旧統一教会の教えはブラック企業と同じ…普通の人を「よろこんで献金する信者」に変える3つの原則
プレジデントオンライン / 2022年8月26日 13時15分
※本稿は、櫻井義秀『霊と金』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■「子供や孫が泣いている姿」でマインド・コントロールが解ける
Aさんは2003年に旧統一教会を脱会した。きっかけは家族の説得であった。
Aさんの子供達は、多額の献金がなされている事実を知り、旧統一教会をやめて元の母親に戻ってほしいと真剣な話し合いを持った。
次男の「仕事を辞めてもいいのでじっくり話したい」という並々ならぬ決意を感じて、Aさんは子供達と数日間話し合いを行い、旧統一教会の実態を知らされたのである。
その間、子供達は話し合いに専念するために孫3人をよそに預けていた。
Aさんと子供達との話し合いが終わり、連れてこられた孫達が親にすがりついて泣いている様を見て、Aさんは孫達に寂しい思いをさせてしまった自分の姿が客観的に見えたという。
つまり、自分は子供達、孫達のためによかれと思ってやってきたことだったが、そうではなかったのではないか。これほどまで子供や孫達を悲しませてしまった自分の愚かさと申し訳なさに涙し、その瞬間に旧統一教会のおかしさが分かったと語る。
■教団から追放後「暴漢に襲われる」
一般的に、旧統一教会信徒が脱会する道筋は大きくわけて3つある。
第一に自主脱会。教団への疑念が脹らみ継続しがたくなるもので、入信初期に辞めるパターンが多い。
第二に教団からの追放。旧統一教会の日刊紙「世界日報」の編集局長であった副島嘉和は、本部との路線対立から解任され信者の籍を抹消された後、『文藝春秋』(1984年7月号)に旧統一教会の暴露記事を掲載した。その直後、暴漢に襲われ重傷を負ったが、このようなケースは稀である。
第三に、Aさんのように家族の話し合いにより認識の枠組みや生活態度が旧統一教会モードから現実生活のモードに一変するというパターンである。俗にマインド・コントロールが解けるともいい、長期間信者であった人が辞めるケースとしては一番多い。
■マインド・コントロールの3つの原則
ところで、旧統一教会の元信者が語るところでは、次のようなコントロールがある。
①カイン―アベルの原則
創世記によると、カインが兄、アベルが弟で、2人はアダムとエバの息子達であるが、神はカインの献げものよりもアベルの献げものを取られたのでカインは怒ってアベルを殺してしまう。
この物語から旧統一教会では、神に嘉(よみ)されたアベルにカインは従うべきという一般則を作る。これが組織内ではアベルは上司(信仰上の先輩)、カインは部下(信仰上の後輩)に相当するという。
したがって、信仰共同体の組織は下位のものが上位のものに道徳的に逆らえないピラミッド的なものとなる。最上位には文鮮明がいる。社会関係のコントロールである。
②アダム―エバの原則
先に女性が堕落して男性を誘ったということから、女性は男性に献身的であるべきという一般則を作る。これが国家間に適応されると先に述べたアダム国家(韓国)-エバ国家(日本)の図式となり、日本が韓国に仕えるのは当然なのだということにもなる。
また、堕落は男女の間違いから始まったことなので、信徒同士男女間の密な関係は禁じられ、再臨主たる文鮮明を仲介しない男女関係は全て不義なるものとされる。
祝福後の家庭にも再臨主が介在し、夫婦間の愛情よりも再臨主への信仰の方が強いのである。性愛と結婚のコントロールである。
③ほうれんそうの原則
報告、連絡、相談を縮めたものである。自分の行為は全て上司に報告し、信徒同士連絡を密に行い、自己判断の必要がある場面では全て相談する。
旧統一教会の信徒は自己の裁量で行動することは殆どなく、組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日である。これは行動のコントロールである。
■旧統一教会の手法は「一般社会にも見られる」
このような①②③のコントロール下では、自己の認識や判断よりも、再臨主の教えや教団組織の方針を優先するよう、旧統一教会信徒としての人格が形作られている。
もちろん、②は旧統一教会特有の傾向であるが、①③の組織的統制は一般社会でも見られる。
閉鎖性が強く、権威主義的な組織に属していると、自分で考え判断することが悪いという価値観を持たされ、ついには自分で判断するよりも上位者に判断を委ねること自体が善であり、模範的(信仰的ないしは忠実)であると思いこまされる。
戦前の軍隊がそうであったし、現在もこのような組織的統制によって社員に違法すれすれの営業をやらせるような会社がある。
いったん、このような組織に身を投じてしまうと認識の枠組みがいつの間にか変わってしまい、自分で自分の判断を縛ってしまうようになる。
マインド・コントロールとは常に誰かから監視され、遠隔操作されているようなものではなく、自縄自縛の状態なのである。
だから、Aさんが信徒であった間になした旧統一教会への献金も、Aさんを勧誘し、献金を勧めた信徒達の行為も、外形的には自律的行為とみなせるものである。
しかし、そうした行為を真に自律的なものとみなしてよいのかどうか。
どのような経緯でそのような行為が生み出されたのかをも総合的に考察したうえで、私たちは社会的判断、常識的判断を下してよいのではないかと思う。
この点を、Aさんの裁判に関して、再度考察してみよう。
■マインド・コントロール下でも「信者が自発的に献金した」
被告である旧統一教会は、原告が商品の購入や献金を信者として自発的に行ったと主張し、原告と関わりがあった現役の信者にその旨証言させた。
原告側の弁護士は、原告女性が、旧統一教会員の巧みな勧誘にのせられて信者にさせられ、金を出させられたと主張した。
判決では、旧統一教会側の勧誘行為には違法性があり、初期の商品購入や献金は強いられたものであると認定し、この女性が旧統一教会を辞める直前の献金行為にも強制を認めた。
しかし、12年近くの信者生活の中間で買った品物や献金は、信者として自発的に行ったものだとみなされたのである。
賠償が認められなかった半分の2億数千万円が該当する。
原告を、違法な勧誘により畏怖困惑させて信者にしたのは許し難いとする一方で、どのような経緯であれ、信者となって進んで献金したものに違法性はない、という裁判所の判断は、素人目にも矛盾している。
つまり、入信前に、先祖がうかばれない、霊のたたりなどの心理的圧力を受けて原告が入信したことを、裁判所は事実と認定した。
だから、入信前後の物品購入・献金は違法な勧誘と教え込みの結果、自らの意志に反してお金を出させられたものと判断したのである。
■裁判所が認めた「違法な心理的圧力」
ところが、信者となってから12年余り、原告は教団から過度な献金要請を受けずとも、請われるままに献金した。
少なくとも激しく抵抗した経緯が認められないので、これらの献金は自由意志による宗教行為と裁判所は考えたのである。
しかし、これでよいのだろうか。
いったん信者になれば信じ切っているのだから、抵抗するわけがない。おかしいな、変だぞと思い、こんな金は出せないと抵抗したら、その時点で教団を辞めている。
原告は教団を辞める直前にそのような心境になり、献金要請に抵抗を示し、ついにおかしさに気づき脱会したのである。
裁判所は原告が教団に疑念をいだいた経緯を認め、この間の献金は違法な心理的圧力によるものだと断じた。
■「領収書を残すな」旧統一教会の驚くべき誡め
ところで、心理的圧力の有無は、原告側が論証するしかない。
旧統一教会は、献金させたという事実すら、進んで認めたわけではなかった。
そもそも献金の際に、教団は領収書や受取書を発行していない。献金の記録を残すような行為は非信仰的であるとして、誡(いまし)められた、と原告はいう。
したがって、弁護士は、原告の預金通帳を調べて、生活上不必要で不自然な出金の記録から献金相当額を割り出し、原告の記憶に基づいて献金を強要された事実を確定していったのである。
こうして確定された物品購入や献金は計40回余に及び、総額5億円以上に達した。
裁判所は献金1回ごとに、原告と被告、関係者の証言から心理的圧力の有無を調べた。必要な手続きだ。しかし、その年に70歳になる原告には厳しい審理だった。
考えてみてほしい。詳細なメモや記録なしに、12年にわたる40回の行為を正確に思い出せるだろうか。
現役バリバリのサラリーマンでも、自筆の手帳や職場の記録なしで、数年間に行った出張の様子を、年月日、行き先、宿泊ホテルを含めて想起できるだろうか。
あるいは議事録なしに、誰がどのような発言をどのような調子で行ったか、といった会議の次第を想起できるだろうか。
古い記憶を消してメモリーを空けておいてこそ、頭が働くのではないか。
原告に、信者であった期間の全般にわたって鮮明な記憶を求めるのは酷だ。
筆者は、これまで20人以上の旧統一教会元信徒の方に聞き取り調査を行っているが、彼らが比較的明確に回想できるのは、入信前後から旧統一教会員としての自覚を深めるまでの期間と、宗教活動に疑問を抱き脱会して、その後社会復帰するまでの期間である。
■「旧統一教会への損害賠償請求」難しい理由
先ほど述べたように、旧統一教会信者は特殊な言語と論理でコミュニケーションを行い、生活のスケジュールと人事には殆ど自由裁量の余地がない(幹部は別として末端信者ほど)。
つまり、およそ自分で勝手に考える余地もなければ、その必要もない。
それに心地よさを感じる信者と、理不尽さや居心地の悪さを感じる信者双方があるが、どちらもルーティーン化された日常生活と宗教生活に関わるところの記憶は曖昧(あいまい)である。
元信徒の人達が損害賠償請求の裁判を起こす際に記憶だけに頼ると、必ずこの問題に直面する。
青年期に活動した元信者ですらこうなのだから、中高年の人達の困難さは相当なものだ。
もっと言えば、被害を受けた人達の記憶ですらこのように曖昧になっているのだから、加害の側にあって霊能師の役割を演じて何十人、何百人相手に因縁の話を説いてきた旧統一教会信徒の記憶も実に曖昧なものである。パターン化されると個別の出来事に対する記憶がぼやけ、そこで味わった感情の動きに鈍感になるのである。
■「違法な献金」警察はなぜ見逃しているのか
見方を変えれば、このような裁判は教団にとって実に有利である。
教団は、加害側・被害側双方の信者にも記録を残させない。どちらの証言にも曖昧性が残る。
旧統一教会は仮に損害賠償を求める裁判を起こされても、証拠不十分で返還が認められない分が相当出てくるのであるから、慰謝料を払っても取り得である。
しかも、旧統一教会による違法な献金強要訴訟に典型的であるが、個々の判例では教団による組織的献金要請のシステムや勧誘者のマニュアルまであることが確認されている。
にもかかわらず、組織本体に対する警察の取り締まりがない。
訴えられて負けたときだけ賠償金を支払えばいいということになれば、泣き寝入りする被害者も少なくないのだから、違法であっても儲かる商売となる。そのことを分かってやっているのが、旧統一教会とはいえないか。
どうして、このような理不尽なことが許されているのかと、読者は怪訝に思われるだろうし、被害者は憤怒に堪えないだろう。
ここには、法の支配だけでは解決できない問題がある。
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北海道大学大学院文学研究院教授
1961(昭和36)年山形県生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程中退。文学博士。専攻は宗教社会学、タイ地域研究。主な著書に『霊と金』(新潮新書)、『「カルト」を問い直す』(中公新書ラクレ)。編著に『統一教会 日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会)、『カルトとスピリチュアリティ』『よくわかる宗教社会学』(編著、ミネルヴァ書房)など。
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(北海道大学大学院文学研究院教授 櫻井 義秀)
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