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なぜ平氏政権は20年で終わり、源氏政権は150年も続いたのか…鎌倉殿の13人に4人いた「吏僚」のすごさ

プレジデントオンライン / 2022年8月5日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sanga Park

なぜ平氏政権は約20年で終わり、源氏政権は約150年も続いたのか。作家の伊東潤さんは「源頼朝は武士をいち早く政権の中枢から弾き出し、文官である吏僚(りりょう)を重用した。この吏僚たちが『御恩と奉公』という画期的な統治機構を確立させた」という――。

※本稿は、伊東潤『平清盛と平家政権 改革者の夢と挫折』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。

■優れた統治機構を作り上げたのは文官たちだった

頼朝は清盛から何を学び、また何を反面教師としたのだろうか。

その第一が統治機構を確立したことだろう。考えてみると、平家というのは既存の朝廷という統治機構に食い込んでいったことから、独自の統治機構を持たず、政治体制も律令制度から脱するものではなかった。たとえ偶然からとはいえ、それを何のお手本もなく打破していった頼朝は、さすがとしか言いようがない。

大河ドラマは人間ドラマ部分に注目が集まりやすいので、試行錯誤しながら統治機構を作り上げていく文士(文官)たちの姿が描かれないのは仕方がない。しかし鎌倉幕府は優れた統治機構を確立した文士たちに恵まれたからこそ、多くの武士(開発領主)の支持を得られたと言っても過言ではないだろう。それが、明治維新まで680年余も続く武家政権の端緒となったのは周知の通りだ。

本稿ではとくに「統治機構(組織)」に焦点を当て、鎌倉幕府がいかにして存続し得たかについて考察していきたいと思う。

■平家政権は「真の武家政権」ではなかった

平家政権は伊勢平氏という武門の氏長者の平清盛が中心にいたため、武家政権の端緒と捉えられがちだが、実際は朝廷による従来の統治機構と利権構造に平家が入り込んだというのが正しい認識だ。

すなわち清盛には確固たる国家ビジョンがあったわけではなく、朝廷、公家、寺社が長年保持してきた利権をわが物にするという考えしかなかったことになる。

「政権ビジョンを描くなど、この時代には無理だ」と考える向きもあるかと思うが、実際は渡海した僧が持ち帰った漢籍(『四書五経』や『武経七書』)には、「国家とは」「首長とは」「政治とは」といった命題が掲げられ、それぞれ回答らしきものも載っている。

これらを読んでいれば、自分なりの国家像や政治理念、そして新たな統治機構といったものが形成されるはずだが、清盛にはそんな痕跡は皆無だ。つまり酷な言い方をすれば、自らと一族の繁栄のためだけに、武力によって公家社会や権門勢家から政策決定権、利権、人事権などを奪ったと言えるだろう。

■清盛は日宋貿易のおかげで過大評価されている

昨今、日宋貿易への傾倒から、清盛を過大評価する向きも多いが、それは清盛の一部にすぎず、その大部分は、自らの係累や家人を知行国守や国司の座に就けること、すなわちこの時代の利益の源泉となった荘園や耕作地の奪取に向けられていたのは紛れもない事実だ。

平相国清盛 月岡芳年画(写真=芳年武者无類/PD-Japan/Wikimedia Commons)
平相国清盛 月岡芳年画(写真=芳年武者无類/PD-Japan/Wikimedia Commons)

言うなれば、ゼロサムゲームの中で総取りを狙ったのが平家の実態で、わずかに日宋貿易を盛んにしてゼロサムゲームから脱しようとしたことを、ことさらクローズアップすることもないはずだ。

政権を維持するには、様々な権力を持つ機関(この時代なら権門勢家)の利害を調整し、それぞれの反発を最小限に抑える努力が必要になる。言わば誰もが大満足ではないにしろ、我慢できる範囲に収めることで反発を和らげていく努力が必要だ。しかし人というのは武力を持つと、どうしても使いたくなるのが常だ。

清盛には後の源頼朝と鎌倉幕府のように、朝廷との共存共栄を装いながら自らの勢力を浸透させていくという緻密で周到な計略はなかったことになる。

■長男が早世し、清盛の暴走を止める人はいなくなった

また絶対的な権力を握った者は、自分の力を過信したがる傾向がある。清盛はその代表のようなもので、後白河法皇に対する強引な措置(治承三年の政変)に見られるように、晩年は力の過信だけでなく、感情を制御できなくなっていた節がある。

同時に、自らを支える根幹となる地方の武士(開発領主)に対する配慮も行き届いていたとは言い難い。これも独裁者ならではのことだろう。

例えば大番役などは、所領を三年も留守にする地方武士にとって不安この上ない。

しかも負担は自腹なのでたまらない。嫡男が大番役で京都に詰めている間に当主が亡くなった場合、地元で弟や叔父が惣領の座を奪うことさえあったのだ。後に頼朝は、平安時代には三年だった大番役の期間を半年ほどに短縮したが、こうした配慮を清盛がした形跡はない。これなどは独裁者ゆえの共感性のなさに起因するものだろう。

清盛の場合、有能かつイエスマンではない側近集団を持たなかったことが、独裁的傾向が強くなった理由だろう。相談相手としては藤原邦綱の名が挙がるが、腹心というより朝廷との間に入った調整役の色が濃いように感じられる。

唯一、長男の重盛だけが諫言できる立場にあったが、早世によって清盛は歯止めが掛からなくなる。これなどは秀長の死により、自らの野望に飲み込まれてしまった秀吉を思わせる。

かくして清盛の死後、そのカリスマを引き継げなかった宗盛らにより、平家は壇ノ浦の藻屑と消えるわけだが、朝廷という器の中にいる限り、栄華盛衰は必然のことのように思える。

■京都ではなく鎌倉に拠点を置いた頼朝の狙い

頼朝は武士の府の中心を鎌倉に定めた。これは意図的なものだったと後にされるが、実際は東国に割拠する政権、例えば平将門が目指したものを模倣したのだろう。将門と違うのは朝廷に逆らわず、軍事権門として、その中に組み込まれることも辞さなかった点にある。

だが頼朝は武家政権を樹立する際、朝廷の影響力が及び難い東国を選び、そこから動かなかったのは正解だった。平家のように京都に本拠を置く限り、やがて公家化していき、朝廷の身分秩序の中に組み込まれてしまう可能性があった。そうなれば各地の武士たちの支持を失うのは目に見えている。

また平清盛がそうだったように、洛中という狭い空間で朝廷と同居する限り、感情的対立がヒートアップし、武力の行使に至ってしまう可能性もあった。

それゆえ頼朝が地理的にも政治的にも朝廷と距離を置き、一定の独立性を保持する方針を貫いたことが、鎌倉幕府の存続につながったと言えるだろう。

■たとえ武家政権でも軍人が政治をやってはいけない

また武辺者をいち早く政権の中枢から弾き出し、京下りの吏僚(りりょう)を重用したことも、鎌倉幕府の成功要因だろう。

政権というものは、軍事力だけでは成り立たない。軍事力は国家と政権を支えるものにすぎず、軍人が政権の主体となると、うまくいかないケースが多い。

現代でも軍事クーデターに成功したアフリカなどの国では、軍人が政治の中枢に居座ったままだと、必ずうまくいかなくなる。しょせん餅は餅屋なのだ。

それゆえ初期段階では、軍事組織が政権の中枢を担うことがあっても、平時に移行するにつれ、徐々に政治のプロたちに権力の座を譲っていかねばならない。その先鞭(せんべん)をつけたのが鎌倉幕府だった。そこに頼朝の賢明さを見る思いがする。

続いて、頼朝がどのような者たちをスカウトしたか見ていこう。

■頼朝の懐刀として大出世した大江広元

頼朝の死後、2代将軍頼家を支えるべく選抜された宿老13人の中には、4人の吏僚がいる。

まず13人の内訳だが、武士が北条時政・同義時・三浦義澄・和田義盛・梶原景時・比企能員・安達盛長・足立遠元・八田知家の9人で、文士(文官)が中原親能・大江広元・三善康信・二階堂行政の4人になる。武士たちは各氏族の家長で、軍事的な貢献度が高かった。その一方、文士4人に軍事的貢献は皆無だ。

大江広元像(写真=『毛利家の至宝』サントリー美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
大江広元像(写真=『毛利家の至宝』サントリー美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

本稿では文士のみ紹介するが、13人全員の詳細を知りたい方は、拙著『鎌倉殿を歩く 1199年の記憶』(歴史探訪社)を購入いただきたい。

まず文士の筆頭に挙げられるのは大江広元だろう。京の公家たちから「二品(頼朝)御腹心専一者」と呼ばれるほど頼朝の懐刀として活躍したこの文士は、下級公家の出身で、京にいる限り、出世は頭打ちだった。ところが実兄の中原親能が先に頼朝にスカウトされた縁で鎌倉幕府に招聘(しょうへい)されると、その手腕をいかんなく発揮し、まさに「鎌倉幕府創設の立役者」と呼ぶにふさわしい活躍を見せる。

だが風見鶏だったのも確かで、一本筋の通った人物というより、状況に応じて権力者に従っていたという側面がある。だがそれも鎌倉幕府の安定という側面からすれば、致し方なかったのも事実だ。

言うなれば鎌倉幕府は、大江広元の作品と言っても過言ではなく、「大江幕府」と呼ばれるのも当然の気がする。

広元の兄の中原親能は、明法道を家学とする家の出で、広元と共に法律に明るかった。だが彼の本領は主に朝廷との外交面で発揮され、京都守護や政所公事奉行などを歴任し、鎌倉幕府を陰に陽に支えていた。広元のようには表舞台には登場しなかったが、その性格が野心家ではなく実務家だったので、頼朝の謀臣的立場には成り得なかったのだろう。

■文官4人なくして鎌倉幕府は続かなかった

明法家兼算道家で太政官書記を世襲する中級貴族の家に生まれた三善康信は、初代問注所執事(今で言えば最高裁長官)となって辣腕(らつわん)を振るった。頼朝の死から2代頼家の擁立に至る鎌倉幕府存続の危機において、「13人の宿老体制」を積極的に推し進めたのも康信と言われ、要所において存在感を示している。彼の法律家としての公正さが、鎌倉幕府の信用を高めていたのは言うまでもない。

二階堂行政は会計、法令、訴訟などの行政文書作成の専門家だった。奥州征伐では戦後処理を託され、頼朝の上洛行にも同行した。おそらく庶務全般を担っていたと思われる。また頼朝が永福寺を建立することになった時は、行政が造立奉行を命じられた。行政は普請作事にも精通していたからだろう。いわば典型的な実務官僚で、後の石田三成に通じるものがある。

この4人なくして鎌倉幕府は続かなかったと言っても過言ではないが、彼らを政権の中枢に据えた頼朝の慧眼なくして、彼らの活躍の場もなかったと言えるだろう。やはり頼朝は、ただ者ではなかったのだ。

■朝廷、大社大寺と並ぶ軍事権門の誕生

頼朝と大江広元らスタッフは、「御恩と奉公」という所領の安堵と新恩給付と引き換えに、武士たちを鎌倉幕府のために奉仕させる仕組みを生み出した。これは画期的なことで、武門のトップが、自家の郎党や所従以外の武士たちとの間に主従関係を築いた端緒となった。すなわち開発領主の所領と権益を、上位機関が法的に守ってくれるとなったことで、彼らも幕府に忠節を誓い、幕府は強力な軍事集団を形成していくことになる。

かくして木曾義仲、伊勢平氏、義経と奥州藤原氏といった敵対勢力を滅ぼした頼朝は、朝廷から右近衛大将に補任され、その率いる幕府は「唯一の官軍」として認知された。

これは、政治を司る朝廷、宗教を司る大社大寺と並ぶ軍事権門の誕生を意味した。

つまり朝廷が鎌倉幕府を認めた時、東国のローカルな軍事集団は、朝廷を支える軍事権門に成長したことになる。同時に頼朝を頂点とした御家人たちの地位も、朝廷の身分秩序の中に包摂されることになった。

だが頼朝は平家政権から学んでいた。官位の下賜(かし)という朝廷の特権を駆使されると、御家人たちが朝廷と直接結び付く。それを防ぐには、幕府が官位推挙権の一元的掌握をせねばならない。要は「武家の官位については、幕府の推挙なしに与えないでくれ」と釘を刺すことで朝廷と距離を取り、幕府を独立した組織としたのだ。

■武士たちが崇拝する朝廷から独立を勝ち取った

古来、武士たちにとって朝廷から与えられる官位は、自らの権威を示すと同時に、所領を支配する正当性を保証するものだった。その推挙権を頼朝が一元的に管理することで、幕府は朝廷の下部組織(軍事権門)という位置づけながら独立を勝ち得たのだ。

伊東潤『平清盛と平家政権 改革者の夢と挫折』(朝日文庫)
伊東潤『平清盛と平家政権 改革者の夢と挫折』(朝日文庫)

一方、頼朝が幕府を創設した頃は、朝廷側にも後白河院、源通親、後鳥羽天皇といった一筋縄ではいかない人材が輩出した時期でもあり、その晩年、頼朝でさえ朝廷に取り込まれそうになる。その傾向は頼朝の死後も強まり、後鳥羽院とソウルフレンドのような関係を結んでいた3代将軍実朝は、次期将軍に後鳥羽院の息子を迎えようとするところまで行く。

つまり平清盛がそうだったように、幕府も朝廷の一機関という地位に甘んじる方向に進んでいったことになる。それだけ朝廷というのは魅力的なもので、武士たちにとって憧憬(どうけい)を通り越した崇拝の対象だったのだ。

それを阻止したのが北条義時になる。簡単に言えば、義時はこのまま朝廷追従路線を続ければ、幕府は形骸化し、武士たちも公家たちの走狗(そうく)に逆戻りするという危機感を持っていたと思われる。

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伊東 潤(いとう・じゅん)
作家
1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。外資系企業に長らく勤務後、文筆業に転じ、歴史小説や歴史に題材を取った作品を発表している。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を受賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で歴史時代作家クラブ賞作品賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。『峠越え』で中山義秀文学賞を受賞。その他『江戸を造った男』、『北条五代』(火坂雅志との共著)、近刊に『平清盛と平家政権 改革者の夢と挫折』(朝日文庫)がある。

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(作家 伊東 潤)

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