悪夢のような負担が病院にのしかかる…現役医師がコロナ患者の「全数把握廃止」を深く懸念するワケ
プレジデントオンライン / 2022年8月26日 9時15分
■もうなかば諦めの心境である
第7波の勢いが止まらない。発熱外来の予約枠は朝の受付開始とともに瞬く間に満了となってしまう状況だ。お盆休みも明けて、発熱外来には「帰省先で感染してしまったようだ」という患者さんも相当数いる。この現状、そして現在主流と言われているBA.5の次にはBA.2.75の流行が待ち構えていることを思えば、まだまだ外来診療の逼迫(ひっぱく)状態からは解放されないのだろうと、なかば諦めの心境だ。
私が主として診療に関与する診療所は発熱外来も設置しているが、高血圧や糖尿病といった慢性疾患の通院患者さんも少なくないため、発熱者の診療には外来診療時間枠の一部を活用するしかない。午前でいえば、9時から12時までの最後の1時間をそれに充てることとなる。
発熱者の診療は医療機関によってもそのやり方は異なるだろうが、私の勤務するところでは基本的には対面で診療する。患者さんに一切会わず、検査のみあるいは投薬のみとする医療機関も少なくないようだが、前回記事にも書いたように、そのような診療方法では誤診や見落としのリスクが高まる。よって流れ作業的に検査投薬のみを行うのではなく、可能な範囲でしっかりと診察するというのが、ここの担当医に一致しているポリシーだ。
■政府は「全数把握」の見直しを検討
しかしそのように診療のクオリティーを一定程度担保しようとする場合、無限ではない時間とマンパワーを鑑(かんが)みれば、どうしてもアクセスは犠牲にせざるを得ない。すなわち発熱外来で受け入れる人数を制限せざるを得なくなるのだ。朝の受付開始と同時に電話が鳴るが、発熱外来枠の1時間に診療できる人数は最大限に頑張っても15人が限界だ。詳細なデータをとっているわけではないが、おそらくその3倍以上の問い合わせは毎朝受けていると思われる。なんとも心苦しいことではあるが、仕方がないのが現状だ。
もちろん逼迫しているのは私の勤務先ばかりではない。そして多忙を極めているのは診療を直接担当する医師や看護師だけでもない。受付業務や会計、そして感染者の登録業務を行う事務職員の負担は、内部を知らない人には想像もつかないほど大きなものとなっている。
こうした医療現場に重くのしかかっている負担を緩和するために、政府はこれまで行われてきた新型コロナウイルス感染症の「全数把握」を見直し、発生の届け出を都道府県の判断で高齢者らに限定できるようにする方針を表明した。
■メリット・デメリットはどこにあるのか
「全数把握」とは、簡単に言えば、医療機関等が新型コロナウイルス感染症との診断を下した際に、当該感染者を行政機関にもれなく報告するということである。「全数把握」との言葉を見ると、日本全国で発生している新型コロナウイルス感染者を一人残らず炙り出して捕捉し集計することだと思ってしまいがちだが、そういう意味ではない。
コロナ禍以降、現在に至るまで医療現場で行われてきたこの「全数把握」を見直す、あるいは廃止する方向とした場合、それによっていかなるメリットが期待できるのか、一方でいかなるデメリットが生じうるのか、そしてその政策転換は私たちの生活に社会に、いかなる影響を及ぼし得るのか、本稿ではこれらの問題について論じてみたい。
まず「全数把握」を止めることによるメリットについて考えてみよう。言うまでもなく、医療現場の負担軽減がその最たるメリットだ。
現在、発熱外来を開設している医療機関では、新型コロナウイルス感染者を検査等で診断した後に、当該患者情報をHER-SYS(ハーシス)と呼ばれる「新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理システム」に入力することになっている。これによって患者情報が行政機関に集約されるのだ。
■20人だとしたら、15人分の報告が必要
そもそもこのシステムは、厚生労働省によれば「保健所等の業務負担軽減及び保健所・都道府県・医療機関等をはじめとした関係者間の情報共有・把握の迅速化を図るため」が目的であった。しかしこのシステムへの入力作業が、現在多くの医療機関の負担となっていると言われるのである。「全数把握」すなわち「全数報告」を止めれば、この作業にかかる医療機関の時間的、人的負担は軽減されるのだという。ではいったいどのくらいの負担軽減になるのだろうか。
それは医療機関の規模そして発熱外来の受け入れ人数にもよると言える。例えば私の勤務先では、先述したように慢性疾患の患者さんも数多く来院するため、発熱外来枠での受け入れ可能人数は多くても一日25人ほどだ。仮に20人とした場合、現在のように市中感染が爆発的に増えている状況下での当院における陽性率(検査人数に対する陽性者の割合)はほぼ70~80%だから、一日に15人分ほどの報告が必要となる。
■約2時間におよぶ入力作業を省略できるが…
以前よりも入力項目が簡素化されたため1人分の入力時間は3~5分ほど、つまり15人分であれば入力作業だけで1時間程度は要することになる。入力作業は当院では事務長が一括して行っているが、その前段階で事務職員が入力項目の整理作業を行うため、その準備に要する時間も加味すれば、診療所全体としてはさらに1時間以上は、この報告作業に取られることとなる。
もし「全数把握」が廃止となれば、その分の時間とマンパワーが節約できるため他の対応に余力を回すことは可能となる。それは大きなメリットだと言えよう。
しかしこの効率化によって、発熱外来で受け入れられる患者さんの数を増やせるかというと、それはまた別の問題だ。例えば医師1人で診療している規模の小さな個人の診療所など、入力作業を事務員ではなく医師(院長)本人が行っているところでは、その浮いた余力を受け入れ人数増に回せるかもしれないが、もともと入力作業に医師が関与していない医療機関では、「全数把握」を廃止にしたところで受け入れ人数増には直結しない。
■1.支援物資や健康観察が受けられない
つまり「事務作業が削減される分、医療機関の負担が減って、断らざるを得なかった多くの患者さんを受け入れられるようになる」とのシナリオには、大きな疑問符が付いてしまうのだ。「全数把握」廃止による医療機関の負担軽減がどれだけ発熱者難民を減らすことにつながるのか、これは以下に検討するデメリットと比較して慎重に考量すべきであろう。
では「全数把握」を廃止することでいかなるデメリットがもたらされるか。わが国の感染状況の実態が分からなくなるとの問題はすでに多くの識者が指摘しているため、ここではその議論は割愛し、より私たちの生活に関わることを指摘したい。
最も大きな問題は、個々の感染者が登録されないことにある。現在、感染者の多くは入院できずに自宅療養を余儀なくされているが、それでもまったく放置されているわけではなく、支援物資の配給やLINEや電話を通じた健康観察といった行政による保護措置が多少はある。これらが一切なくなってしまうのだ。
ご存じの通り、新型コロナウイルス感染症は、現在の感染症法の位置づけでは、感染者は一定期間外出しないことによって感染拡大防止への協力要請に応じるよう努めなければならないとされている。いわゆる隔離の法的根拠はここにある。
■2.「検査→隔離」のフローが形骸化していく
それが登録されずに行政から放置されることになってしまうわけだから、生き抜くためには外出して食材を買いに出ねばならなくなる。感染の事実は、診察室という密室の中で診断した医師と患者さん本人との間でしか共有されない情報であるから、黙っていれば他人には分からない。もちろん現状でも、感染者が黙って出歩けてしまうことに変わりはないが、今以上に感染拡大防止の努力義務は、個人の良心に委ねられることとなるだろう。
現在主流のBA.5は、もちろん重症化する人もいるが、2~3日ですっかり回復してしまう人も少なくない。人によっては1日も休めば職場復帰できてしまう。そのような「感染力がまだ残っている元気な感染者」が街場を出歩いても職場に行っても、行政としてはその人が感染者だと把握できなくなっている以上、感染拡大防止への協力要請はできないということになる。つまり隔離自体がその効力を失い形骸化してしまうことになるのだ。
さらに現状で「全数把握」が廃止されると、医療機関には新たな負担が加わってしまう可能性も指摘しておきたい。それは「診断書」や「検査証明書」等の作成・発行、交付の業務の急増だ。
■厚労省は療養証明書の発行を勧めているが…
令和4年8月10日付で厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策推進本部より、事務連絡として「新型コロナウイルス感染症に係る医療機関・保健所からの証明書等の取得に対する配慮に関する要請について(協力依頼)」との文書が発出された。
この文書では、自治体を通じて地域の事業主団体または企業に対し、以下のように要請している。
現在、感染者との診断を受けHER-SYSを通じて登録された人には、その後、保健所からショートメールでMy HER-SYSにアクセスするよう案内が届く。これにログインすることで療養証明書が簡単に入手できるのだ。厚生労働省が事務連絡でこの活用を要請している一方で、もし「全数把握廃止」となれば、これがまったく活用できなくなってしまうことになる。
■3.医療機関に悪夢のような負担がのしかかる
欠勤や欠席で職場や学校に療養証明書(診断書)や(出勤・登校)許可書等の提出を求められた人、そして自宅療養が「みなし入院」として民間保険の入院給付金等の支払い対象になる人たちが、My HER-SYSでの証明書の代わりに、医療機関にこれらの証明を得るため殺到することは火を見るより明らかだ。これは医療現場にとってHER-SYS入力とは比較にならない悪夢のような負担となる。
もちろん感染しても公的に登録されていないのだから、職場や学校に「新型コロナウイルス感染症」で休んだことを黙っていれば証明書など不要だ。ゆえに“全数把握廃止後の未来”では、「感染の事実を職場や学校に正直に申告し、ゆっくり休む人」と「自覚症状はあるが、申告せずに症状が落ち着きしだい出勤(登校)する人」が、今以上に社会に入り混じることになるだろう。
そのような社会で、この感染力が異常に強い感染症を制御することができるだろうか。“数えなければ見えやしない”ということだろうか。そんな乱暴な議論で良いのだろうか。
■「拡大抑止」と「感染者の保護」を放棄するのか
ちょっと落ち着いて考えてみてほしい。感染者が登録されるということには、いわゆる“隔離”を行うことで社会への感染拡大を防止するとの意味だけではなく、当事者およびその家族の経過観察やフォローアップ、隔離中の生活を行政が責任を持って保護するという、両方の意味が本来あるはずだ。つまり「全数把握を廃止する」ということは、感染拡大抑止と感染者保護、双方の責任を行政が放棄することにほかならないのだ。
現在の「全数把握は是か非か」の議論には、賛成派、反対派双方の議論からこのような視点が完全に抜け落ちており、私は強い違和感を覚えている。ぜひ速やかに国会を開いて与野党ともに早急かつ慎重に熟議することを望んでやまない。
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医師
医学博士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。1968年、カナダ生まれ。2004年まで外科医として大学病院等に勤務後、大学組織を離れ、総合診療、在宅医療に従事。診療のかたわら、医療者ならではの視点で、時事・政治問題などについて論考を発信している。著書に『医者とラーメン屋「本当に満足できる病院」の新常識』(文芸社)、『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)がある。
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(医師 木村 知)
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