秘密警察と検察のトップを突如解任…佐藤優「ゼレンスキー大統領を疑心暗鬼に陥れたロシアの狡猾な心理戦」
プレジデントオンライン / 2022年8月6日 12時15分
2022年7月25日、ウクライナのキエフにあるマリインスキー宮殿での会談後、グアテマラ大統領アレハンドロ・ジャンマッテイとの共同記者会見で話すウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領。 - 写真=EPA/時事通信フォト
■「秘密警察と検察のトップが解任」の衝撃
7月28日は、ゼレンスキー大統領が2021年に制定した祝日「ウクライナの国家の日」でした。記念の動画メッセージで、ゼレンスキー大統領はこう演説しました。
ゼレンスキー大統領は、国民の戦意を鼓舞し続けています。しかし、その足元を支える政権中枢が混乱し始めています。7月18日のBBCは、次のように報じています。
ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は17日夜、保安局(SBU)長官(秘密警察長官)と検事総長を解任したと発表した。強力な権力を持つ両組織内で、ロシアに協力する反逆行為が多数見つかったためとしている。ウクライナ当局は16日には、SBUのクリミアでの元幹部を反逆容疑などで拘束している。
ゼレンスキー大統領は、ロシアが占領した地域で60人以上の元政府職員が、ウクライナに敵対し、ロシアに協力していると述べた。さらに、法執行機関の職員がロシアに協力したりウクライナに敵対したりした疑いで、計651件の事件捜査に着手していると話した。
恒例になっている夜のビデオ声明でゼレンスキー氏は、「国の安全保障の基礎に対してこれほど多くの犯罪が行われていたことは(中略)(両組織の)トップにきわめて重大な疑問を突きつけており、すべての疑問にしかるべき適切な答えを得ていく」と述べた。
■解任された2人は最側近だった
解任されたのは、KGB(ソ連の秘密警察機関であり対外諜報機関)を前身とする情報機関である保安局のバカノウ局長と、ベネディクトワ検事総長です。
バカノウ氏は、幼なじみのゼレンスキー氏が主宰する劇団「95地区」でも同僚でした。ゼレンスキー氏の資金管理係として2019年の大統領選にも深く関わり、当選後は保安局長官に任命されたのです。大学の観光科卒でしたから政治の経験もインテリジェンスに従事したこともまったくなかったので任命当初から資質に疑念が呈されていました。
ベネディクトワ検事総長は、ゼレンスキー氏が役者時代に知己を得て、大統領選挙で精力的に活動した論功でこの職に就きました。ロシア軍が行った戦争犯罪の捜査を率いてきた女性です。2人とも、ゼレンスキー大統領の最側近として知られていました。
解任の理由は、2人自身が「ロシアに協力する反逆行為」を行ったのではなく、部下を統率できなかったこと。部下たちは、この政権は長く持たないと見切りをつけ、自分の温かい椅子を確保するなら早いほうが得だと考えて、裏切り行為に走ったのでしょう。
■「ロシアとつながりのある人間」を組織から排除してきたが…
保安局はソ連時代にはKGBでした。1991年12月にウクライナがソ連から独立した後も、インテリジェンス機関や検察にはソ連時代からの職員が勤務していました。
2013年に親ロシアのヤヌコビッチ大統領がロシアからの強い圧力を受けて、EUとの連合協定締結の署名を取りやめたことを発端に、反政府デモが盛んになり、2014年に追放されると(マイダン革命)、反ロ親米政権が発足し、ウクライナは、保安局、軍、検察で「非ロシア化」を徹底しようとしました。特に保安局の幹部職員をアメリカやイギリスでインテリジェンスの訓練を受けた人たちに入れ替えてきました。
そのため、ロシアと協力する保安局員や検察官が大量に出てきたことはゼレンスキー大統領にとって想定外の事態だったと思います。
しかし、実際はロシアとつながりのある人間を完全に排除していたわけではありません。
ウクライナ当局が7月16日に反逆罪などで拘束した連邦保安局クリミア支局長のオレグ・クリニッチ氏は1989年から1994年まで、ロシア連邦保安庁(FSB)アカデミーで学び、ロシアの防諜機関で勤務。1996年からはロシア連邦議会の国家院(下院)で勤務した経歴の持ち主です。そんなクリニッチ氏が2020年からウクライナ保安局で働き始めたわけです。
![旧ソ連の情報機関、KGB(国家保安委員会)の本部として使われたビル。現在は後継組織のロシア連邦保安庁(FSB)本部庁舎となっている。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/f/1200wm/img_7f27cfcc389c8b17f0f9ad1734aee4b7461954.jpg)
ゼレンスキー大統領は、ロシアの侵攻当初にクリニッチ氏を解任していますが、保安局の幹部の半数は同様の非難を受けるような経歴を持っているとされます。
■「解任された2人は国民の不満のはけ口にされた」
そのような状況の中で、ロシアのインテリジェンス機関は、ゼレンスキー大統領が疑心暗鬼に陥るような情報を巧みに流す心理戦を行っているのだと思います。秘密警察と検察といえば最も秩序が守られるべき部門なのに、そこさえ国家として抑えきれないのが、現在のゼレンスキー政権なのです。しかし秘密警察と検察を信用できなくなったら、国のトップは誰を信用すればいいのでしょうか。
この解任人事に、ロシアは即座に反応しました。同じ18日の夜9時、政府系テレビ「第一チャンネル」のニュース番組「ブレーミャ(時代)」が取り上げています。
アナウンサーが「2人の側近を解任したゼレンスキーの真意を探ってみましょう」と言い、現地ウクライナからのリポートも交えた内容でした。この番組の見立てを要約すれば、次の通りになります。
――ゼレンスキー大統領は「西側諸国の支援を受けているので、ウクライナの勝利は近い」と言っているが、前線の状況は真逆である。国内外に向けて勝てない釈明を余儀なくされた大統領は、身辺にいる裏切り者のせいにしている。解任された2人は、国民の不満のはけ口として、スケープゴートにされたのだ――。
■「ロシアに勝てないのは裏切者がいるからだ」
番組はさらに、アメリカの政治サイト「POLITICO」を引用しながら、ゼレンスキー政権の内情を深掘りしていきます。すなわち、バカノウ氏が長官を務めてきたSBUの中にロシアの工作員がいることが、6月にウクライナ軍が敗北した原因だという指摘です。
ウクライナ当局者と西側外交官は皆、懸念はバカノフ氏だけでなく、ロシアの本格的なウクライナ侵攻の最初の数時間から数日間における当局幹部数人の決断についても大きいと語った。
へルソンのSBU長官であるセルヒィ・クリヴォルチコ将軍は、ゼレンスキーの命令に反して、ロシア軍が襲撃する前に同市から避難するよう部下に命じたと当局は主張する。
一方、彼の補佐役で地元事務所の反テロセンター長であるイホル・サドキン大佐は、クリミアから北上するロシア軍にウクライナの機雷の位置を密告し、敵機の飛行経路の調整に協力しながら、西へ向かうSBU捜査官の車列の中で逃走したと当局は主張している。
へルソンは、全面的な侵攻が始まって以来、ロシア軍に占領された最初の、そして今のところ唯一のウクライナの主要都市である。プーチン大統領が新たな攻勢を開始してから7日後の3月3日にロシア軍に占領された。
ウクライナ当局によると、ロシア軍がへルソンを簡単に占領できたのは、ドニプロ川に架かるアントノフスキー橋の爆破に現地SBU職員が失敗し、ロシア軍の進入を許してしまったためだという。
(6月23日・POLITICO)
![ウクライナのドニプロ川にかかるアントノフスキー橋。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/6/1200wm/img_86bfec73a075fdce80c81e9e8ec49c79421195.jpg)
この番組の「ゼレンスキー大統領がスケープ・ゴートを必要としている」という見立ては、的確な評価と思います。ロシア軍は攻勢を強め、ウクライナ東部の約8割を制圧、南部でもじわじわと制圧地域を広げています。欧米から支援を受けるゼレンスキー大統領は、ロシアに勝てない理由を説明する必要に迫られているのです。
■「汚職の撲滅」はEU加盟の条件でもある
ウクライナは最近、「アメリカから供与された高機動ロケット砲システム『ハイマース』が威力を発揮して、大きな戦果を上げている」と誇示しています。しかし7月末で16基にすぎず、そのうち4基はロシアに壊されてしまった(ウクライナは否定)というのでは、戦果も限られるはずです。
さらに、供与に伴うアメリカ側の条件で、ハイマースでロシア本土を攻撃することはもとより、ロシアの補給路であるクリミア大橋を攻撃するのもいけないと手足を縛られているのです。アメリカに管理された戦争を戦っている限り、ウクライナに決定的な勝利は望めません。アメリカの目的は、戦争を少しでも長引かせてロシアに打撃を与えることだからです。
SBUの長官には、第1次官を務めていたマリウク氏が代行として起用されました。検事総長の後任には、7月28日にコースチン議員が選ばれました。同じ28日、政権の高官による汚職犯罪の捜査と起訴を担う「特別汚職対策検察(SAP)」の新しいトップに、オレクサンドル・クリメンコ氏が任命されたことも発表されました。
ウクルインフォルム通信によると、イェルマーク大統領府長官は次のようにコメントしています。
「独立した汚職対策インフラは、ウクライナの民主主義の重要な要素だ。汚職との闘いは、私たちの国家にとっての優先課題である。なぜなら、その成功に、私たちの投資の魅力とビジネスの自由がかかっているからだ」
裏返せばウクライナには、それだけ汚職がはびこっているわけです。汚職の撲滅は、ウクライナがEU加盟国の地位を与えられるために課された条件のひとつでもあります。道のりは遠いといえます。
■ロシアが虎視眈々と狙っていること
裏切り者がいるせいで勝てないという説明は、戦争中の国家として、かなり苦しい言い訳です。マイダン革命以降、ウクライナは8年間、非ロシア化の徹底を図ってきましたが、思うように進んでいない現実が浮き彫りになりました。
こうした内実は、ウクライナ国家の中枢が体をなしていないことを示しています。末端の官僚だけでなく、政権の中枢から国の行く末を憂慮してロシアと手を組もうと考える人が出てこないとも限りません。ロシアはそれを、ずっと待っています。
戦局を見据えながら、両国が折り合いをつけて停戦に向かうのか。ウクライナが国の内側から瓦解(がかい)して、思わぬ形で戦争が終わるのか。それとも、劣勢のゼレンスキー大統領が首都キーウを離れて西部のガリツィア地方へ逃れ、国が東西に分断されるのか。さまざまな可能性が出てきたように感じられます。
もっとも日本の国際政治学者やウクライナ専門家の大多数は、これからウクライナが反転攻勢を行って、ロシア軍を駆逐する可能性があるとまだ信じているようです。
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作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎)
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