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「アフリカの権力者がよだれを垂らして欲しがる」中国が最貧国で鉄道ビジネスを始めるために贈る"あるもの"

プレジデントオンライン / 2022年8月23日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BeyondImages

中国がアフリカの鉄道敷設事業を次々と落札している。なぜ簡単に落札できるのか。元住友商事社員の小林邦宏さんは「中国はアフリカ諸国の首脳へのアプローチに秀でている。中国は権力者の欲しがる『スタジアム』の建設を支援して心をつかんでいる」という――。

※本稿は、小林邦宏『鉄道ビジネスから世界を読む』(インターナショナル新書)の一部を再編集したものです。

■アフリカのスタンダードを確立した中国の「南南協力」

鉄道プロジェクトを通じた中国のアフリカ進出は凄まじい。そして、中国によるアフリカ諸国での鉄道復旧や建設は21世紀に入ってから着手・実現したものが多い。これだけを見ると、急速な経済発展で力をつけた中国が大国の態度で手を差し伸べているような印象を受ける。しかし実際には、中国は鄧小平の実践した開放政策で経済発展への歩みを始める1980年代後半以前から、アフリカ諸国へのアプローチを進めていたのだ。

じつは、中国がアフリカへの支援を始めたのは50年代のこと。中華人民共和国の建国が49年だから建国直後から、そして大躍進政策や文化大革命の失敗で中国が疲弊していた60〜70年代も通じて継続していたのである。

世界銀行が公表している資料によれば、60年時点での中国のGDPは464億ドル。2017年の12兆2504億ドルと比較すれば、じつに250分の1程度に過ぎなかった。世界の最貧国というほどのレベルではないが、その後の文化大革命(1966〜76年)の失敗では数千万人もの餓死者が出たといわれている。

そして、そんな時代にも中国はアフリカへのアプローチを続けてきたのだ。自分自身の今日の食事もままならない状況で、自分よりも貧しい対象を見つけて支援という名目でカネを貸して利益を得ようとする商魂(ビジネスマインド)は注目に値するだろう。そして、中国がアフリカへのアプローチを始めた50年代というのは、スーダンが56年に独立したように、アフリカ諸国がかつての植民地支配から脱して独立を勝ち得ていった時代と重なっているのだ。

自分たちと同じように第2次大戦後に独立したアフリカ諸国に対する支援を、中国政府は「南南協力」と名づけた。

従来の開発途上国(南)に対する支援が、先進国(北)からの垂直型プロジェクトだったのに対して、中国は同じ開発途上国同士(南+南)の協力関係を提唱したのだ。今日の視点からは慧眼というべきだが、当時、独立直後の中国も国連非加盟(71年、中華民国に代わって代表権を得た)で世界の外交コミュニティからは外れたポジションにあった。

そして、中国の「南南協力」は、アフリカでは確実に“スタンダード”としての地位を確立していったのだ。

■国連の経済封鎖で窮地に陥ったタンザニアに手を差し伸べた中国

タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカプリムポシ間を「タンザン鉄道(タンザニア・ザンビア鉄道)」が走っている。現在のタンザニア・ザンビア地域(ザンビアはかつての英領北ローデシア)が植民地支配から独立したのは60年代に入ってからのこと。北ローデシアは銅鉱石の産地で、植民地時代には南ローデシア(現ジンバブエ)を経由して南アフリカ共和国の港湾から輸出していた。

【図表1】アフリカの鉄道地図
出所=『鉄道ビジネスから世界を読む』

しかし65年、南ローデシアの自治政府が一方的に独立を宣言し、しかも当時の南アフリカ共和国と同様のアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施するとしたために国連が南ローデシアを経済封鎖してしまったのだ。こうなると、ザンビアは銅鉱石を輸出できなくなってしまう。南ローデシアを経由せずに、ザンビア産の銅鉱石をインド洋岸の港湾まで運ぶための新たな鉄道建設の必要性が一気に浮上してきたのだ。

このタイミングでタンザニアの初代大統領ジュリウス・ニエレレは中国を訪問した。そこで中国当局からタンザン鉄道の建設を提案され、70年に中国・タンザニア・ザンビアの3者間で契約が締結されたのである。それに先立つ67年からタンザニア・ザンビアの両国では社会主義化政策が進められていった。

両国の中国への恭順は、大統領をはじめとする政治指導者たちの服装にも表れていった。植民地時代からの旧宗主国の文化であるスーツ姿から、タンザニア・スーツと呼ばれる人民服風のものを着て公式の場に現れるようになったのだ。

■4億ドル超の借款と2万人以上の中国人労働者を派遣

工事に際して中国はタンザニア・ザンビアの両国に合計4億320万ドルの借款を与え、約2万人の中国人労働者が現地に派遣されて、約3万人の現地人労働者とともに働いた。そして76年、中国は完成したタンザン鉄道をタンザニア・ザンビアの両国に引き渡す。これによって、両国は経済の屋台骨を支える資源・銅鉱石を輸出するルートを獲得したのである。

このケースは他のアフリカ諸国からも注目されたはずだ。国連の制裁は対南ローデシアであったが、それによって窮地に立たされたタンザニア・ザンビアを、中国が独自の支援で救った。アフリカで中国の存在感が一気に高まったのは間違いない。

■鉄道敷設と「スタジアム建設」がセットでおこなわれるワケ

こうした先進的な取り組みと、現在の圧倒的経済力を背景に中国の鉄道ビジネスはアフリカを席巻している。それに加えて、開発支援交渉の受け入れ側(カウンターパート)となるアフリカ諸国の首脳たちへのアプローチも、権力者たちの心理を巧みに利用しているように思える。

中国からタンザニア・ザンビアへの支援は鉄道建設だけではなかった。軍事基地も建設され、中国から兵器も供与された。しかし、鉄道と並んで中国からアフリカへの支援を象徴するものを、もうひとつだけ挙げるならスタジアムだろう。

タンザニアでは77年に中国からの支援によってアマーン・スタジアムが建設されたが、現在ではアフリカの40以上の国々で、中国からの支援によって建設されたスタジアムが威容を誇っている。アンゴラ(中国の支援でベンゲラ鉄道を復旧)では、2010年に同国で開催されたサッカーのアフリカ選手権に向けて4カ所に近代的なスタジアムが建設されたほどだ。

しかし、なぜスタジアムなのか?

エスタジオ・オンジ・デ・ノヴェンブロ
写真=iStock.com/mtcurado
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mtcurado

■鉄道で国民の腹を満たし、スタジアムで国民のガス抜きをする

かつてのローマ帝国では、統治のための2大ツールとして「パンとサーカス」が掲げられていた。パンというのは、国民の腹を満たすこと。中国からの支援による鉄道の建設・復旧で経済が活性化すれば国民の腹も満たされるはずだから、鉄道はパン。そして、サーカスは娯楽を与えることだった。つまり、飢えをなくし、ストレス発散につながる娯楽を提供できれば、国民は多少の汚職があっても文句はいわない、という考えだ。

世界遺産・コロッセオも、ローマ帝国が掲げた“サーカス政策”の一環だ。また、現存はしていないが、ローマの市内や近郊には複数の競馬(馬車レース)場があったことが明らかになっている。

この統治理念は、ローマ帝国の崩壊後も権力者たちに脈々と受け継がれていった。

たとえば、政情が不安定だった1960〜70年代の南米では「クーデターや革命を防ぎたければ、サッカーのワールドカップを開催しろ」というのが権力者たちの間で合言葉のようになっていたという。チリは62年にワールドカップを開催したが、50年代を通じて同国の政治は農地改革も実効性を欠くなど既得権益層寄りで、庶民には不満がたまっていた。しかし、左派のアジェンデ政権が誕生するのは70年。南米人の誰もが熱狂するサッカーの祭典が、政治改革への動きを遅らせた可能性は大である。

78年のワールドカップ・アルゼンチン大会は、76年のクーデターで成立した軍事政権下で開催された。2022年の現在ならばミャンマーでスポーツの国際イベントを開催するようなもので、当時もオランダ代表のスーパースター、ヨハン・クライフが出場をボイコットしたが、結果的にこの大会で地元アルゼンチンは初優勝を飾った。軍事政権への不満も、一時的には収まったに違いない。

■独裁者がスタジアムを欲しがるのはサッカーのためだけではない

そしてスタジアムは、国民の娯楽だけでなく、独裁者の権力を誇示する場としても非常に大きな力を発揮する。ヒトラー政権下で開催された36年のベルリン・オリンピックの記録映画や、北朝鮮のマスゲームを見れば明らかだろう。

かつて、世界最大のスタジアムといえばブラジル・リオデジャネイロの旧マラカナン・スタジアムで、最高20万人の収容人数を誇った(1950年のワールドカップ決勝では立ち見も含めて30万人を収容したともいわれる)が、改築後の現在のスタジアムは8万人のキャパシティ。代わって世界一の座に躍り出たのは、北朝鮮のマスゲームがおこなわれる「綾羅島(ルンナド)5月1日競技場」だ。

マラカナン・スタジアムの巨大さの背景にはブラジル国民のサッカー熱があるはずだが、綾羅島5月1日競技場は北朝鮮の経済力を象徴しているわけでもない。北朝鮮に世界最大のスタジアムが存在する理由は、それだけの巨大さを求める独裁権力がそこに存在しているからにほかならない。

そして、独裁者の権力がスタジアムにおいて発揮されるのはオリンピックなどの“ハレの日”だけではないのだ。

■ワールドカップ決勝のスタジアムでおこなわれた大量虐殺

ワールドカップ開催から11年後、73年にチリで左派・アジェンデ政権をクーデターで倒したアウグスト・ピノチェト将軍(のちに大統領)は戒厳令を敷き、アジェンデ政権を支持してきた左派の活動家を首都・サンチャゴの国立競技場に連行して虐殺したのである。ワールドカップの決勝戦がおこなわれたスタジアムだ。

虐殺されたなかには、チリの国民的フォーク・シンガーでアジェンデ政権を支持してきたヴィクトル・ハラも含まれていた。彼の『平和に生きる権利(El derecho de vivir en paz)』は今日でも世界中の多くの若者に愛されているメッセージソングだ。

ほかのアジェンデ政権支持者たちとともにスタジアムに連行されたハラは、そこで仲間を励ますためにアジェンデ政権のテーマソングであった革命歌『ベンセレーモス(Venceremos)』を唄った。すぐにギターを取り上げられ「二度とギターを弾けないように」と銃で両掌を撃ち砕かれたが、それでも歌い続けたために射殺されたという“伝説”が残っている。

のちに公表された現場の写真を見ると、連行された人々は後ろ手に縛られていて、ハラがギターを弾いたという点には疑問が残るが、彼がスタジアムで虐殺されたことは間違いない。そして、クーデター後、最初の1日で確認された死体は2700体に上るといわれている。

つまり、スタジアムというのは権力者にとって利用価値の高いインフラ設備ということだ。そして、アフリカにおける中国からの支援が水力発電と鉄道建設に集中していて、その両者の間にはローテクを基盤としている共通点があるが、スタジアム建設も同様だ。

■建設コストや人件費でも中国には到底かなわない

2008年の北京五輪でメインスタジアムとして使用された北京国家体育場(通称、鳥の巣)の建設費は約35億元(約500億円)といわれている。それに対して、21年に開催された東京五輪のために建設された新国立競技場の建設費には最終的に1500億円以上が投じられた。

さらに、ご記憶の読者も多いと思うが、当初は同スタジアムの設計がザハ・ハディドに依頼されていた。その設計に沿った建設費には、なんと約3500億円が計上されていたのだ。「鳥の巣」と比較すれば約7倍のコストだ。この格差の背景にあるのは日中間の人件費コストの圧倒的な違いだ。

小林邦宏『鉄道ビジネスから世界を読む』(インターナショナル新書)
小林邦宏『鉄道ビジネスから世界を読む』(インターナショナル新書)

そして、このコスト格差は、中国がタンザン鉄道の建設に際して自国から約2万人の労働者を派遣したことを考えれば、アフリカの地においても日本が逆転することはできない。新スタジアム建設の受注を巡って日本と中国が競合しても、コスト面では入札で中国が日本に負けることはない。それは、日本だけでなく、従来から世界銀行やIMFを通じてアフリカへの支援を続けてきた欧米諸国にとっても同じことだ。

このように、手始めにスタジアム建設を援助して、次に鉄道などのインフラ開発に手を伸ばしていくのが、中国からアフリカ諸国への開発援助を通じた経済的アプローチの常道だ。鉄道は空路・水路などでの輸送とは異なり、単に輸送量を飛躍的に増やして経済を活性化させるだけでなく、国家権力にとっては統治の面でも大きな意味を持つ案件といえる。

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小林 邦宏(こばやし・くにひろ)
元住友商事社員
1977年生まれ。旅するビジネスマン、ユーチューバー。2001年、東京大学卒業後、住友商事株式会社入社。情報産業部門に配属されるも、世界中を旅しながら仕事をするという夢を実現するため、28歳で自ら商社を起業し、花、水産物、プラスチックなどの卸売りを開始。「大手と同じことをやっていては生き残れない」という考えのもと、南米、アフリカ、東欧、中近東などに赴き、知られていないニッチな商材を見つけ、ビジネスを展開。著書に『なぜ僕は「ケニアのバラ」を輸入したのか?』(幻冬舎)。

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(元住友商事社員 小林 邦宏)

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