婚前に「結婚の損得勘定」をメモしていた…結婚に後ろ向きだったダーウィンを翻意させた"ある考え方"
プレジデントオンライン / 2022年8月14日 12時15分
■武田信玄がマネジメント上手になった“あるきっかけ”
歴史に名を刻む偉人には、名フレーズがつきものだが、必ずしもその実像を現しているわけではない。「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄もそうだ。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
「人は城」は「信玄は城を築かなかった」という誤解を生むことになるが、実際は国境の最前線や侵攻先に城郭を築き、支配体制を固めるのが信玄のやり方だ。
また「人は石垣」としながらも、信玄の躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)では石垣が確認されているし、「人は堀」についても、半円の堀をともなった「丸馬出し」やブーメラン型の「三日月堀」を使って城郭を守り、信玄らしい慎重さを発揮している。
もちろん、それらのフレーズは「人材が重要だ」という比喩であり、「情けは味方、仇は敵なり」に信玄のモットーが凝縮されているとも捉えられる。
だが、信玄が常に多数の隠密によって、家臣たちを監視していたことを思うと、むしろ味方に対しても警戒を緩めなかったといえよう。それどころか、「女房と寝るときも刀を手放すな」といって近親者すらも信用しなかった。
というのも、信玄は、実の父親である信虎を追放して、21歳の若さで家督を継いでいる。「暴君だった信虎を追放した若きヒーロー」として扱われがちだが、実際は違う。
内紛が凄まじかった甲斐の国をまとめあげるには、信虎のように強い指導者が必要だった。「信虎暴君説」は後世の創作が多い。
信虎は甲斐の財政難を解消すべく、家ごとを対象にした課税を負わせる。家臣たちはそれに反発し、幼い信玄を担ぎ上げて、クーデターを起こしたのだ。そんな背景があるからこそ、信玄からすれば、家臣や身内の家族に警戒してもし過ぎということはない。かといって、父のように強権的に振る舞えば、追放されかねない。
信玄には家臣思いだったとされる逸話が多く、マネジメントの達人のようにも扱われるが、それだけ信玄が家臣を恐れて、気を遣っていたことの表れではないだろうか。
■浮気を疑われた信玄が出した手紙の中身
イメージが先行しやすい信玄の実像に迫るには、本人の手紙が確実だ。信玄は春日源助と名乗る美少年がお気に入りだった。戦国時代において、男色は珍しいことではない。春日源助からもう1人の少年弥七郎との仲を疑われたらしく、こんなふうに手紙で弁解している。
「自分が弥七郎をくどいた事は何度もあるが、いつも腹痛と言って断られた。これは本当のことである。これまで弥七郎と寝たことはない」
組織作りには苦労が多い。ひたすら家臣に気を遣っていた信玄が、心を許せる貴重な相手が、春日源助だったのかもしれない。
この春日源助こと、高坂昌信の著作とされているのが『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』である。多くの信玄の伝説を作り出した書物だが、史料価値は低いとされている。信玄との関係性を思えば、さもありなんといったところだろう。
■売れっ子だった若きゲーテの悩み
30代のゲーテは仕事に忙殺されすぎていた。
1774年にゲーテの書いた小説『若きウェルテルの悩み』は、フランスの皇帝ナポレオンが何度も繰り返し読むほど世界中で大ヒットとなる。
ゲーテの名は広く知れ渡り、次々と幅広い仕事が舞い込んできた。30歳の誕生日を迎えた数日後には、枢密院顧問官に任命され、ヴァイマル公国の政治家としてリーダーシップをとった。枢密院公使館参事として4年間務めたのちの出世である。
ゲーテは公国の財政難を解消するべく、鉱山の鉱物資源に着目。鉱山開発の実績が評価されての抜擢となった。
ゲーテの職務は多岐にわたった。消防法の改正に携わり、道路の整備拡張の責任者にもなった。また軍事委員も兼任。兵力を削減して軍縮によって、財政の立て直しを図っている。
仕事自体の多忙さや困難さに加えて、ゲーテは人間関係の難しさも抱えていた。
ゲーテは26歳のときに、知人の公爵カール・アウグスト公から招かれるかたちで、生地のフランクフルトからヴァイマル公国に移住している。
つまりゲーテはよそ者だった。
だからこそ、アウグスト公もしがらみにとらわれない改革をゲーテに期待したわけだが、生え抜きの役人たちと渡り合う日々は大きなストレスとなった。
引き立てられたことで、現場では周囲の嫉妬に苦しむことも多かったようだ。八面六臂(ろっぴ)の活躍を見せるゲーテについて、こんな皮肉を書いた友人もいる。
「宮廷を訪ね歩いてはお世辞を並べているから、あたり一帯の宮廷の執事に早晩任命されるかもしれない」
何もかもに嫌気がさしたゲーテはこんな愚痴をこぼすこともあった。
「誰も知らない。私が何をしているか、そして、わずかなことを成し遂げるにもいかに大勢の敵と戦っているかを」
それでもゲーテは気持ちを立て直し、自分をこう奮い立たせた。
「義務を果たすことは辛い。だが、義務を果たすことによってのみ、人は内面の能力を示すことができるのだ。好き勝手に生きることなら誰にでもできる」
■仕事をバックレて生まれた傑作
仕事の重圧感は魂に快い――。そう言ってストレスすらも楽しもうとしたゲーテだったが、もはや限界が近づいていた。
政治の世界から離れて、学問と芸術に打ち込みたいという気持ちも膨らんでくる。知人への手紙で心情をこう吐露した。
「翼はあるのに使えない、そんな気分だ」
ついにゲーテは政務を投げ出して、イタリアへ逃亡する。
![ティッシュバイン作『カンパーニャのゲーテ』シュテーデル美術学院蔵](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/b/1200wm/img_ab4bb7facbe49bbec9f21dd61c330d6d491020.jpg)
滞在は2年にわたり、学術・芸術部門での指導にあたった。
イタリアでの経験をゲーテは『イタリア紀行』としてまとめている。これが名著と評判になりゲーテの代表作となるのだから人生はわからないものだ。
リセットすることで拓ける道もある。
■ダーウィンが悩んだ「結婚すべきか否か」
人生において自由な時間に好きなことをするのは大切だ。とりわけ自由奔放なダーウィンにとってはそうだった。
開業医の父は跡を継がせるべく医学部に進学させるが、本人がやる気にならずに教育方針を転換。神父にさせようとケンブリッジ大学の神学部に入学させる。だが、その試みも無駄に終わる。ダーウィンは講義をサボって、動植物の採取に夢中になるばかりだった。落第生そのものである。
転機になったのは、22歳のときに参加したビーグル号での世界一周旅行だ。約5年の航海を終えると、父への手紙にこう書いている。
「私は、自然科学にわずかなりとも貢献したい。それ以上によい生涯を送ることはできないと考えます」
自分の進むべき方向が見えてきたダーウィン。だが、もう一つ、決めなければならないことがあった。それは「結婚するのかしないのか」ということ。
ダーウィンの頭には幼なじみのエマが浮かんでいた。将来を考える相手として気心のしれたエマは申し分なかったが、結婚自体への抵抗感があった。
ダーウィンは「これが問題だ」というタイトルで結婚の損得対照表を作成。「結婚しない」のメリットとして、次のように書いている。
![チャールズ・ダーウィンの肖像画](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/7/1200wm/img_d7c5c998ff62354408d2e43c2d11e89b307971.jpg)
「行きたいところに行ける自由、親類を訪問しないですむ、子どものための心配がいらない」
どうもダーウィンは結婚によって、自由な時間を奪われるのを恐れたようだ。
一方の「結婚する」の欄では、その思いが顕著に表現されている。
「子ども、一生の伴侶(老いたときの友人)、家事を担う誰か、こうしたことは健康によい、しかし恐るべき時間の損失」
比較検討の結果、ダーウィンは次のような結論を導き出した。
「全生涯を働きバチのように、仕事、仕事で、ほかになにもしないと考えることは耐えられない。結婚、結婚、結婚。証明終わり」
■結婚のおかげで生まれた「進化論」
頭を抱えて悩むダーウィンの姿を想像すると苦笑せざるを得ないが、結論が出たら行動は早い。ダーウィンはエマにプロポーズし、成功している。
結婚により自由を奪われる心配をしたダーウィンだったが、エマとの間には10人も子どもをもうけた。
![真山知幸『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/c/1200wm/img_eca8a3a6a55e4b43656747d16d9ea1e5248660.jpg)
なかでもダーウィンは長男の成長を熱心に記録している。
ダーウィンが秘密裏に進めていた研究が密接に関係していたからだ。
その研究こそがダーウィンの「進化論」である。
ヒトと動物の連続性を解いたこの論文は、激しい反発を呼ぶことになるが、のちに生物学の礎となった。
わが子の成長データはその後、発達心理学における論考にも生かされている。
あれだけ悩んだ結婚だったが、時間が奪われるはずの子育ては、かえってダーウィンの研究活動を推進させたといえるだろう。
家臣たちに実は気を遣っていた武田信玄に、ハード―ワークに悩むゲーテ、そして、結婚をするべきかどうか葛藤するダーウィン……と3人の逸話を紹介した。それぞれの人生に、それぞれの苦悩がある。 ただ、どれだけ高い「人生の壁」を目の前にしても、人生を投げなかったからこそ「偉人」として名を残すことになった。
とはいえ、毎日をただ生きることすらも、簡単ではない時代だ。偉人の人生を追体験し、壁を乗り越える方法を一つでも多く知っておくことをおススメしたい。
偉人の人生訓は、あなたが苦境に陥ったときに、立ち直るきっかけをきっと与えてくれることだろう。
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著述家/偉人研究家
1979年兵庫県生まれ。2002年同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行う。『ざんねんな偉人伝』シリーズ、『偉人名言迷言事典』など著作50冊以上。近刊に『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)、『日本史の13人の怖いお母さん』(扶桑社)。
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(著述家/偉人研究家 真山 知幸)
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