんなかった」など何かしら文句を言わなければ、母親のイライラの矛先が自分に向くため、黒島さん兄妹は必死に父親に対する悪口を絞り出した。

「母と私たち兄妹は、イジメの主犯格と取り巻きのような状態です。母が『お父さんとお母さん、どっちが好き?』と問いかければ、『お父さん嫌い!お母さんのほうが好き!』と、父の前で笑顔で言わされ、とてもつらかったです」

黒島さんが小4、兄が小6になったある日、52歳の父親は「出張に行く」と言ってボストンバッグ1つを手に、いつものように家を出た。しかしこの日が黒島さんたちが父親の姿を見た最後となる。数日後に離婚届が郵送されてくると、46歳の母親は泣き崩れた。

「当時小4だった私は、事態が飲み込めず『そのうちお土産をいっぱい持って帰ってくる』なんて楽観的に考えていましたが、兄は私に『今後お父さんの話は禁止だ』と釘を刺しました。父は、“婿養子で義両親と同居”という肩身の狭さと、母のヒステリーに耐えられず浮気し、そのまま駆け落ちしたようです」

祖父母は内心穏やかでないはずだが、平静を装っていた。母親は、父親の友人関係を把握しておらず、父親がどこへ行ったのか全く見当がつかないようだったが、後に、母方の親戚が父親について、「あんなに優しい人はいない。逃げ出して当然の扱いだった」と言うくらい母親の父親に対する仕打ちは凄まじかったため、母親自身も自責の念があったのか、捜索願いは出さなかった。

しばらくして母親は、「もうお父さんは帰ってこないよ」と言って泣いた。黒島さんは子供心に、「あんなに酷いことをしていたのに、今さらなぜ悲しむんだろう?」と疑問に思った。

父親の失踪発覚後、母親の暴力やヒステリーは一層ひどくなった。

■家族の形

小6の頃から黒島さんは、担任の先生や友だちから、「悪口や暴力で嫌われているよ。直したほうがいい」と厳しく言われるようになり、「大嫌いな母親と同じことをしている!」と気付かされ、愕然とする。

「母親や兄がそうしていたように、当時の私は、『気に入らないことがあれば怒る』『他人を思い通りにしたければ暴力を振るう』『悪口陰口は立派なコミュニケーション』と思い込んでいました。『自分の家がおかしいのでは?』と気付いた時は、苦しみよりも、『私の感じていた違和感は間違いではなかったんだ!』と確信したうれしさが勝りました。しかし、自分もそのおかしい家に染まっていたこと自体はとてもショックでした」

そんな頃、中学に入学した黒島さんは、親子3人でスポーツクラブに入会。そこで知り合った家族との交流が、黒島さんの人生を大きく変えた。

「その一家のお母さんは、ご主人と死別し、肉体労働をしながら女手ひとつで娘2人を育てていました。しかし母は、親のすねをかじっている身でありながら、その女性のことを遠回しに“汚れ仕事の貧乏人”だと言いました。その瞬間、それまで私にとって恐怖の対象だった母が完全に軽蔑の対象に変わりました」

その女性は、多忙ながらもとても明るくユーモアがあり、娘たちと友だちのような関係を築いていた。時折、娘たちを叱る様子を見かけたが、黒島さんの母親のように、怒鳴りつけたり手が出たりしたことは一度もなく、毎回根気強く言い聞かせて解決する光景に、黒島さんは、「こんな家族の形があるんだ」と衝撃を受け、世界が明るくなった気がした。

その女性は、黒島さんや黒島さんの兄に対しても、親しみを持ち、温かく接する。そんな一家と触れ合ううちに、黒島さんは、「自分をリスタートすることができるかも?」と希望を持つことができた。

以降、黒島さんは自分を矯正していく。例えば、箸の持ち方をちゃんと教えてもらったことのなかった黒島さんは、自分の箸遣いがおかしいことに中学に入ってから気付き、見よう見まねで直す努力を始めた。

箸麺
写真=iStock.com/enterphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/enterphoto

また、笑い方に関しても、友だちが可憐にクスクス笑うのを見て、自分が大口を開けてゲラゲラ笑っていることに気付いてから、自分の笑い声を録音し、それを聞きながら直した。小さい頃から頻回なまばたきや鼻をフンフン鳴らす癖があった黒島さんは、奥歯を噛み締めて堪えることで、高校を卒業する頃には直すことに成功。

「とにかく、無意識のガサツな行動や行儀の悪さを親に一切注意されてこなかったので、それらに気づいてからは、人前でリラックスするのが恐ろしくなり、常に緊張して固まっているため、今でも初対面の人には、勘違いされて『お高くとまってる』と陰口を言われてしまいます」

今でこそ明るく話す黒島さんだが、おそらく当時は、たった1人で血のにじむような努力を重ねてきたのだろう。

「もしもスポーツクラブで出会った一家に、『あなたの家って変だね』『あんな母親で可哀想』と言われていたら、自分で自分を“そういう子”にしてしまっていたと思いますが、家族同然に温かく迎え入れてもらえたことで、自分を変えるきっかけになったのだと思います」

わが家のおかしさへの気付きや、スポーツクラブでの出会いを経て黒島さんは、母親を「たまたま産んで育ててくれた女性」と割り切り、「人間だし、そういう日もあるよね」と許す日がある一方、「なぜそういう行動を取るんだろう」と冷静に客観的に分析することもあり、理不尽な目に遭っても絶望することはなくなった。

箸の持ち方はなかなか直せず、25歳で一人暮らしを始めてから、食事のマナー本を読み漁り、両手に箸を持って食事をすると上達が早いと知って実践。全身鏡で自分を見ながら、毎日1時間以上かけて食事をするうちに習得できた。

■兄妹の思春期

思春期に入っても、ズボンを履かせてもらえなかった黒島さんだが、だからといって母親は、女の子らしいファッションが好きだったというわけではなかった。

「母は、周りから娘がチヤホヤされ、『さすがお母様ね』と言われるためだけに私に可愛い服を着せて、オシャレをさせていただけです。だから、私がパンツが見えるのを恥ずかしがったり、脚のムダ毛を気にし始めてズボンをほしがった時や、可愛い下着をほしがった時は、『ガキのくせに色気付きやがって!』と激怒し、叩かれました。自分の娘を着飾らせたいけれど、本人がオンナに目覚めるのは許せない……という娘への対抗心があったのだと思います」

中学で所属していたバトン部のコーチから促されて、「そろそろブラをしたい」と伝えた時も、母親は「ふーん。いいけど」と、冷たい態度でしぶしぶ買ってくれた。

一方、思春期には兄も苦労していたようだ。兄が中2の時、友だちからもらい、部屋に隠していた女性のヌード写真が掲載された雑誌が母親に見つかってしまう。すると、「誰にもらったの!? ◯◯君!? じゃあ、今から◯◯君のお母さんに電話するから!」と取り乱す母親。途端に、「やめてくれよ!」と叫ぶ兄。まるで恋人の浮気が発覚したかのような修羅場が繰り広げられた。

以降、兄は明らかに家族を避け、口も聞かなくなった。そして大学進学を機に家を出ると、母親にも妹にも住所を教えなかった。

■病みゆく母親

黒島さんは高2のとき、「母は精神的に病んで通院しているのではないか?」と気づいた。母親の机の上に処方箋が置かれていたのを見つけたのだ。

当時、母親はパートで働いていたが、同僚に対する愚痴が多くなったかと思ったら、休みの日に寝込む、突然泣き出す、突然笑い出す、夜中に黒島さんの部屋に怒鳴り込んでくる、酒を飲んで暴れる……など、奇行がエスカレートしていく。

また、授業中に何度も電話をかけてきたり、「駄目な母でごめんなさい。もう死にます」「私が死ねばいいと思ってるんだろ!」「無視するな!」など、支離滅裂な長文メールや留守電が一日中入ってきたりということが続いたかと思うと、「私のこと病気だと思ってるんでしょ?でも鬱じゃないって先生が言ってたもん!」と呂律の回らない口調でまくし立ててきたこともあった。

「母は暴れ出すと、祖母や飼っていた犬にも暴力を振るう、鉢植えや自転車を投げて窓ガラスを割る、昼夜問わず突然わめき散らす、わざと酒を飲んで車で家出をするなどをしました。逃げようか、誰かに相談しようか。こちらのそんな気持ちを見透かしたかのように、母親は『おばあちゃんと犬がどんな目に遭うか分からないよ』と脅すので、結局できませんでした」

壊れたガラス
写真=iStock.com/ivansmuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ivansmuk

ただ、当時付き合っていた社会人の彼氏に「お母さんが暴れている」と怯えて電話をすると、車で迎えに来てしばらく匿(かくま)ってくれた。

ある時、黒島さんの彼氏に会った母親は、「あら~! 男前じゃないの~!」とベタベタとボディタッチ。彼氏から無理矢理電話番号を聞き出すと、何度もかけてきては、「娘ばっかりじゃなくて私のことも構いなさいよ!」とすごい剣幕で怒った。

母親が病んでいくに従い、祖父母は育てた責任を感じている様子だったが、祖父はどうしたらいいのか分からず、腫れ物に触れるように接するばかり。対照的に、祖母は、一生懸命向き合おうとしていた。

「祖母は、幼い子供を慰めるような口調で母を抱き寄せることもあり、精神的にボロボロだったと思います。私は何度か祖母と犬だけでも連れてどこかへ逃げてしまおうかと思いましたが、すぐに連れ戻されると思い、直接手を差し伸べることができず、祖母には苦労をかけました」

(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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