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本当なら沖縄戦も原爆投下も避けられた…日本人を「戦争の悲劇」にたたき落としたスターリンの二枚舌

プレジデントオンライン / 2022年8月15日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/font83

日本は1945年8月に無条件降伏している。ただ、その半年前の2月には「英米には勝てない」としてソ連に和平の仲介を頼んでいた。元外交官で作家の佐藤優さんは「ソ連が和平を仲介することはなかった。スターリンには日本に武力で侵攻する狙いがあり、ソ連の参戦前に戦争を終結させるわけにはいかなかった。その結果、沖縄戦や原爆投下といった悲劇が起きた」という――。

■「終戦記念日」よりも重要な日

8月15日は終戦記念日です。しかしこの日を記念日にしている国は、日本のほかに韓国と北朝鮮くらいでしょう。韓国では「光復節」。北朝鮮では「祖国解放記念日」。どちらも、植民地支配から解放された日の記念です。

太平洋戦争の終戦に関して、国際法的に意味があるのは、まず8月14日。日本がポツダム宣言を受諾して降伏する意思を、スウェーデンとスイスを通じて、アメリカとイギリスへ正式に伝えた日です。

次は9月2日。戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に調印し、停戦が成立しました。中国では、その翌日に当たる9月3日を「中国人民抗日戦争勝利記念日」と定めています。しかし法的には、このあとも戦争状態が続きました。

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効して、太平洋戦争は完全に終わりました。国際法から見て重要なのは、この3つです。

8月15日は、玉音放送という形でポツダム宣言の受諾が国内に周知された、という意味しかもちません。しかも日本政府は、負けたことをきちんと認めず、「終戦」という言い方をしました。

一部の歴史修正主義者は、「あれは軍隊の無条件降伏であって、国家が降伏したわけではない」という理屈を口にしますが、実態で判断しなければいけません。軍隊が無条件降伏すれば、国家も無条件降伏することになります。戦後も天皇制が維持されたのは、アメリカの政策的配慮によってです。歴史的現実は、きちんと捉えなければならないのです。

■太平洋戦争があと半年早く終わっていたら…

たらればですが、太平洋戦争が半年早く終結すれば、沖縄戦は起こらなかった。広島、長崎への原爆投下もなかった。ソ連の参戦もなかった。つまり、朝鮮半島の分断もなかったはずです。1945年2月の時点で日本はアメリカに勝てる見通しはまったくなく、英米との和平を仲介してくれる国を探していました。

1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告し、満州へ攻め込みます。日本はまさにそのときまで、英米との和平の仲介をソ連に期待していました。しかしスターリンは、この年2月に行われたヤルタ会談において、すでに対日参戦を表明していました。

イギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領とスターリンが集まり、戦後の処理について話し合った際、「独ソ戦が終われば、その3カ月後に日本に宣戦を布告し、南樺太や千島列島を奪い返す」と宣言し、ルーズベルトは承諾しました。ソ連の参戦は、ルーズベルトの依頼にスターリンが応じる形だったからです。

しかし日本は、そのことを知りません。日本軍の飛行機を提供すれば、ソ連が和平交渉に応じると思っていました。

■ソ連に対して、和平の仲介など望むべくもなかった

ソ連はこの年4月に、日ソ中立条約を延長しないと申し入れています。この条約は翌1946年の4月24日で失効するはずでしたが、あえて通告する意味はわかるでしょうという暗示的な言葉を、ソ連は強く用いました。

和平の仲介など、ソ連に対して望むべくもなかったわけです。現実味のない和平仲介の可能性にすがったのは、大きな問題でした。

そもそも1943年11月に出されたルーズベルト、チャーチル、中国の蒋介石によるカイロ宣言をよく読めば、はかない希望は抱かなかったはずです。そこには、日本が無条件降伏するまで戦うことと、戦後の処理方針が話し合われていたからです。

ポツダム会談を前に撮影された左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相。
ポツダム会談を前に撮影された左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相。(写真=U.S. National Archives and Records Administration/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■ソ連が満州への侵攻を早めたわけ

私は、今年1月に亡くなった作家の半藤一利さんと、『21世紀の戦争論 昭和史から考える』(文春新書)という対談本を出したことがあります。そこで半藤さんは、こうした見立てをお話しになりました。

五月八日にドイツが無条件降伏して、ソ連がドイツの息の根を止めることに成功します。すると、英米はソ連の対日参戦に懐疑的になるんですね。もはやソ連の力を借りなくても日本を叩くことができると考えたんです。何よりも、スターリンの野望に懸念を抱き始めた。スターリンは、戦争終結後の話し合いによってではなく、あくまでも武力で領土を押さえることに固執していましたから。戦後の世界秩序に関わる問題です。

そうなると、日本と戦っているアメリカとしては、なんとかソ連参戦前に日本を降伏させたいという考えに傾いていく。ルーズベルトの「無条件降伏」政策の煽りで最後の一兵まで戦うつもりの日本に、一刻も早く手を上げさせるにはどうすればいいか。そこで浮上したのが、原爆だったのではないか。反対に、スターリンとしては、自分たちが参戦する前に、日本に降伏されては困るわけです。

半藤さんは、7月17日から8月2日まで行われたポツダム会談の際に、アメリカが原爆の実験に成功したことをスターリンが知っていたかどうか、私に尋ねました。スターリンは、ポツダムに到着した翌日、満州への侵攻を予定の8月15日から9日に繰り上げるよう、命令しているからです。

■対日戦に積極的ではなかったソ連

冷戦後の情報公開で、当時のアメリカにはソ連のスパイのネットワークが張り巡らされていたことが明らかになりました。ですから原爆に関する何らかの情報は、スターリンの耳に入っていたと思います。しかしそれが、意思決定にどう影響したかはわかりません。日本に潜伏していたリヒャルト・ゾルゲが独ソ戦開始の日時を報告したのに、スターリンは無視した過去があるからです。

そもそもソ連は、対日戦に積極的に参戦したいと考えてはいなかったと思います。大きな理由は、対独戦の疲弊が相当にひどかったからです。加えて、関東軍の戦力に対する過大評価もありました。

ポツダム宣言で蚊帳の外に置かれたことが、スターリンに参戦の意思を強めさせたに違いありません。また、9月2日に行った演説に表れているように「日露戦争の仇を討ち、失った領土を取り戻したい」という思いから、疲れ切っていた兵士や国民を鼓舞したのでしょう。

ナショナリズムには、血統的なナショナリズムと領域的なナショナリズムがあります。ロシア人は古くから、土地にこだわる領域的なナショナリズムが強いようです。スターリンは、国民のそうした心理をうまく利用したのです。

ソ連が満州に侵攻したのは、8月9日でした。対独戦勝記念日は5月9日ですから、ヤルタ会談で「ドイツ降伏の3カ月後に参戦する」と宣言した通りになりました。

■プーチンが建てたスターリンの銅像

そのスターリンから学んだのが、プーチン大統領です。

ヤルタ会談の場所は、クリミア半島の保養地ヤルタにロシア皇帝ニコライ二世が建てた別荘「リベディア宮殿」でした。2014年、ロシアはクリミア半島を併合します。戦後70年を迎えた翌年の2月、プーチン大統領はリベディア宮殿の前に、ひとつの銅像を建てました。それは、チャーチル、ルーズベルト、スターリンが並んで座っている姿です。

『21世紀の戦争論』は2016年に出版された本ですが、次のようなやり取りがあります。

【佐藤】チャーチルとルーズベルトを加えることで、「われわれは歴史的事実を銅像で示しただけで、スターリンを称賛しているわけではない」と言い訳しているようですが、プーチンがスターリンの帝国主義を二十一世紀に蘇らせようとしていると、私は疑っています。

【半藤】そうですか。プーチンはもしかすると帝国主義者なのかもしれませんね。

残念ながら現実は、この通りになってしまいました。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。

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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎)

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