戦争反対の先頭に立っていたのに…朝日新聞を「戦争扇動メディア」に変えた満洲事変というインパクト
プレジデントオンライン / 2022年8月15日 10時15分
※本稿は、貴志俊彦『帝国日本のプロパガンダ』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■「軍縮から軍部追従へ」朝日が社論を大転換した
満洲事変は、帝国日本の報道界にいかなる影響をもたらしたのか、本稿で掘り下げていきたい。
大阪朝日の編集局長であった高原操などは、事変勃発までは普通選挙実施、軍縮キャンペーンの先頭に立ち、関東軍の拡大をくいとめようとしていた。
しかし、高原は満洲事変を契機に起こった朝日不買運動に直面して危機感を高め、事変後の1931年10月1日に社説「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」を発表する(後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ』)。この社説は、満洲に暮らす日本人の苦しみを軽減するためには独立運動を支援し、満洲という緩衝国を設置するほかないという論調であり、もとより関東軍の意向に沿うものであった。
朝日はそれまで、中国ナショナリズムを積極的に肯定し、また満洲は中国の一部であるという認識に立っていた。そのいずれも捨て去り、軍部の行動を追認し、中国から満洲の分離独立を容認する論調に転換したのである。
さらに、10月12日の経営陣による会議では、こうした論調に即して、「社論を統一して国論を作る大方針」が決定された。こうして、満洲事変を境に朝日創刊以来の社論が、軍部追従の社論に大転換することになった。
■“発行部数頭打ち”裏側には金銭的事情があった
その背景には、1920年代末に朝日の国内販売市場が頭打ち状態になっていたことがある。販売部数拡大のために、朝鮮や満洲という新天地に目を転じたわけである。
満洲事変前後の大阪、東京両本社の売り上げ統計について簡単に見ておこう。このころ、「大阪朝日」「東京朝日」の国内販売総部数は、満洲事変勃発の年こそ落ち込んだものの、翌年には182万余部(前年比38万部増)に増えていた。
1930年代後半には再び販売部数が伸び悩んだが、日中戦争が起こった37年には198万余部、太平洋戦争勃発前年の40年には231万余部、そしてアジア太平洋戦争勃発とともに販売部数を伸ばし、1944年には戦前の最多部数である293万部あまりの売り上げを達成している。
■戦争報道の強化で購買層が拡大した
一方、満洲における「朝日」の販売部数は、事変前の1929年には1万6000部にすぎなかったものの、40年には7万2000部、42年には10万部を超えるほどに急増していた(朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』)。朝日は、郷土部隊の戦闘や戦死者について記事を増やすことで、それまで新聞とは縁のなかった社会層も新聞を購読するように、増売の工夫に努めたのである。
こうして満洲事変を機に、外地での新聞需要が高まると、1933年11月に大阪本社で「満洲版」「台湾版」が創刊される。これら外地版の発行を促進するために、翌年4月に満洲国の首都新京(現長春)に満洲支局が開設された。
こうした朝日の満洲進出の動きは、主筆であった緒方竹虎の意向が強く働いていたといわれる(朝日新聞社史編修室編『朝日新聞編年史(昭和12年)』)。朝日の対外拡大路線を担うためにも、満洲には多くの特派員が派遣され、多くの戦況写真が撮影された。
■さらに読者を惹きつけた写真を多用したビジュアル記事
朝日は満洲事変を機に社の論調を転換させたことで、売り上げを伸ばした。紙面に掲載された迫力ある現地写真が、増売を後押ししたのである。
また、1931年発行の『アサヒグラフ』412号、413号(9月30日、10月7日)では「満洲事変画報」を、翌年の臨時号(2月5日)では「満洲事変写真全集」を特集している。写真を多用したビジュアル記事は、読者の興味を強く惹きつけた。
さらに、1931年9月21日、22日には、東京朝日本社の講堂で、特派映画班が撮った『日支両軍衝突事件』が映画第1報、第2報として上映された。このときの様子は、次のように記されている(「東京朝日」1931年9月22日)。
■宣伝工作に報道界が取り込まれていった
また、日本国内の報道手法は、在満日本人にも影響を与えた。事変後、満洲南部各地には日系の治安維持会がばらばらに組織化されていたが、これらを統合するために、奉天で自治指導部が設置された。
自治指導部は、中華民国からの満洲分離独立、王道主義の実現を求めた。そのために満洲日日新聞社印刷所で多色刷のプロパガンダ・ポスターを大量に印刷し、奉天を中心とした満鉄沿線に掲示した。
自治指導部のこうした宣伝工作は、1932年3月に満洲国が建国されてからは、国務院資政局内の弘法処のもとでビジュアル・メディアを用いたプロパガンダ戦略に引き継がれる。さらに、満洲弘報協会や満洲国通信社でも、満洲国による情報統制が一元的に進められたのである。
他方で、1920年代に満洲国や関東州の街角に貼られていた反日ポスターは、中国国民党のイデオロギーである三民主義を普及するものであったために、街角から急速に姿を消していた(貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア』)。
■満洲事変から2日後には本土で「号外」
満洲事変を通じて、新聞の売り上げを伸ばす工夫として忘れてはならないのが、報道の速報性がいっそう重視されるようになったことである。
満洲事変からわずか2日後、1931年9月20日付の「東京朝日」の号外に事変勃発が報道された(図版1)。この写真は、9月18日に現地から京城(現ソウル)まで汽車で輸送され、京城から広島経由で大阪本社まで空輸。さらに東京本社へ電送され、東京本社で製版されて号外が出された。
済南事件や霧社事件の場合も、写真の空輸が試みられたが、さらなるスピードアップがはかられたのである。
満洲事変後、日本軍は満洲のほぼ全土を占領。のみならず、翌年の1932年3月1日、清朝最後の皇帝溥儀を執政にたて、満洲国を成立させる。さらに、1933年2月には、領土拡張のために熱河省や河北省に軍を侵攻(熱河事件)。
このころには、戦況写真は平壌や京城で中継されずに、朝日は自社機で遼寧省西部の錦州から大阪まで直接空輸する輸送体制が取られた(「大阪朝日」1933年3月5日付)。満洲事変から2年の間で、報道の速報性はいっそう高まった。
■本土―台湾間の情報伝達も加速化された
また、台湾での満洲事変報道も、とくに日本本土の新聞社から速報性が求められた。
実際、台湾での事変報道は、朝日、毎日両新聞社よりも在地の新聞社のほうが早かった。本土から搬送されてくる邦字新聞は、搬送に時間がかかりすぎ、事変報道の速報性という点からは論外であった。号外の発行も、島内の新聞社に限定されていたのである。
朝日台北通信部の蒲田丈夫はこれを問題視し、大阪毎日とともに、台湾総督府に向けて台湾における「号外」の発行を願い出ることにした。この申請に対して、島内発行の台湾日日などから反対はあったが、結局総督府はこれを承認。そして翌年1月10日、朝日は、本社特電をもとに内外のニュースを掲載した号外第1号を台湾で発行したのである。
こうして、満洲事変報道を契機として、日本本土と台湾の間の情報伝達のスピードは加速化される(「東京朝日」夕刊、1932年1月12日)。
■高まる技術は国のプロパガンダに利用された
日本本土の新聞社は、号外の発行を通じて、台湾全域へ自社新聞をアピールしていく。
当初台北市内だけに発行された号外の部数は1万2000部程度。しかし、1937年7月の日中戦争勃発時には、初めて1頁大にわたって写真を掲載した号外が配布され、活字を読めない読者にも大きな衝撃を与えた。同年に発行された朝日の号外は、台北市内だけで約2万5000部、台湾全体では約5万部も発行されるようになっていた(朝日新聞社史編修室編『朝日新聞編年史(昭和12年)』)。
報道の速報性を保証する号外の発行は、現実に進行する戦況と同期する感覚を与え、「戦争熱」を高めることになる。さらに戦場の臨場感は、帝国日本が意図するナショナリズム強化の一翼を担う。戦況写真の空輸や電送という情報伝達手段と、速報性を重視してナショナリズムを喚起するプロパガンダ術は、つづく日中戦争、アジア太平洋戦争期に、さらに広がっていく。
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京都大学東南アジア地域研究研究所 教授
1959年兵庫県生まれ。広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学地域研究統合情報センター教授などを経て、現在、京都大学東南アジア地域研究研究所教授。東京大学大学院情報学環客員教授、日本学術会議連携会員、日本学術振興会学術システム研究センター主任研究員などを兼業。専門は東アジア近現代史。著書に『満洲国のビジュアル・メディア』(吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)などがある。
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(京都大学東南アジア地域研究研究所 教授 貴志 俊彦)
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