たった30円の賃上げを「過去最大」と自慢する…岸田首相の「人への投資」は妥協の産物に過ぎない
プレジデントオンライン / 2022年8月12日 15時15分
■最低賃金の引上げ幅が「過去最大」というが…
最低賃金の引き上げ幅が「過去最大」になったと大手メディアはそろって見出しに掲げた。岸田文雄首相に「忖度(そんたく)」したわけではないだろうが、首相が最重要課題だと言い続けてきた「賃上げ」で大きな成果を上げたと言わんばかりだ。だが、全国平均で31円という引き上げ幅は、首相が胸を張れるような水準なのだろうか。
そもそも過去最大と言っているのは「上げ幅」だ。930円だったものを961円にするというのだが、昨年も902円から28円上げて「過去最大」だった。ベースが高くなっていくのだから、同じ比率で引き上げても「上げ幅」は毎年最大が続いていく。
いやいや今年は引き上げ「率」も3.33%で、前年の3.10%より高かったので、大きな引き上げと言っても良いのではないか、という反論も聞こえそうだ。最低賃金の引き上げ率の目標を「3%」にしたのは安倍晋三内閣で、2016年以降、新型コロナウイルス蔓延で経済が大打撃を受けた2020年を除き、毎年3%を上回ってきた。3.33%という引き上げ率はこれまでよりは若干高めではあるものの、驚くほどの引き上げ率という程ではない。
■物価の上昇を織り込むと、引き上げ率は0.83%でしかない
というのも昨年までとは経済情勢が一変、物価が大きく上昇しているからだ。今年6月の消費者物価指数は前年同月比2.4%上昇した。3カ月連続の2%超えである。では1年前はどうか。2021年6月の消費者物価指数は前年同月比0.5%のマイナス。しかもずっとマイナスが続いていた。
つまり、物価が下落していた昨年の28円の引き上げと、物価が上昇している今年の31円では、まったく意味が違う。単純に物価上昇率を加減して実質的な引き上げ率とすると昨年は3.6%、今年は0.83%ということになってしまう。ニュースを聞いた庶民の実感はこれに近い。「たった30円で過去最高って何だ」という声がネット上には溢れていた。
■3%の引き上げが定着したのは安倍内閣の功績
岸田首相が就任時から言い続けてきた「新しい資本主義」。当初は「分配」を重視するとして富裕層への金融所得課税強化などを打ち出したが、批判を浴びると、「成長の果実を分配する」とニュアンスを変え、参議院選挙前になると、「人への投資こそが分配」だと言い出した。その中で対応が注目されたのが「最低賃金」だった。
最低賃金は厚生労働省の審議会が、引き上げの「目安」を決定、都道府県の審議会が各県の最低賃金を決め、10月から実施される。審議会は労使双方の代表に「公益代表」の学者などを加えた3者で決める。政治の意思は反映されない建前だが、実際には時々の内閣の姿勢が大きく反映されてきた。
特に安倍元首相は賃金の引き上げに積極的で、「官製春闘」と揶揄(やゆ)されながらも、首相自ら財界代表に賃上げを要請するなど政治主導で取り組んだ。
もともと財界は最低賃金の引き上げには反対で、日本商工会議所など中小企業団体は毎年春になると最低賃金引き上げ反対のコメントを出す。最低賃金が上がると中小企業経営が成り立たなくなるというのが主張のベースだが、実際は日商の会頭は大手鉄鋼会社の社長会長を務めた三村明夫氏が務めており、最低賃金の引き上げが大手企業のコスト増につながることを懸念している構図は明らかだ。
それでも3%の引き上げが定着したのは安倍内閣の功績と言っていい。安倍元首相は全国平均の最低賃金を1000円にという目標も掲げてきたが、まだこれは達成されていない。
■週5日フルタイムで働いても年収は210万円程度
東京都の最低賃金も31円上がって1072円になることが決まった。昨年10月の段階で全国最低は沖縄県と高知県の820円で、これらの県の引き上げ目安は30円になっているので、審議会でそのまま答申されれば今年10月から850円になる。
つまり、最高と最低の格差が同じ国内で222円にもなるのだ。しかも、東京都は相対的に人手不足が状態化しており、アルバイトでも時給は最低賃金を大幅に上回るところが少なくない。一方で、沖縄や九州など経済活動自体が低迷しているところは、バイト代が最低賃金というところも少なくない。
問題は最低賃金だと、週5日フルタイムで働いていたとしても、年収は210万円程度にしかならない。米国やアジアなど経済成長が進んでいる国々では物価が上昇しても、それを上回る賃上げが進行している。給料の上がらない日本は、世界からどんどん劣後し、国民はますます貧しくなっていく。
■円安を加味すると最低賃金は15%以上も下がっている
最低賃金で働いている人たちには外国人労働者も少なくない。彼らは自国に比べて給与が高い日本に出稼ぎでやってきて、母国に仕送りをしているのだが、そうした外国人労働の世界で今、大きな変化が起きている。急激な円安で仕送りできる額が激減しているのだ。円高の頃は日本円で支払われる給与は世界最高水準だった。世界中のアーティストが日本にやってきてコンサートを開いたのも、日本のギャラがドル換算すればベラ棒に高かったからだ。
ところが今、まったく逆のことが起きている。日本の給与が3%上がったとしても為替が1年前に比べて15%安くなれば、日本の給与の魅力はどんどん落ちていく。このままでは日本にやってくる外国人労働者がいなくなってしまうに違いない。
最低賃金をドル建てに換算してみれば明らかだ。1年前の最低賃金930円を1ドル=110円で割ると、8.45ドル。それが今年961円になったとして、今の1ドル=135円で割ると7.12ドルである。ドル建てにしてみれば、15%以上も最低賃金は下がっていることになる。外国人がやって来なくなるというのは決して大袈裟ではない。
そうでなくても、新型コロナ前ですら、居酒屋の深夜バイトは生活力が上がった中国人学生が見向きもせず、インドネシアやベトナムといった国からの「留学生」に変わっていた。果たして、日本の最低賃金で働いてもいい、という外国人は、いったいどこの国からやってくるのだろうか。
■「アベノミクスで経済格差拡大」なら、なぜもっと引き上げないのか
分配をすれば成長する、と当初は主張していた岸田首相の誕生で、さぞかし最低賃金は大幅に引き上げられるのだろうと期待された。財界人の中には3%では不十分で5%以上引き上げるべきだという主張をしている人もかねている。賃金を引き上げれば、働く人たちの可処分所得が増え、それが消費に向かって、再び企業収益に結びつく。安倍元首相はこれを「経済の好循環」と言い続けてきた。
だが、実際には、企業収益の伸びほど賃上げは進まず、企業の内部留保が増え続けることになった。それを岸田首相は「アベノミクスで経済格差が拡大した」と指摘したはずだった。それならば賃上げを一気に進めるべくリーダーシップをとるに違いない、と思われた。
だが、今回の最低賃金の引き上げでも、首相のリーダーシップは見られなかった。3%を切って「アベノミクス以下」になるわけにはいかないから3%という基準のクリアは最低ラインだった。本来は物価上昇分を差し引いて、「実質」3%の引き上げを求めるべきだったが、そうすると5%以上の引き上げが必要になる。それは経済団体の顔色を見て早々に断念していた。
「多方面の声を聞く」というのが岸田首相の真骨頂である。残念ながら「弱者の声」を重んじることはない。おそらく、最低賃金で働く人々への「共感」も、日々上昇する物価への「実感」も乏しいのだろう。
「物価高の中で、たった30円しか上がらない」という国民の正直な声は、「過去最大」という報道によってかき消されている。おそらく岸田首相は、この過去最大の引き上げに、溜飲を下げているに違いない。
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経済ジャーナリスト
千葉商科大学教授。1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。著書に『国際会計基準戦争 完結編』(日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)などがある。
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(経済ジャーナリスト 磯山 友幸)
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