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田舎は才能をつぶす…イェール大学名誉教授が100人の偉人を調査して分かった「天才」が生まれる条件

プレジデントオンライン / 2022年8月29日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/carlosgaw

天才はいつ、どのようにして生まれるのか。アメリカの名門大学の人気授業をまとめた『イェール大学人気講義 天才』(すばる舎)より、歴史に残る天才たちに共通する条件について紹介する――。

■天才はチャンスをどのようにつかんでいるのか

「幸運は勇者に味方する」は古代ローマ時代の格言で、大プリニウス、プブリウス・テレンティウス・アフェル、ウェルギリウスそれぞれの言葉とする説がある。勇者になるというのは、チャンスをつかもうとするという意味だ。

でも、チャンスをつかむとは? それって、実現可能性が不確実で、50対50であってもアクションを起こそうとする、ということだろうか? それとも、「まったくの偶然さ」というように、純粋にセレンディピティに賭ける、ということだろうか?

フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグは、リスクを計算したり、セレンディピティに賭けたりして自分を追いつめることはしていない。

社会に与える影響力で天才を測れるなら、ザッカーバーグが天才のレッテルを否定されることは、まずないだろう。

確かに、ザッカーバーグは最近、プライバシー問題で連邦取引委員会および全米47州の州検事総長ともめている。

それでも、現在およそ20億人が毎日1時間近く彼の創作物フェイスブックを使っている。2010年には『TIME』誌がザッカーバーグを「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の顔)」に選んでいる。当時ザッカーバーグは26歳。史上2番目の若さでの栄誉となった。

準備――彼はコンピュータ・プログラミングの神童であった――と無限の野心がザッカーバーグの印となっている。

21歳になる前に彼が起こしたリスクを恐れない行動は、ときに法に触れることはあるにしても、彼の大胆な行動力のすごさを物語っている。

■天才マーク・ザッカーバーグのリスクを恐れない行動

【リスクを恐れない行動 その1】ハーバード大学のコンピュータ・システムに侵入し、名簿(FACE BOOKS)から学生のデータを「拝借」した

※「フェイスブック」という名称はハーバードの「face books」――ハーバードの学生が居住するエレガントなドミトリー「ハウス」が制作している、各学生の写真つきのデータ集のこと。

2003年10月28日の夜、マーク・ザッカーバーグはカークランド・ハウスH33号室の自分のデスクの前に座り、ずっとプログラムを書いていた。その学期に入ってザッカーバーグはすでに、「コースマッチ」を完成させていた。

これはハーバードの学生が、友人は何の授業を取っているかを調べて、場合によっては学習グループをつくれるシステムだ。

しかし今度は、それよりはるかに大胆なものをザッカーバーグはつくろうとしていた。オンライン「出会い系」サイトで、ハーバードの学生が他の学生を見て、「イケてる」だの「イケてない」だのと評価できるサイトだ。

最初ザッカーバーグは、学生写真の隣に家畜の写真を並べて、比較を促すことまで考えていた。だがそこで、それよりもっといいことを思いついた。

プログラムをつくるためには、盗み――あるいは少なくとも未承認のデータ取得――をしなければならなかった。ザッカーバーグはハーバードのサーバーにアクセスして、ハウスのフェイス・ブックスから学生の写真とデータをダウンロードした。

ベン・メズリックの言葉を引用すると、『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』には次のように書かれている。

「もちろん、それは写真を『盗んだ』ということになる。法的には、彼にその写真をダウンロードする権利はない。大学側も、学生にダウンロードさせるために公開していたわけではない。しかし、入手可能な状態で置かれているものを、手に入れてはいけないという法があるだろうか?」

■ビジネスパートナーを簡単に欺く

【リスクを恐れない行動 その2】ハーバードのライバルを欺く

この騒動は身長170センチメートルのマーク・ザッカーバーグをキャンパス内で大物にした。そしてその動向が、ザッカーバーグより大柄な195センチメートルの2人の男の注意をひいた。そっくりの双子、タイラー・ウィンクルヴォスとキャメロン・ウィンクルヴォスだ。2人はダブルスカルの選手としてハーバードでは有名で、2008年の北京オリンピックアメリカ代表チーム候補選手に名を連ねていた。

ところが2003年の11月、ウィンクルヴォス兄弟は別のことを思いついた。全米に網を広げるソーシャルネットワーキング・サイト「ハーバード・コネクション」をつくろうというのだ。その最後のプログラミングの仕上げをするところで、双子はマーク・ザッカーバーグに声をかけた。

ザッカーバーグはサイトの作成に必要なコンピュータのプログラミングとグラフィックの作業を引き受けた。双子はザッカーバーグと会って、52回メールでやり取りをした。ザッカーバーグは2人の書いたプログラムを見て、自分なら2人の役に立てるという印象を彼らに与えた。

ところが2004年2月4日、ザッカーバーグは競合するサイトを自分で立ち上げてしまった。Thefacebook.comだ。6日後、ザッカーバーグはハーバード大学理事会に呼ばれた。

今度は、ウィンクルヴォス兄弟のアイデアを盗んだということで、学生の倫理規定に違反するとして、ウィンクルヴォス兄弟から苦情を申し立てられたのだ。ウィンクルヴォスの弁護士もまた、ザッカーバーグにサイトの閉鎖要求を出し、知的財産の侵害を主張した。

G8会議に出席したマーク・ザッカーバーグ
写真=iStock.com/COM & O
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/COM & O

7カ月後、双子はザッカーバーグを提訴した。3人は2008年に法廷で和解し、報じられているところによると、双子がその頃には「フェイスブック」と呼ばれるようになっていた会社の株式120万株(6500万ドル相当)を賠償金として手にした。

双子の弁護士は株式の売却を薦めたが、双子は頑としてフェイスブック株の保有を続け、最終的に2人ともビリオネアになった。

■シリコンバレーに行かなくちゃいけない

【リスクを恐れない行動 その3】大学2年生を終えて退学

ザッカーバーグはまさにそれをやったのだ。その話を聞かされた両親のことを想像してみるといい。「ママ、パパ、僕ハーバードをやめて自分の会社を興します」

だが、そのような大胆な行動には先例があった。2003年の秋、ザッカーバーグはビル・ゲイツのコンピュータ・サイエンスの講演を聴いており、そのなかでゲイツは、「ハーバードの素晴らしいところは、いつでも戻ってきて卒業ができるというところだ」と語っていた。

ザッカーバーグもゲイツも、大学をやめて二度と戻らなかった。ただし2人とも、のちに大学から名誉学位を授与されている。彼らの肝の据わった動きは報われた。

【リスクを恐れない行動 その4】20歳で単身カリフォルニアへ

大学をやめてマーク・ザッカーバーグは、さらに大きな賭けに出た。ニューヨーク郊外の住み慣れた家族の家を出て、シリコンバレーの中心、カリフォルニアのパロアルトに移り住んだのだ。

これも大胆な行動ではあるが、おそらく論理的には間違っていない。というのも、パロアルトはコンピュータ技術者とベンチャー企業のメッカとの評判があったからだ。

ザッカーバーグがのちに振り返っているように、「シリコンバレーには、そこにいなくちゃならないという雰囲気がある。なぜなら、あそこはすべてのエンジニアが集まっているところだからね」という。

テクノロジー界の大物――ラリー・エリソン、イーロン・マスク、セルゲイ・ブリン、ベゾス、ゲイツ、そしてザッカーバーグ――はすべて、大胆な計画を実行に移すために、拠点を変える必要があった。

■天才たちに共通する“ある行動”

シェイクスピアはかつて、「漂流している船も幸運に恵まれれば港に着けるものだ」(『シンベリン』)と言っていたことがある。しかし、船がしっかりと錨を下ろしていて動かなければ、幸運もやって来ようがない。

天才の隠れた習慣? 天才は皆、さらなる目標を追求するために、大都会あるいは大学へ移動しているのだ。

本書に登場した天才たちと、その機に乗じた移転を見てみよう。

シェイクスピア、ロザリンド・フランクリン、アレクサンダー・フレミングはロンドンへ。ワトソンとクリックはケンブリッジ大学へ。パスツールはリールを経てパリへ。ザッカーバーグはシリコンバレーへ。それぞれ若いうちに大都会または大学、あるいは大都会にある大学に拠点を移している。

「私は運は信じないの」とオプラ・ウィンフリーは2011年に語っていた。「運は準備が機会に出会っただけよ」。これは真実だが、そのためにはまず出会わなければならない。ウィンフリーはシカゴに移った。

■アテネ、ウィーン、パリ、ニューヨーク

次に、本書で取り上げている天才たちと、その人たちが偉業を成し遂げた都市を見てみよう。

アテネはソクラテスとプラトンが生まれたところだが、アリストテレスはそこに17歳で移住した。ロンドンはファラデーの生まれた街だが、シェイクスピア、ディケンズ、ヴァージニア・ウルフは転入組となる。

シューベルト、アルノルト・シェーンベルクはウィーン生まれだが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーは移住組で、フロイトもそうだ。アレクサンダー・ハミルトンはニューヨークへと移住し、さらに移民の息子であるリン=マニュエル・ミランダの素晴らしいミュージカル作品『ハミルトン』に間接的に影響を与えた。

草間彌生、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザーウェル、マーク・ロスコ、ウォーホルがニューヨークに来ていなければ、ポストモダン・アート界はどうなっていただろう?

アンディ・ウォーホルとペットのダックスフントのアーチー
アンディ・ウォーホルとペットのダックスフントのアーチー(写真=Jack Mitchell Archives/Jack Mitchell/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

草間は1950年代に保守的な日本の片田舎からニューヨークに移り住んだことについて、「出ていかなくちゃいけなかったの」と語っていた。

大学について言えば、ニュートンはケンブリッジに行き、アインシュタインはベルリンにある世界最高峰の学術研究機関マックス・プランク研究所で過ごし、最晩年をプリンストン高等研究所で過ごしている。

テクノロジー界の巨人、マスク、ブリン、ラリー・ペイジ、ピーター・ティールは在籍年数こそさまざまだが、スタンフォード大学に行っている。天才は故郷にじっとしていない。天才はより環境の整ったところへ拠点を移す。

■「パリへ行かなかったら、今の私はなかっただろう」

この動かずにはいられない衝動を「天才の反慣性の法則」と呼ぶことにしよう。

もちろん、法則には例外がある。たとえばライト兄弟だ。彼らはオハイオ州の小都市デイトンの近くにとどまった。植物学者のグレゴール・メンデルとジョージ・ワシントン・カーヴァーは野原に簡単に行けなければならなかった。ダーウィンのような自然科学者や、クロード・モネ、ジョージア・オキーフなどの風景画家もまた、その職業上の必要性から、この法則が適用できない。

しかし、概して天才は田舎にとどまらない。

『星月夜』を描いたゴッホでさえ、若い頃に、「50フランほど月々の生活費が安く済むからといって、田舎に戻ってきてほしいとは私に言えないと思う。ここアントワープであれ、このあと行くパリであれ、この先ずっと私は街で密接な関係を築いていかなければならないのだから」と書いている。そして1886年、ゴッホはパリに移り住んだ。

同じく、ゴッホとほぼ同時代、あるいはその少しあとのピカソ、マティス、モディリアーニ、マルク・シャガール、ジョルジュ・ブラック、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョアン・ミロ、ディエゴ・リベラなどの画家も生まれ故郷を離れ、作曲家ではクロード・ドビュッシー、ストラヴィンスキー、アーロン・コープランド、詩人や作家ではエズラ・パウンド、ギヨーム・アポリネール、ジョイス、ガートルード・スタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなども大都会に移住している。

「パリへ行かなかったら、今の私はなかっただろう」とシャガールは語っており、「誰であろうと、私たちは必ずパリに戻ってしまう」とヘミングウェイは語っていた。

■シリコンバレーが持つ引力の正体

何が天才たちを、ベル・エポックのパリや20世紀半ばのニューヨーク、あるいはメガロポリスのシリコンバレーなどの大都会にひきつけるのだろうか?

創造性にあふれた街というのは、昔から、多種多様な人々――最近では多くの場合、移民――が異なる発想を持って集まる交差点にあった。新しく来た人々が、それまでの知的環境のなかに斬新なアイデアの種を播き、そうして新しい考え方が生まれる。

シリコンバレーの交通標識
写真=iStock.com/Tick-Tock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tick-Tock

シリコンバレーは、俗に「天才ビザ」と呼ばれ、きわめて優秀な外国人労働者の移住を認めるH-1Bビザを有効に活用して、世界中からハイテク分野の最優秀頭脳を引き寄せている。

「文明の偉大な進歩はほぼすべてが[中略]最高に国際化の進んだ時代に起こってきた」と歴史家のケネス・クラークは述べている。アメリカのあの南西の国境の壁についても、同じことが言えるだろうか?

最後に、異花受粉させるには、ほとんど政府の検閲なく多種多様なアイデアが行き交わなければならない。

「天才は自由な雰囲気のなかでしかのびのびと呼吸ができない」とジョン・スチュアート・ミルは話していた。そして、それが奨励されなければならない。

シリコンバレーの投資家たちは、世界中の他のどこよりもベンチャー企業に資本を提供し、その規模は2018年の数字で105億ドル。次点の都市、ボストン(30億ドル)の3倍を超えている。

財務的なサポート、新しいアイデア入手の機会、表現の自由、競争、最高のものを相手に自己診断できる機会――これらがすべて、シリコンバレーの引力になっている。

■創造性の中心となる都市は常に移り変わる

では、都市はどれくらい大きくなければならないのだろうか? それは、最小限必要なものが手に入る程度に大きくなければならない。

クレイグ・ライト著、南沢篤花訳『イェール大学人気講義 天才』(すばる舎)
クレイグ・ライト著、南沢篤花訳『イェール大学人気講義 天才』(すばる舎)

作曲家であれば、劇場、演奏家、プロデューサー、観客、評論家が必要だ。画家であれば、手助けしてくれる同僚画家だけでなく、エージェントやギャラリー、フェスティバル、展示のためのスペース、そしてパトロンが必要である。

エンジニアは、仲間となるテクノロジー技術者、装置、そして研究資金を必要とする。そしていずれの分野でも、競争相手が必要であり、仕事が必要である。大きなチャンスは、天才を動かずにはいられなくさせる。

天才同様に、創造性の中心も常に動いている。歴史的には、中心は東から西へ、中国から近東、そしてヨーロッパへ、イギリスからアメリカ東海岸、そしてアメリカ西海岸へと動いてきた。

次のシリコンバレーはどこに出現するだろうか? 天才たちが大きな円を描いてアジアに戻ってくる? 創造性の中心がすでにシンガポールに出現し始めている? パリがツーリストであふれ、ニューヨークの家賃が桁外れに高騰してきた今、次の革新の中心はどこになるのだろうか?

その答えは休むことを知らない天才たちをフォローして探ってみよう。さらにいいのは、いい風はどちら向きに吹くのかを見極めて荷造りをし、そこに一番乗りすることだ。

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クレイグ・ライト イェール大学、ヘンリー・L・アンド・ルーシー・G・モーゼス名誉教授
学部生向けの人気講座「Exploring the Nature of Genius」(天才の資質探求)の講師を続けている。グッゲンハイムフェローであり、シカゴ大学から名誉人文学博士号を授与され、アメリカ芸術科学アカデミーの会員でもある。イェール大学の優れた学部教育に与えられるセウォール賞(2016)と優れた教育と学術に与えられるディヴェイン・メダル(2018)を受賞。イーストマン音楽院で音楽学士号を取得し、ハーバード大学でPh.D.を取得。

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(イェール大学、ヘンリー・L・アンド・ルーシー・G・モーゼス名誉教授 クレイグ・ライト)

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