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「不美人」「整形手術を受けさせる」親戚から"鬼"と呼ばれる母親に娘が浴びせられ続けた言葉

プレジデントオンライン / 2022年8月11日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nadezhda1906

50代の女性は高齢の母親に複雑な感情を抱いている。女性は小さい頃、感染症にかかっても母は仕事を休まず、親戚の家に預けられた。「不美人」などと容姿についてあしざまに言われた。帯状疱疹でつらい状態に陥った父親を前にするとオロオロして泣くばかり。要介護3となった父を必死にサポートする女性は“戦力”にならない母を「何度もぶん殴ってやろうと思った」という――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■駆け落ちした両親

関東在住の澤田ゆう子さん(仮名・50代・既婚)の父親は、国家公務員だった。

代々続く古い家の生まれで、幼少期から家や土地を守るようにと教えられて育つ。結婚も、周囲に「身を固めなさい」と促され続け、26歳でついに観念して最初の結婚をする。

その後、子をもうけたが、通勤電車内で当時22歳で新聞社に勤める澤田さんの母親となる女性に出会う。父親が30歳の時のことだ。

父親と澤田さんの母親となる女性は強く引かれ合い、やがて2人のことはお互いの親族の知るところとなる。澤田さんの母親となる女性は、勝手に父親と会わないよう通勤時まで見張りをつけられ、会うこともままならない状況に父親は苦悩し、自殺まで考えたことも。

一方母親のほうも、無理やり親から別の縁談を持ち込まれ、それに抗い続けるような日々。

そんな中、ついに2人は監視の目をすり抜け、駆け落ちした。

妻子を捨てた父親は、国家公務員の職を失い、元妻に慰謝料を払うために、代々守ってきた田畑を売らなくてはならなくなり、跡取りであることを放棄させられた。

複数の使用人がいる商売屋の四女だった母親も、“略奪婚をした娘”という汚名を家に着せた罪を償うために、相続放棄を余儀なくされる。

その5年後、父親35歳、母親27歳の時に澤田さんが誕生した。

「その頃の父が、どうしてそんなに母に強く引かれたのかはわかりませんが、父は家というかせに抑圧されていたのかもしれません。長らく写真館前にも飾られていたというスーツ姿の当時の母の写真がありますが、今見ても若い頃の母は美しくはつらつとした魅力がありました」

職を失った父親は、金融系の仕事に転職。財産も家という後ろ盾も失った両親は、節約に勤しみ、貯金に明け暮れた。

「両親とも見栄っ張りなのですが、子供の頃は、家族で旅行や外食はほとんどしませんでした。形の残るものにしかお金を使いたがらないのです。ただ、母も働いていたので、ピアノやそろばんなどの習い事には熱心で、本だけはふんだんに買ってもらえましたが、母からは過剰な期待を寄せられているのがわかり、精神的にきつかったです」

■監視し合う両親、娘を監視する

小学校に上がった澤田さんは、2年生の夏休みに麻疹(はしか)に感染。母親は仕事を休もうとはせず、澤田さんを本来なら父親が継ぐはずだった「隣の家」に預けて出勤。

「隣の家」とは実家のこと。父親は駆け落ちし、跡取りを放棄させられたものの、家と完全に縁を切ったわけではなかったのだ。家の跡を継いだのは、婿取りをした叔母だった。

叔母は、母親には「見ていてあげるから、預けて仕事に行きなさい」と言っておきながら、病床の澤田さんに対しては、「皆勤手当ての2000円が欲しいからって、病気の一人娘を置き去りにして仕事に行くなんて、ゆう子のお母さんは鬼のような女だね」と嫌味をささやいた。

「叔母は、有望な甥だった私の父の未来を奪った母を許していなかったのでしょう。私は『隣に行きたくない。お母さん、会社を休んでほしい』と思いながらも、それを言うと両親が困ることになるだろうと考え、言葉をのみ込みました」

略奪婚を果たした両親の結婚生活は幸せそうだったかというと、ひとり娘である澤田さんにも「わからない」という。子供の頃は、頻繁に激しい夫婦げんかを繰り返し、時に母親に手を上げる父親、そして顔を腫らして自分の姉妹に電話をかけ、助けを求める母親の姿を何度も見ていたからだ。

手をつないで夕焼けを見る親と娘
写真=iStock.com/Nadezhda1906
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nadezhda1906

「『ゆう子さえいなかったら離婚している』という母に、私はあるとき正直に言いました。『離婚すれば? 私はこの家に残るけど、離婚して好きに生きればいいじゃない』。その瞬間の母の顔は今でも忘れられません。娘は自分の味方ではないと思い知ったのでしょう。母は明らかに驚いていました」

交際期間はほぼなく、出会いからひと目で恋に落ち、ろくに会うこともままならず駆け落ちした2人にとって、澤田さんが思春期に入る頃が、夫婦としての倦怠期のピークだったのかもしれない。両親ともに「こんなはずじゃなかった」と責め合いながらも、一方ではお互いに来る手紙や電話に過敏になり、常に相手の交友関係に目を光らせていた。

澤田さんが小4になった年、父親が交通事故に遭い、入院。幸い命に別状はなかったが、母親は父親の病院に寝泊まりし、病院から仕事へ行くことを決める。そのため澤田さんは、父親が入院していた2カ月もの間、またしても叔母の家に預けられた。

「2カ月間、『自分のことはいいから、娘のために家に帰ってやれ』と父は言わなかったのだろうか? 誰かがつきっきりでないといけないほどの状態だったのだろうか? と考えなかった日はありません。それに加えて、叔母から毎日のように母の悪口を聞かされるのは、とてもつらかったです」

叔母は、甥の嫁である母親の悪口は言ったが、澤田さんのことはかわいがっていた。叔母には息子しかおらず、澤田さんは従兄弟たちとも仲がよかった。

とはいえ、小4といえば、年齢は9〜10歳。まだまだ母親にそばにいてほしい年頃だろう。それでも娘よりも夫のそばにいることを選ぶ母親と、「自分よりも娘のそばにいろ」と言ったか言わなかったかはわからないが、結果的にはそうさせなかった父親は、もしかしたら、お互いに監視せずにはいられなかっただけなのかもしれない。

■「不美人、不美人」「将来は整形手術を受けさせる」

幼少の頃から母親は、ことあるごとに澤田さんのことを、「不美人、不美人」と蔑(さげす)んだ。特に親戚の前では、「将来は整形手術を受けさせる」とことあるごとに言いふらすため、澤田さんは屈辱を感じていた。

「私を不美人と言うのは両親だけでした。その一方で両親はそろって私の電話や年賀状にまで神経を尖らせました。『恋愛は時に破滅に向かう』と、自分たちの経験から嫌というほど思い知らされていたので、娘が危険な轍を踏まないようにと考えてのことかもしれません」

また、澤田さんが高校生の時は、母親は突然自筆のメモ書きを見せて、澤田さんに訊ねた。

「これはあなたが誰かと連絡を取り合うために伝言板に書いたの?」。

そのメモにあったのは、「〇〇で何時」という文言。母親は、澤田さんが通学で利用していた駅の伝言板から見つけてきたのだ。それをチェックに行かせたのは父親だという事実を知った時、澤田さんは愕然とした。

「もしかしたら両親は駆け落ちする前、伝言板で連絡を取り合っていたのかもしれません。だから私の通学で利用している駅の伝言板が気になったのだと思いました」

怒ってしかりつける大きな母親の影と床に座り込んで泣く少女
写真=iStock.com/evgenyatamanenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/evgenyatamanenko

■不思議な縁

澤田さんは、大学進学と同時に一人暮らしを始め、卒業後は金融系の企業で営業として働き始めた。

卒業間際に専門商社に勤める男性と知り合い、初対面で澤田さんは一目惚れ。少し話すと、音楽や映画の趣味が合ったため、猛アタックするも、「8歳も年下だと恋愛対象として見られない」と相手にされなかった。

ところが、それから5年後のある日、澤田さんに見知らぬ番号から電話がかかってきた。出てみると、5年前に一目惚れした男性だとすぐに分かった。びっくりした澤田さんだったが、自分でかけたはずの男性も驚いている様子。聞けば、「家の留守番電話に男性の声で、『折り返し電話してください』というメッセージが入っていたのでかけてみたところ、澤田さんが出た」という。お互い、5年前から転居し、電話番号は変わっていた。澤田さんも男性も、留守電の声の主に思い当たらなかった。

奇妙な再会だったが、それを機に2人は関係を深めることになる。そして7年後、男性42歳、澤田さん34歳の時に入籍。両親は、お互いの実家が近いことや、相手の男性の温厚そうな雰囲気、仕事で転勤がないことを喜んでくれた。

澤田さんたちは結婚式を挙げず、新居は通勤しやすいところを選択。結婚後は、連休の度に夫婦で実家に顔を出した。澤田さんの父親は夫と連れ立って、散歩や釣りに出かけるのを楽しみにするようになった。

■帯状疱疹

定年と再雇用などを経て、70歳で完全にリタイアした父親は、以降は趣味のゴルフ、お囃子保存会などに勤しみ、近所の人たちとの深い交友や、神社の氏子、自治会役員などで活躍。澤田さんは両親に携帯電話を持たせ、朝晩の電話を日課としていた。

やがて2012年4月後半。83歳になった父親から、「数日前に顔面に小さな傷ができた」と電話を受けた。「小さな傷」と聞いてさほど心配はしていなかったが、ゴールデンウイークに入って澤田さん夫婦が実家に帰省すると、父親の顔面は大きく腫れ上がっていた。父親は「痛い! 痛い!」と絶叫し、号泣しながら痛みに悶える。

一方、75歳の母親は、そんな父親におののき、「どうしよう、どうしよう」とオロオロしながらおいおい泣くばかり。

実家の異様な光景を目の当たりにし、澤田さんも夫も戦慄(せんりつ)した。澤田さん夫婦は、急いで父親を救急外来へ連れて行くと、医師は「帯状疱疹」と診断。痛み止めのブロック注射をしてもらったものの、痛みは完全にはおさまらない。父親はなおも痛みを訴え、呻き続ける。

注射を持つ男性医師の手元
写真=iStock.com/imacoconut
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imacoconut

「入院できませんか?」と澤田さんは頼んだが、「帯状疱疹で入院はできない」と断られてしまう。父親が心配だった澤田さんは、そのまま実家に滞在することにした。

「痛みに涙する父はかわいそうでなりませんでしたが、何もできないくせに隣でオロオロするだけで、『お父さんがおかしくなってしまった! どうしよう! どうしよう!』と訴え続ける母に対しては、怒りを覚えました。正直、何度ぶん殴ってやろうかと思ったかしれません。ただ、今にして思えば、あの頃から認知症になり始めていたのでしょう。当時の母に父の世話は無理でした。もしもあの頃に戻れたなら、介護休暇をとるなり、同居するなりして、もっと早くから父のケアに専念する方法を選んだと思います」

澤田さんは、夜は父親の隣で寝た。父親の帯状疱疹の痛みは、昼夜問わず襲ってくる。強い薬で痛みを抑えると、今度は幻覚を見るようになった。父親は痛みや幻覚で度々絶叫する。

その様子におびえ、「医者に毒を盛られた!」と大騒ぎする母親に、澤田さんは内心、「この人こそ入院させたい」と思った。父親が絶叫すると、母もおびえて泣きわめき、澤田さんは母を黙らせようと、つい声を荒げてしまう。澤田さんは3日で疲れ果て、先に東京に戻っていた夫に、「お願い戻って来て!」と泣きついた。

■介護施設への入居

連休明け。澤田さんは出勤できず、途方に暮れた。父親の帯状疱疹の腫れはひいたが、再び痛みが出れば叫び声を上げる父親をこのままにはしておけない。だが、いつまでも仕事を休めない。

澤田さんは、父親の古くからの友人で、家族介護を経験している人に相談した。すると、「介護サービスや介護施設を利用しては?」と勧められ、目からうろこ状態に。「介護の認定を受けていなくても、介護施設を利用できる」と知り、驚いた。

「80歳を超える父がいるにもかかわらず、そのときまで私は、自分の両親にとって介護なんて無縁のことだと思い込んでいました。世間知らずでした……」

当時は実家から徒歩15分の場所に、ショートステイができる施設がオープンしたばかり。澤田さんはその施設に飛び込み、受付で利用システムを訊ね、施設に入所するために、父親の友人からベテランケアマネジャーを紹介してもらう。

高齢者の歩行を助けるケアマネジャー
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

出勤するために、一刻も早く父親を入所させたかった澤田さんは、入所が決まってから介護認定調査を受けることに。ケアマネジャーのアドバイスで、母親も一緒に介護認定調査を受けると、結果は、父親要介護3、母親要介護1。

介護施設への入居を嫌がるであろう父親には、医師から「病院のベッドに空きがないので、新設の療養施設に入りましょう」と説明してもらい、退院の日に施設の車で迎えに来てもらった。その日は、救急外来を受診した日から、まだ1週間しか経っていなかった。

「突然、自宅から目と鼻の先にある見知らぬ施設に連れてこられ、父は目を丸くしていました。私は、『ここは病院関連の療養施設で、病院のベッドが空くまでの待機場所なのよ』と、嘘の説明をしました」

その施設長が親戚の親しい友人だったこと、スタッフたちが親身になってサポートしてくれたこと、そして地域の自治会役員などを引き受け、長老的な立場だった父親がその施設の利用者となることを、施設経営者が歓迎してくれたことが功を奏し、父親は快適に療養。

自宅から徒歩15分ほどの距離だったため、この頃は母親1人で自転車に乗り、面会に行くことができた。澤田さんは父親が入所している間、1人になる母親のため、頻繁に母親の様子を見に実家に通う。

父親の帯状疱疹は1カ月ほどで軽快し、その後はデイサービスとして自宅から施設に通所した。

「あの思い出したくないほど絶望的だった1週間で、われながらよく全てを決行できたと思います。こんな時、口だけ出してお金を出さない兄弟姉妹がいなくて、一人っ子で良かったと心底思いました」

だが、痛みが薄らいだ父親は、自分がどこにいるかを認識したのか、通所を続けることを嫌がるようになってしまう。

7月。澤田さんは、数年前から夏になると必ず体調不調に陥り、入院して栄養剤を点滴していた父親が心配だった。「帯状疱疹が治ったばかりで、体力が落ちている時に何かあってはいけない。介護保険で体力回復のサポートができないだろうかか」と考えた澤田さんは、ケアマネージャーに相談することにした。(以下、後編へ)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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