流産の手術が受けられず10日以上出血で苦しむ…「中絶規制」が進むアメリカの医療現場で起きていること
プレジデントオンライン / 2022年7月26日 13時15分
■半数以上の州で中絶が違法に
6月24日、アメリカの連邦最高裁は、人工妊娠中絶を巡り、半世紀近くにわたって判例となってきた1973年の「ロー対ウェイド(Roe v. Wade)」と呼ばれる判決の「中絶は憲法で認められた女性の権利だ」という判断を覆した。これによって、中絶を規制するかどうかの権限は、各州政府に委ねられることになった。
このニュースは、衝撃をもって全米で伝えられたし、日本でも大きく取り上げられた。
ロー対ウェイド判決は、「妊娠24週目までの中絶を合憲」としていていた。「今になってアメリカで、昔に逆戻りするような決定が下されるなんて……」と私も驚いたが、案の定、アメリカのメディアでも議論が巻き起こっている。そして日に日に、この問題が与える影響の深刻さが明らかになっている。
この連邦最高裁の判断を受けて、中絶を禁止する州が日々増えている。ワシントンポスト紙では、中絶が違法になった州をインフォグラフィックで分かりやすくまとめているが、多くの州ですでに中絶が禁止されているか、または今後禁止されることがわかる。中絶が合法であり続ける州は、全米50州のうちの20州たらずになりそうなのだ。
この状況をアメリカ人はどう思っているのだろうか?
ピュー・リサーチの調査によると、61%のアメリカ人が、中絶はすべて、あるいはほとんどのケースで合法であるべきだと答え、37%がすべて、あるいはほとんどのケースで違法であるべきだと答えている。
もちろん、赤ちゃんに罪はないし、すべての赤ちゃんが祝福を受けて生まれてくるべきである。しかし、レイプなどの被害者、幼くして妊娠した少女、貧困や健康上の問題を抱える妊婦など、中絶の禁止により苦しみ、人生を狂わされる女性が増える可能性は大きい。現在、中絶禁止の州で中絶手術を望む妊婦たちは、中絶が合法の州に行かなければならなくなっている。
■「中絶手術支援」が企業の福利厚生に
そんな女性たちを保護しようと、若くてリベラルな社員を多く抱える民間企業の中には、「中絶が禁止になる可能性がある州に住む社員」に対し、「居住地近くで中絶手術が受けられない場合は、中絶が違法でない州まで移動するための旅費を支払う」という方針を取る企業もある。
例えば、スターバックスは、同社の健康保険、スターバックス・ヘルスケアに登録している従業員について、居住地や政治的信条に関係なく、自宅から100マイル(約160キロ)以内に中絶を受けられる医療機関がない場合、中絶を受けられる医療機関に行くための旅費を会社が負担するという。
■州知事の先手を打ったアマゾン
一方アマゾンでは、最高裁判所の判断が出る前の5月2日に、中絶を受けるための旅費として社員に4000ドルまでを支給すると表明していた。
アマゾンは2025年までに、約2万5000人が働く第2本社ビルをバージニア州のアーリントンに建設する予定だ。バージニア州は現在、妊娠6カ月までの中絶は合法で、「妊娠を継続すると母体を命の危険にさらす」と複数の医師が判断した場合については妊娠6カ月以降でも認められる。
しかし、最高裁判決の後、バージニア州のグレン・ヤングキン知事は、妊娠15週以降の中絶禁止を求める予定だと表明している。アマゾンの対応は、こうしたバージニア州知事の動きに合わせ、先手を打ったといえる。
アマゾンの拠点がある他の州でも、中絶禁止が進んでいる。テネシー州では、ビル・リー知事が2020年7月に、例外規定を極めて限定した6週以降の中絶禁止に署名している。この措置は連邦裁判所によって一度阻止されたが、ロー対ウェイドの逆転判決を受けて6月28日に発効した。
ウォルトディズニー社も、居住地近くで中絶手術が受けられない場合、中絶が違法ではない州まで移動するための旅費を支払う方針を発表している。ディズニーはカリフォルニア州の企業だが、フロリダ州のディズニーリゾートで約8万人を雇用している。フロリダ州ではすでに、妊娠15週以降の中絶を禁止する州法が7月1日に施行されている。
このほか、銀行大手のJPモルガン、通信大手のAT&Tなどのいくつかの企業も、社員に対し、「合法的な中絶」を含む医療を受けるための旅費を負担すると伝えている。
■全米の注目を集めた10歳の少女
6月24日の最高裁判決の後、中絶が禁止されたばかりのオハイオ州からイリノイ州へ移動し、中絶手術を受けた10歳の少女が全米の注目を浴びることとなった。オハイオ州議会はその数時間後に、妊娠6週以降の中絶処置を一切禁止した。強姦や近親相姦で妊娠した場合も、中絶が認められない。
この少女のことは、7月1日に地元紙インディアナポリス・スターによって初めて報じられた。報道によると、少女は強姦され、妊娠6週間と3日の時点でオハイオ州内の医師に相談し、その医師の紹介を受けてインディアナ州で6月30日に中絶手術を受けたという。
「10歳の子だ。10歳で強姦されて、妊娠6週で、すでに衝撃を受けているのに、別の州に移動しなくてはならなかった。自分がその小さい女の子だったらと想像してみるといい」と、7月8日、バイデン大統領は演説の中で、この少女について語っている。
この少女については、バイデン大統領の演説の後、保守派の野党・共和党議員などの間で「でまかせだ」と報道を疑う声があがり、アメリカのメディアで大きな議論になっていた。
![アメリカ連邦最高裁判所](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/7/1200wm/img_c75829246c87cd88eb25349069bbb6f31017710.jpg)
■子どもの妊娠と中絶
しかし7月12日、少女を強姦した疑いで27歳のハーション・フエンテス容疑者が逮捕・起訴され、オハイオ州コロンバスの裁判所に出廷したことで、真偽についての騒ぎは収まったようだ。警察は逮捕時に、容疑者の唾液を採取。捜査当局は、少女が中絶手術を受けたインディアナポリスの中絶クリニックで採取されたDNAと照合して鑑定する方針だという。
この10歳の少女のような事例は、特別なことではない。
ニューヨークタイムズによると、オハイオ州では2020年の1年間で、14歳以下の少女52人が中絶手術を受けたという。実に1週間に1人が中絶している計算になる。また、「性と生殖に関する健康と権利」を研究しているガットマッチャー研究所(Guttmacher Institute)の調べでは、2017年には15歳以下の子ども4460人が妊娠し、そのうち44%が中絶しているという。
インディアナ州で、この10歳の少女の中絶手術を行ったケイトリン・バーナード医師は、「性的暴行や虐待を受けたすべてのサバイバーに心が痛みます。私たちの国が、彼女たちが最も必要としている時に、彼女たちを失望させていることがとても悲しい」とツイートした。
そもそも、若者や子どもたちが中絶手術を受けるには、成人女性よりも高いハードルがある。中絶が可能な(場合によっては州外の)医療機関に行くための交通手段が必要となるし、手術費用もかかる。両親の許可を得る必要もある。
「ロー対ウェイドの判決が覆される以前から、若者の中絶には多くの壁がありました。今回の決定により、中絶が制限された州に住む若者の困難が、さらに大きく拡大することになります」とカリフォルニア大学サンフランシスコ校の疫学者、ローレン・ラフル博士はニューヨークタイムズに語っている。
■手術をためらう医師たち
妊婦が子宮外妊娠や流産をして危険な状態であったとしても、中絶を禁じる州法に抵触することを恐れ、手術をためらう医者も出てきているようだ。
ワシントンポストでは、胎児の心音が確認されたために、子宮外妊娠の患者が胎児を取り除く手術を地元の医者にしてもらえなかった例を紹介していた。その患者は結局、緊急手術のために、中絶が合法なミシガン州にあるミシガン大学病院に搬送された。
■医療現場で起きている混乱
中絶が禁止されているウィスコンシン州では、救急治療室のスタッフが不完全流産をした女性の体から胎児組織を取り除くことをためらったという。胎児組織を取り除くためには通常、子宮内膜掻爬術を行うが、これは人工中絶の際にも使われるため、医師が中絶手術を行ったとみなされるのを恐れたからだ。その結果、その女性は10日以上出血で苦しんだという。
また、ダラスの2つの病院が、妊娠22週以前に破水やその他の深刻な合併症を起こした28人の患者について調査した結果も報じられている。この妊婦たちは、「生命への『緊急の脅威』があるか、胎児の心臓の活動が停止するまで医療介入できない」というテキサス州の法律のため、医療処置がすぐに受けられなかったという。彼女たちは、「平均9日間待たされ、57%が重篤な感染症、出血、その他の医学的問題を抱えることになった」と報告されている。
「今回の決定は、混乱と恐怖を生んでいます。私たちは、医学的に何をすべきかは分かっていても、法律に基づいて何ができるのかが分からないのです」とアトランタのニシャ・ベルマ医師はワシントンポストに語っている。この医師のいるジョージア州では、7月20日、裁判所が、6週間を超えた中絶は違法であると判断している。
子宮外妊娠や流産は大量の出血を伴う。数時間で死に至ることもあり、一刻を争う。そんな時に、何時間もの移動を強いられたり、中絶手術とみなされ州法に抵触することを恐れ、医者が手術をしないなど、ありえないことではないだろうか。
■対立する民主党と共和党
医療現場でこのようなことが起きている一方で、首都ワシントンでも法手続きを進め、妊婦を保護しようという動きがある。
民主党は、中絶の権利を全米で保障する法案と、中絶を受けるために他の州へ移動する権利を保障する法案の2つを議会に提出し、下院は7月15日、それぞれを賛成多数で可決した。
しかし、これには共和党から激しい反発がでているため、民主党が主導する下院では可決されたものの、上院での法案の成立は、ほぼ不可能だとみられている。
現在、上院では、民主党、共和党がそれぞれ50ずつの議席を持っている。しかし、予算関連法案や人事案などの例外を除き、上院で討論を打ち切って法案の採決に進むためには、議席の5分の3、つまり60票以上の賛成を必要とするという規定がある。法案成立には過半数だけではなく、事実上60票の賛成が必要になるということだ。当然、民主党だけでは賛成票が足りない。
■国論を二分する中絶の議論
一方、メディアでも民主党対共和党のバトルが繰り広げられている。
フォックス・ニュースの番組に出演したサウスダコタ州のクリスティ・ノーム知事は、中絶を擁護するバイデン政権を批判した。中絶反対派であるノーム知事は、「私は、家族などの支援がない孤立した妊婦や経済的に困窮した妊婦がいることも十分認識している」と言い、教会やNPOと連携して妊婦をサポートしたり、養子縁組などの支援もすると述べる。
確かにアメリカでは、養子を受け入れる家庭が多い。生んでも育てることができない場合、そういった選択肢も日本より、はるかに多い。
しかし、今回の最高裁の判決で、アメリカ国内、とりわけ医療の現場が相当混乱していることが、ここ1カ月で明らかとなっている。人工中絶の是非を問い、女性が生み育てる責任を追及することにより、逆に危険にさらされる命もある。母体保護という観点も見逃してはならない。
アメリカは、11月に中間選挙を控えている。中絶の問題は、民主党と共和党という政治対立だけでなく、アメリカという国の分断をさらに深刻化させかねない。
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ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ執行役員・論説委員
上智大学外国語学部卒業後、1991年ジャパンタイムズ入社。政治、経済担当の記者を経て、2006年より報道部長。2013年より執行役員。同10月には同社117年の歴史で女性として初めての編集最高責任者となる。2000年、ニーマン特別研究員として米・ハーバード大学でジャーナリズム、アメリカ政治を研究。2005年、キングファイサル研究所研究員としてサウジアラビアのリヤドに滞在し、現地の女性たちについて取材、研究する。著書に『The Japan Times報道デスク発グローバル社会を生きる女性のための情報力』(ジャパンタイムズ)、国際情勢解説者である田中宇との共著『ハーバード大学で語られる世界戦略』(光文社)など。
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(ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ執行役員・論説委員 大門 小百合)
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