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白シャツ少年800人が山腹で「大」の人文字…ラジオ体操するのを眺めた戦時中の京都「送り火」の知られざる秘話

プレジデントオンライン / 2022年8月8日 15時15分

『【京都市公式】京都観光Navi』HPより

古都京都に「祭り」が戻ってきた。7月の祇園祭に続き、8月のお盆には「五山送り火」が通常点火される。京都在住のジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳さんは「京都の祭りが中断したのは今回のコロナ禍だけではない。かつて戦時下においても、大規模な宗教行事が中止に追い込まれていた」という――。

■京都のお盆の行事「五山送り火」が完全復活

コロナ感染症第7波の拡大の最中であるが、今夏は古都京都に「祭り」が戻ってきた。

7月に実施された日本三大祭りのひとつ祇園祭は、コロナ禍によって中断していたハイライトの「山鉾巡行」が3年ぶりに実施された。山鉾巡行には、およそ14万人の見物客が集まった。祇園祭の通常開催は、京都(あるいは全国)の祭祀を再開させる「呼び水」となったといえるだろう。

祇園祭の「月鉾」
撮影=鵜飼秀徳
祇園祭の「月鉾」 - 撮影=鵜飼秀徳

8月16日夜には、お盆の行事「五山送り火」が通常点火される。コロナ禍では人の密集を避けるために、「文字」にせず、「点」での点火だったが、今夏は完全復活するのだ。コロナ再拡大は心配ではあるものの、京都には日ごと活気が戻りつつあり、嬉しい限りだ。

京都の祭りが中断したのは今回のコロナ禍だけではない。かつて戦時下においても、大規模な宗教行事が中止に追い込まれていた。

例えば、祇園祭は1943(昭和18)年から4年間、山鉾の巡行が中止になっている。若者の多くが出征し、祭りの担い手不足が中止の背景にある。また、終戦間際では空襲を避ける目的での祭りの中止もみられた。春の葵祭の行列も1945(昭和20)年には中止になっている。

昨年の祇園祭は「ガラガラ」だった
撮影=鵜飼秀徳
昨年の祇園祭は「ガラガラ」だった - 撮影=鵜飼秀徳

戦時下では、送り火もまた、夜間の空爆を避ける目的で消灯をさせる「灯火管制」の影響を受けていた。送り火とは、京都市内を取り囲む5つの山に、「大(大文字と左大文字の2つ)」「妙法」「舟形」「鳥居形」の5つの文字を炎で浮かび上がらせるお盆の行事である。

その発祥は定かではないが、中世はお盆の精霊(しょうらい)送りの行事として、灯籠を山の上で灯したのが始まりとされている。弘法大師空海が始めたとの説もある。17世紀になって文字や図形が描かれるようになった。送り火は、かつては「い」「一」「蛇」「長刀」「竹の先に鈴」の形を加えた10山で灯された、とされている。きっと壮観だったに違いない。

■送り火は常に戦争に翻弄されてきた

いずれにせよ、お盆に京都に戻ってきたご先祖さまの精霊を、天を焦がす炎とともにあの世に送り届ける、京都市民にとってのアイデンティティともいえる儀式だ。京都では、送り火の見えるマンション価格は高めに設定されているほどだ。

2020年8月16日、『鳥居型』は2つの点だけが灯された
撮影=鵜飼秀徳
2020年8月16日、『鳥居型』は2つの点だけが灯された - 撮影=鵜飼秀徳

送り火は常に戦争に翻弄されてきた。ある意味、時世のバロメーターともいえる。遡れば、日清戦争終結直後には2度、「特殊な」送り火が点火されていた。

下関講和条約が調印された後の1895(明治28)年5月15日、明治天皇の入洛にあわせて「大文字」を灯す東山の如意ヶ嶽に「祝平和」の3文字が点火された。

直後の17日付『京都日出新聞(現在の京都新聞)』には、このような記事が掲載されている。

「丸太町、荒神口、二條、三條其他の各橋上及び御苑内等には市民群衆し、孰(いづ)れも手を額(ひたい)にして歓賞(かんしょう)し帝國萬歳の聲湧(こえわく)が如くなりしぞめでたき」(試訳:丸太町通や荒神口、二条通、三条通などに架かる橋の上や、京都御所に市民が集まり、送り火を鑑賞した。それは、「日本帝国万歳」の大合唱が鳴り響くようなめでたさであった)

送り火は、山肌に固定の火床が置かれ、そこで松明や割木を焚くことで文字を浮かび上がらせる。「祝平和」などという本来、仏教にまったく関係のないスローガンを点火させること自体がナンセンスであり、いかに地元市民や仏教会が戦勝に酔っていたかがうかがえる。今となっては、仏教行事が戦意高揚に利用されたことの異常さを思い知らされる。

コロナ禍前の2018年の送り火『鳥居型』
撮影=鵜飼秀徳
コロナ禍前の2018年の送り火『鳥居型』 - 撮影=鵜飼秀徳

京都日出新聞の記事などを見ると、当時の送り火は、「い」「竹の先に鈴」を含めた「七山」で構成されていたようだ。その年の8月16日には、通常の七山で送り火の文字が灯されている。太平洋戦争後の送り火は「五山」に減って、現在に至る。戦争さえなければ、こんにちの送り火は「七山」のままであったはずだ。ちなみに送り火が1年に2度、点火された例では、2000(平成12)年の大晦日に「ミレニアム送り火」と題して、灯されていた。

■白シャツの800人の少年が山腹でラジオ体操をした

日清戦争に続いて、1905(明治38)年6月1日にも日露戦争戦勝祝賀の点火が行われた。

鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(文春新書)
鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(文春新書)

ところが太平洋戦争時は、戦勝祝いどころか、物資である薪の不足と、夜間空襲の目標にされるとのことで灯火管制が敷かれたことで禁止措置がとられた。灯火管制は1938(昭和13)年に発令されている。だが、「大文字」だけは戦没者慰霊のために特別に許可され、8月28日に点火されている。

しかし、1943(昭和18)年から1945(昭和20)年までの3度、送り火は完全に見送られた。その代替として、地元の少年団員ら800人が白いシャツを着て8月16日の早朝に如意ヶ嶽(大文字)に登り、人文字で「白い大文字」を浮かび上がらせた。そして、英霊を弔う目的で「ラジオ体操をした」という。

1944(昭和19)年8月17日の京都新聞には、2度目の点火の中止に、「送り火は若き力で 大文字に描く『人文字』」との見出しで、写真とともに記事を伝えている。山肌に白く浮かび上がる風景は、真っ赤な送り火に見慣れた市民からすれば異様だったに違いない。

もっとも、江戸時代の『都名所図会』には「冬の日雪の旦も此文字跡に雪つもりて洛陽の眺となる」(雪降った冬の明け方は、文字の跡に雪が積もって中国洛陽の眺めのように風流だ)と書かれてはいるが……。

江戸時代の『都名所図会』(1780年、安永9)に描かれた送り火
江戸時代の『都名所図会』(1780年、安永9)に描かれた送り火

終戦翌日の1945年(昭和19)年8月16日も、準備不足などの理由よって送り火は実施されなかった。その後は通常開催されたが先述のように、コロナウイルス感染症蔓延によって2020(令和2)年と2021(令和3)年の送り火は、鑑賞目的で人々が密集するのを避けるために「文字」を形成するのではなく、「点」だけで灯された。

祇園祭や送り火の中止は、社会不安を映し出す鏡なのだ。我々は灯火管制のための送り火中止だけは、避ける努力をしなければならないと思う。詳しくは、上梓したばかりの拙著『仏教の大東亜戦争』(文春新書)を手にとって頂ければ幸いである。

送り火とともに実施される幽玄な精霊流し。広沢池にて
撮影=鵜飼秀徳
送り火とともに実施される幽玄な精霊流し。広沢池にて - 撮影=鵜飼秀徳

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

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