3円を稼ぐために10キロ先までリヤカーを引く…脱北YouTuberが振り返る"リアル北朝鮮"の極貧生活
プレジデントオンライン / 2022年8月25日 10時15分
※本稿は、キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」』(光文社)の一部を再編集したものです。
■食べ物を調達してきてくれた弟との今生の別れ
10歳くらいの頃に母が亡くなったあと、父もどこかに消えてしまった。のちほど祖父から聞いた話では、父は食べ物を求めて親戚の家を転々としていたが、そのうち親戚も父を囲う余裕がなくなったため、中国に出稼ぎに行ったのだという。中国から父が連絡を寄こしたので判明したが、父が姿を消した当時は、親戚の誰もが父はどこかで飢死したのだと思っていた。
弟との路上生活ののち、僕は祖父母と叔父たちが住んでいる地域に身を寄せることになった。
しかし、当時の祖父母は自分たちの食べ物さえ得られない状況で、僕たち兄弟を育てる余裕などなかった。食料配給があるときですら、周りに住んでいた人々や叔父たちから食料をもらって生活していたほどだった。
路上生活をしていたとき、盗みがどうしてもできなかった僕は、弟が奪ってきたものを食べていた。本来なら兄である僕が弟を養うべきなのに、実際には弟に頼りっきりで、まるでお荷物だった。祖父母が、「兄弟どちらか1人ならなんとか世話ができる」と手をさしのべてくれたときも、弟は「僕は1人でも生きられるから、兄ちゃんが行きなよ」と言った。
正月が過ぎたばかりの寒い日だった。
僕たち兄弟は「春になれば、畑に行ける。なんとか兄弟2人分の食料も手に入れられるだろう」と考え、3月にまた会おうと約束し、駅前で別れた。
だが、僕は何が何でも彼と一緒にいるべきだった。それが、最後の会話になってしまったから。弟と再び会う日は訪れなかったのだ。
脱北後に中国で父と再会したとき、そこに弟を連れてこられなかったことが本当に辛く、情けなかった。
7人家族が、たった2人だけになってしまったのだ。
僕は息子として、兄としての責任を果たせなかった自分を責め、それから毎日横になっては、弟を思い出して泣いた。
凍える冬の駅の下、身を寄せ合って夜を越した日々。弟は精神的なストレスのせいか、もう赤ん坊ではないのによくおねしょをしていた。夜に漏らした尿でズボンが凍ってしまうので、起きてから体温で溶かし、動きまわることでなんとか乾かしていた。僕はそれをどうにもできず、ただ隣で見ているしかなかった。その光景が鮮明に思い出される。
今でも、彼を想わない日はただの1日もない。
■朝5時から16時間の薬草摘みで日銭を稼ぐ
祖父母のもとに身を寄せてからは、日銭を得るために働く日々が続いた。小学校卒業後に6年間通うはずの高等中学校には通えなかった。
生きるために必要な額は、最低でも1日30ウォン(約3円)。毎朝、山で薬草を採ったり、薪を集めたり、秋は祖母と一緒に畑に落ちているとうもろこしや豆を集めることもした。1998年頃の一時期は、中国から買い付けた薬草が高値で売れることもあり、助かった。
薬草採りは僕と同じく、学校に行けなかった子と一緒に朝の5時頃に出発し、山に入って2~3時間は歩く。そうまでしないと、採れる場所がないからだ。そして薬草をリュックに詰めて夜の8時、9時に戻る。
やがて数カ月後には1500ウォン(約150円)ほどが貯まったが、これは結構な金額だった。それまで服を買ったことがなく、ほとんど同い歳のいとこや叔父たちのおさがりをもらっていた僕は、当時流行っていた、金正日と同じズボンが欲しかった。だが冬を十分に越すための石炭2tの値段が約1400ウォン(約140円)。ズボンは500ウォン(約50円)だったので、諦めた。
家から10kmくらい離れた炭鉱までリヤカーを引いていき、100kg当たり50ウォン(約5円)で仕入れた炭を100ウォン(約10円)で売ったりもした。丸く固めて穴が開いた練炭は暖を取る用、石の形をしたものは外での炊事用と用途が分かれていた。
また、北朝鮮ではウサギや豚を飼うことが多いので、餌になる草が売れる。だが、それらを20kg売っても、とうもろこし1、2kg分しか得られない。とうもろこしと葉物を半分ずつ入れてお粥のようにして食べるが、葉物が多いとすぐに腹が減ってしまう。稼ぎによって、とうもろこしの量が増えたり減ったりした。
■「なぜこんな過酷な暮らしを」と疑問に思う余裕すらなかった
そんな毎日が何年も、雨の日も雪の日も休みなく続いた。天気が悪い日は薬草採りは休みたかったが、祖母にどやされるので仕方なく体を引きずった。
今のように週休2日という概念はなく、延々と続く重労働。夜に帰って友達と会いたくても、明日のためには早く寝ないといけない。
楽しみといえば、明日は美味しいものを腹いっぱい食べられるだろうか、少しは質が良くなったり、量が増えたりするだろうかと思いを馳せることだった。
とにかく食うためだけに必死だったので、どんなにスローガンを叫ばれ扇動されても、政治のことを考える余裕はなかった。
北朝鮮に生まれると、大多数の国民は海外の情報に触れることができない。よって、自国の矛盾に気づくこともない。毎日テレビで「我が国は地上の楽園」と言われることを不満に思う人が多いならば、今頃北朝鮮という国はなくなっているだろう。
僕は、なぜ自分がこんな暮らしをしなくてはいけないのかと疑問に思うことすらできなかったのだ。
■白黒テレビやミシンも借金のカタに持っていかれた
母と姉を亡くし、父が消え、弟と生き別れた僕は、10歳から18歳まで、ほとんどの時間を祖父母の家で過ごした。
僕は、長男の孫ということで祖父母から特別に愛されていたように思う。特に祖父からはとても大事にされていた。
生活が少し安定していた頃は、叔父たちが普段食べられない美味しいものや、なかなか手に入らない珍しいものを祖父にプレゼントしてくれたのだが、祖父はそれをすべて僕にくれた。叔父やいとこたちは、同じ孫なのになぜ差をつけるのかと不満に思ったかもしれない。
祖父母の家は一軒家で、2世帯で住めるようになっていた。台所と3畳ほどの部屋が2つあり、祖父は、北朝鮮では「上の部屋」と呼ばれる年長者用の部屋を寝床にし、祖母と僕は「下の部屋」で一緒に寝ていた。
冷房もないため夏は窓を開けっぱなしで、蚊がたくさん入ってきた。台所では石炭を使い、余裕がなくなれば薪に切り替えることもあった。
部屋の中には特に何もなかった。
一時期、白黒のテレビがあったが、叔父の1人が事業に失敗して借金のカタに取り上げられてしまった。祖母はミシンがすごく好きで、服に穴が開くとミシンで直していたが、それも持っていかれてしまった。
■隣人や家族とうたってしゃべるのが幼少期の唯一の楽しい思い出
しかし、叔父たちが人付き合いが上手く、あらゆるところから助力を得られたのと、2000年代に入り北朝鮮経済が少し回復したのもあって、その後は家計を持ち直すことができた。僕が脱北する数年前は「苦難の行軍」時代も終わり、少しは余裕ができた様子だった。村の中では頼りにされるような、そんな家だった。
祝日や、祖父母の誕生日になると親族で集まり、祖母の手作りの豆腐や料理、各家庭から手料理を持ち寄って宴会をした。
普段はとうもろこしだが、その日だけは白米とお肉を食べられる。この日のために、皆で少しずつ米やお金を集めるのだ。昔は政府から油100gや肉などの配給があったが、その頃にはもうなくなっていたので、自分たちでどうにかするしかない。
お酒は焼酎を密造する人が多かったので、買ったり造ったりしたものを飲んだ。ビールは一般の人では手に入らないが、たまに叔父の1人が買ってくることがあった。その叔父は軍部隊の物流関係の仕事をしていたため顔が広く、人脈を通じて高級品を調達してくることが珍しくなかったのだ。
狭い部屋に4世帯がひしめきあって、歌をうたったりしゃべったりして盛り上がる。村の親しい人や、近くの村に住んでいる叔父の友人が来ることもあった。
僕は祝日や祖父母の誕生日が終わると、次に皆で集まれる日がいつ来るかを毎度楽しみにしていた。子供の頃の、唯一の楽しい思い出だ。
■死んだはずの父が手配した脱北ブローカーが現れた
僕は10代半ばを過ぎても相変わらず、休むことなく何らかの労働に明け暮れた。祖母と一緒に畑に行って出荷したあとに落ちた農作物を拾ったり、自ら畑に種をまいて収穫もした。同じ村の友達と一緒に川で砂金を採り、0.1g採れば100ウォン(約10円)になり、米1kgが買えた。
ほか、数km離れた炭鉱で採った炭をチャンマダン(市場)で売る、リヤカーで運搬業をする、数日分の食料を持参して遠くの山まで薬草を採りに行く、豚の餌になる草を刈ってきて売る……。
そんな終わりの見えない日々が続いていた2003年の年末、18歳になっていた僕をある人物が訪ねてきた。
「俺は、お前の父親がお前を呼び寄せるためによこしたブローカーだ」
僕はそれまで、父は「苦難の行軍」のときに路上でのたれ死んでいた人々と同じ末路を辿ったのだとばかり思っていた。しかし父は生きていて、中国を経由して南朝鮮(韓国)から僕を呼び寄せようとしているというのだ。
■南朝鮮を目指す脱北は重罪だが…
父に会いたい気持ちはある。ここでの生活にも疲れていた。しかし、リスクの大きすぎる賭けだった。
まず、安全に脱北できる保証はない。北朝鮮では、南朝鮮を目指すことはただの脱北よりもはるかに罪が重い。捕まったら数年間の懲役刑か、最悪の場合は政治犯収容所に送られ、そこで一生を終えることになるだろう。そうなった場合、親代わりに育ててくれた祖父母や、叔父たちもただでは済まない。大切な人たちの運命まで狂わせてしまうと思うと、心が揺れ動かずにはいられなかった。
一方、脱北が成功しても、愛する祖父母や叔父たち、そして友人たちとは今生の別れとなる。激しく逡巡した。
だが、ただひとつ明らかなのは、ここにいる限り僕の人生が開くことはないということだった。
結局僕はいつもどおり、友達の家に行くふりをして家を出た。祖父母の顔を見ると踏みとどまってしまいそうで、別れの挨拶はできなかった。
それが一度目の脱北だった。
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1985年、朝鮮民主主義人民共和国の北東部・咸鏡南道に生まれる。10歳のときに母、姉3人と死別、父と離別。小学校をやめ、弟と路上生活を始める。11歳で弟と生き別れ、祖父母の家に身を寄せる。18歳で一度目の脱北を試みるも失敗し、白頭山のふもとにある留置所に送られる。23歳で二度目の脱北を試み、豆満江を越え中国へ。ベトナム、カンボジアを経て24歳で韓国へ入国。28歳で日本に語学留学し、大学を卒業したのちに商社の仕事のかたわら、YouTubeチャンネル『脱北者が語る北朝鮮』を開設。北朝鮮に関する動画を発信し続けている。
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(北朝鮮出身YouTuber キム・ヨセフ)
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