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「始まりは15歳の時だった」米体操五輪メダリストがチームドクターから繰り返し受けた性的虐待の手口

プレジデントオンライン / 2022年8月31日 12時15分

米国体操連盟の元チーム医師、ラリー・ナサール受刑者=2017年6月23日、ミシガン州 - 写真=AFP/時事通信フォト

アメリカの体操界で、1人の医師が「治療」と称して複数の選手に性的虐待を繰り返していたことが明らかになった。被害者は250人以上にのぼり、医師は終身刑が確定している。被害者の1人である体操五輪銅メダリストのターシャ・シュウィカートさんは「筋肉を緩めるための医療行為だと言って、膣に指を入れられた。当時はそれが性虐待だとは夢にも思わなかった」という――。

※本稿は、アビゲイル・ペスタ『THE GIRLS』(大月書店)の序文「進もう、手をつないで」を抜粋、再編集したものです。

■性虐待を告発されたのは“信頼できる友だち”だった

初めて聞いたときは信じられなかった。ラリー・ナサールが、あの有名なオリンピック・ドクターが、年端もいかない女の子たちに、自分の上位の力関係を悪用して、下位の者を性的に侵害する行為である性虐待を働いていたとして告発された。なんのこと? と二人とも思った。ラリーが? まさか。

とってもいい人だった。話を聞いてくれる、やさしくしてくれる、こっそりグラノーラ・バーやらのおやつを手にすべりこませてくれる人。体操の世界の、あの人を人とも思わないような指導と訓練のさなかで、ラリーは私たちにとって信頼できる友だちだった。

私たちは、ラリーが自分たちにも性虐待していたということが、すぐにはピンとこなかった。のみこむまでに時間がかかった。大人になってから、子どものころに虐待に遭っていたとわかるのは、変な気持ちだった。ましてそれが、自分のことを一番に考えてくれるはずの、いつも診てくれていた医者だったのだ。そんなことが自分たちに起きたと言われても、理解できなかった。

体操をやっていて、私たちはずっと、強くなれ、と教えられてきた。精神的にも肉体的にも強くて、自分が誰かのいいようにされるなんてありえない、と自信を持っていた。アスリートの中でも体操選手は最高に強靭(きょうじん)だった。

■コーチと医師は選手たちの世界そのものだった

最初とても信じられなかったのは、私たち姉妹だけではない。子どものころにナサールから性虐待を受けていた女性の多くが、自分がそうされていたことがどうしても信じられなかった。

こう言うと驚かれることが多い。世の人は、私たちがみんな、虐待されていることをわかっていながら黙っていたのだと思うようだ。でもほとんどの子どもは知らなかった。相手はオリンピック・ドクターだ。そして、医者としての治療をしているんだ、と私たちに言っていた。私たちはそれを信じた。

私たち姉妹は、コーチや医師を信頼して大きくなった。コーチと医師というのは、私たちの世界そのものだったのだ。

よちよち歩きのころに体操を始めて、母と一緒に地元ラスベガスのマミー・アンド・ミー教室に入った。母からは、サッカーとかティーボールとかテニスとか、いろんなスポーツをやってみるのよ、といつも言われていた。母自身もかつては本格的にスポーツをやっていて、ウィンブルドンまで進んだテニスプレイヤーだった。でも私たちは体操が大好きだった。母に連れられてテニスに行ったときも、結局、側転や後方宙返りばっかりやってコート中を跳ね回っていた。体育館に行きたくてたまらなかった。とにかく体操がしたかったのだ。

■「怪我をした人間は役立たず」練習環境は苛烈だった

私たちは歳の近い姉妹で1年9カ月しかちがわない。一緒に体操をやりながら大きくなった。両親は私たちに夢を追わせてくれた。二人ともカジノのシーザーズ・パレスのダイスディーラーで、母は私たちを体育館まで送ると、そこでひと眠りしてから出勤していた。

10代の前半で、二人ともエリートレベルにのぼりつめた。一緒に全米チームに進むと、トレーニングが心を病むほど苛烈になっていった。全米チームの公式トレーニングセンター、テキサスのカーロイ・ランチでトレーニングする時間が多くなった。私たちはそこに行くのが怖くてたまらなかった。

コーチの指導は徹頭徹尾否定的で、暴言と心を傷つけられることばかりだった。絶えず脅されているようで、恐ろしい、力と支配がすべての環境だった。体育館に足を踏み入れた瞬間からみんなロボットになる。疲れてもうやれない、とはとても言えなかった。人間であることが許されなかったのだ。感情のスイッチもオフにした。怪我をしようものなら、役立たずのようにコーチから扱われる。だからみんな怪我を隠して練習した。薬を飲んで痛みをやりすごしながら。

■唯一人間に戻れる「安心できる」場所だった

疲れ果てた女の子たちが、スキルの練習をしながら頭から床に突っこみそうになるのを、私たちは見た。それでもそのスキルを何度も何度もくり返せと言われるのだ。あれは危険だった。疲労の限界を超えてまでやらせるのは。誰もものを言うことができなかった。口に出すということは、コーチを怒らせて評価が下がることだった。本当に、信じられないような環境だった。アリー・レイズマンがいつか、石鹸をくださいって言うのも怖かったと言っていた。

親はカーロイ・ランチに入ることが許されなかった。でもラリー・ナサールがいてくれた。ランチでトレーニングキャンプがあると、いつもそばに待機してくれて最高の友だちになった。みんな、ラリーのところへ行って人間に戻ることができた。ラリーのいたトレーニングルームは、安心できる場所だった。ドアを閉めて、困っていることやらを打ち明けた。話しても告げ口されたりする心配はなかったから。そうやってラリーは私たちをとりこんだのだ。

■「筋肉を緩めるための医療行為」始まりは15歳だった

私、ターシャは、あの性暴行が始まったとき15歳だった。カーロイ・ランチでのある出来事のあとだった。私たちはみんな、開脚トレーニングの「オーバースプリッツ」をやらされていた。身体を普通のスプリッツ(開脚前屈)をより深く押し下げて、片脚、ときには両脚を上げる。コーチのベラ・カーロイにものすごい力で上から押されて、私はやっとのことで涙をこらえていた。その直前に、ベラがジェイミー・デントシャーを怒鳴りつけて「赤ん坊」呼ばわりするのを見ていたから、あんなふうに怒鳴られたくなかった。

次の日、股の付け根が痛んでのろのろ歩いていた私は、ラリーのところへ行かされた。ラリーは私をマッサージして、素手のまま膣に指を入れた。筋肉を緩めるための医療行為だよ、と言いながら。

尊敬されているお医者さんだったし、もう何年も前から自分のことを知ってくれている相手だったから、私はそれを信じた。もう一つ、体操をやっていると極端に世間知らずになってしまうことも忘れてはならない。性虐待というもの自体を私は知らなかった。生活のほとんどの時間を体育館で練習に費やすと、デートも友だちづきあいの時間もない。男の子とのセックスの経験もなかった。みんなそうだった。

女子体操選手
写真=iStock.com/sportpoint
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sportpoint

■5日間の宿泊「治療」の申し出に感謝していた

17歳のとき、アキレス腱(けん)を痛めて、ほとんど歩けないほどひどくなった。ラリーは私の母に、あまり忙しくないときが1週間ほどあるから、と言った。そしてあのびっくりするような申し出をしてくれた。ミシガン州ランシングの自宅で、その1週間私の治療をしてあげようというのだ。

ラリーは私に、ランシングまでの飛行機のチケットを買ってくれるかどうか、お母さんに訊いてみて、あとはうちで家族と過ごせばいいから、と言った。本当になんとか回復したくて焦っていた私は、それをわかって配慮してくれたにちがいないこの申し出に感謝した。この偉いドクターが、これだけの時間を私のために割いてくれる。なんてすばらしい、自分もトップアスリートの仲間入りだ、レブロン・ジェームズ並みの扱いだわ、と思った。そして私は出かけて行って、ラリーとその妻、子どもたちと一緒に5日間過ごした。みんなで家族のように迎えてくれた。家族、信頼しているおじさんを訪ねたようだった。

ラリーは、毎日私を診てくれた。マッサージ台と医療品の棚が並んだ自宅の地下室のこともあれば、ラリーの職場の一つだったミシガン州立大学のトレーニングルームのこともあった。MRI、鍼、電気の神経刺激、超音波とひととおりやって、決まってマッサージをした。まずアキレス腱から始めて、じわじわと脚の上のほうに進んで、最後には指を挿入する。「みんなつながってるからね」とラリーは言った。身体のある場所に圧力をかけると、別のところが良くなるということだった。この性虐待の「治療」を、ラリーは毎日、朝、昼、晩3回やった。

■思い返せば不審に思っている女の子はいたけれど…

ふり返ってみると、ときどき女の子たちが「ラリーのすること、なんだか気持ち悪くない?」と話す声を耳にしたことはあった。でも私たちは二人とも相手にしなかった。「そんなことないよ。ちょっとオタクっぽいラリーなだけでしょ」と言い返した。

ずっと、どうして? と訊くな、騒ぎ立てるな、と教えこまれてきたのだ。アメリカ体操連盟の偉い人たちからは、にこにこ笑って、なんでも楽々こなして、魅力的に見えるようにしろ、と言われていた。マスコミと話をする練習をさせられたときは、「エリート体操選手になれてどんなにすばらしいか」を話すように言われた。何もかもを虹と蝶々みたいに演出するのが、私たちに求められたことだった。完璧で従順なアスリートを期待されていたのだ。

もうこれは仕事だった。だからへまをやったら途端に、お前の代わりはいくらでもいるんだからな、というあからさまな態度をとられる。何かにつけてそれをやられるのだ。アメリカ体操連盟が2000年のオリンピックチームに選んでくれたとき、私は感謝した。その年たった6人選ばれたうちの一人だったのだ。もちろん私はそれはがんばったのだけれど、連盟にものすごく借りがある気がしてもいた。オリンピックに出てメダルを一つ獲って、これもアメリカ体操連盟のおかげだと思った。

■告発がニュースになったとき1本の電話がかかってきた

10年以上経って、虐待の告発がニュースになったあと、スティーブ・ペニーから電話をもらった。当時のアメリカ体操連盟会長だ。私はロースクールを終えたばかりで、数日後にせまっている司法試験の勉強で忙しく、そのことで頭がいっぱいだった。初めての子育てもあったし、それからまもなく二人目を身ごもる。夫はプロバスケットボール選手で、チームと一緒に試合で海外に出ていたから、私は一人で何もかもやっていた。虐待の告発のことを考えてみる時間なんかとてもなくて、自分が被害に遭ったかどうか気にしている暇もなかった。試験のことに集中して気を散らさないように注意していた。そんなときにスティーブ・ペニーが、被害に遭ったか、と訊いてきたのだ。

不意打ちも同然だった。どうしたものかと考えてみる前に、気がついたら、ノー、と答えていた。するとペニーは、ラリーとアメリカ体操連盟を支持するステートメントの両方にサインしてくれ、と言ってきた。スティーブは私がまだ連盟に恩義を感じていると知っていた。だから私をねらってきたのだ。断りきれなくて、連盟を支持するステートメントのほうはサインする、と私は言った。ラリーのほうは断った。アメリカ体操連盟は、私がサインしたステートメントをTwitterで大々的に流した。そのツイートには世界選手権のときの私の写真が添えられていた。

■「こんなことが自分に起きていたのか」

その後、司法試験に合格してある法律事務所で仕事を始め、二人目の子どもも生まれて、ようやくクローゼットに押しこめていた過去の残骸とじっくり向き合う時間ができた。端から端まで記憶をたどって、こまごましたことをパズルのように結びつけてみた。ラリーに巧みに操られていたことがはっきり見えてきたのは、そのときだった。

こんなことが自分に起きていたのだとわかると、悔しくてたまらなかった。よくもここまでいいようにされていたものだと思うと、やりきれなくて気持ちの整理がつかなかった。強い、並みのことでは動じない、アフリカ系アメリカ人の私が。そのことで自分を激しく責めた。どうしてわからなかったのか、なんてばかだったんだろう、と考えてばかりいた。これでずいぶんとセラピストのお世話にもなった。

最初のころは、悪いのは、オリンピック・ドクターの地位を利用して子どもたちにつけ入ったラリーであって、自分ではない、とわからなかったのだ。危ないことがないように子どもの自分を護ってくれると信頼していた大人に、ラリーに限らず、アメリカ体操連盟の関係者たちにも、こんなにも裏切られていたのだ。私を護ってくれる立場にいたはずの人間たちなのに。

競技の準備をする女子体操選手
写真=iStock.com/cmannphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/cmannphoto

■トップ体操選手の私の存在が利用されていた

私は、私たちが年端もいかない女の子だったときに、まんまと私たちと仲良くなり、信頼させたラリーの手口のあれこれを思った。ラリーはよく、好きな男の子はどうのとか、プライベートな生活のことを訊いてきた。私たちはみんな、男子チームのメンバーに恋するようなこともほとんどなかった。男の子のポップシンガーバンドも同じだった。みんなラリーのことを女の子仲間の一人のように思っていた。子どもだったからわからなかったのだ。大人の男がこんな会話に興味を持って女の子の集まりに入りこんでくることが、どれほど不適切なことなのか。

ほかにも、あのときもいいように操られたんだな、と思い当たる折々の記憶が戻ってきた。ある全米大会予選で、ラリーの「治療」が終わってトレーニングルームを出ようとしていたとき、別の体操選手が入ってきた。ラリーはその選手に、私もこの「治療」を受けたところだけど良くなったんだよ、と言った。当時私はアメリカでトップの体操選手の一人だった。女の子は、わあすごい、という顔で私を見た。いまならわかる。その子に自分を信頼させるために私を利用したのだ。そう思うと、心底気分が悪かった。

■妹ジョーダンの被害は“背中の痛み”が始まりだった

私、ジョーダンは、10代前半でカーロイ・ランチのトレーニングが始まったときに、あの性暴行が始まった。容赦ない着地のくり返しや反復のストレスで、とうとう背中をひどく痛めたときだ。世界的に有名な医師のラリーなんだから、医者として最高の技術を知っているはずだ、と私は思っていた。あの身体に指を入れるやり方は、私が負った特定の怪我を治療する方法なんだろうと思った。だからみんなに同じことをしてるなんて、夢にも思わなかったのだ。

ターシャにも同じ「治療」をしているのも、まったく気づかなかった。二人のあいだで話題にしたこともない。性虐待というものにも無知だった。それはもっと暴力的な、強姦(ごうかん)魔に押し倒されるようなことであって、いつも診てもらっている医師が、良くなるように治療してくれるふりをしながらできるようなことだとは思っていなかった。

いまなら、性虐待は、身近にいる人間にねらわれることが多いとわかる。でもあのころの私は、怪我をしても、お腹が空いていても口に出すことができない異常な世界に生きている子どもだった。早い時期から、痛い、と口に出すようなへまはしない、と私は学んでいた。一度それをやって、ランチの裏にある体育館に追いやられて一日中閉じこめられたことがある。あれは最悪だった。「優秀者リスト」から外れるくらい怖いことはなかったから。

■「同じ被害を受けていた」誰も口にしなかった真実

何年も経って、虐待の告発のことを最初に聞いたときは、わけがわからなかった。ラリーが誰かを傷つけるなんて想像できなかったから。

当時私は結婚を控えて式の準備に忙しかった。ニュースで詳しいことを読んで、知り合いの体操選手と個人的に連絡をとりあって、みんなほとんど同じ目に遭っていることがだんだんわかってきた。そして、ああそういうことだったのか、とはっきり理解した。ラリーの手が私の膣の中を動いていたのは、医者の治療とは関係のない目的のためだった。耐えがたい嫌悪感だった。

最初は、正直に言うと、蓋をして無視したかった。でもスキャンダルの報道は加熱する一方だったから、私はターシャのところに行って、「ねえ、ラリーは私にもいやな触わり方をしたんだけど」と言ってみた。おたがい、相手も同じことをされていたと聞いて愕然とした。つらい会話になった。

いま体操のコーチをしている私は、これを機会に、こんな虐待が30年も続くことを許した体操界の風潮を変える力になりたいと思う。先日コーチしている女の子たちと座ってゆっくり話した。「なんとなくいやな感じがしたり、不安に思うことがあったら、口に出してそう言うのよ」と。どんなことでも話したいことがあったら、私のところに来たらいいし、そして、自分には声を上げる力があるんだ、ということを女の子たちに知っておいてほしい。言いたいことを大人に伝えることが子どもにとってどれほど難しく、あるいはそうする自信が持てないことが多いかということを、私も知っている。子どもたちが安心できる、励まされて前向きになれる環境をつくって、注意深く見守りたい。

■告発者たちの願い

ナサールの悪夢には、まだまだ世の人には理解されないことが残っている。

アビゲイル・ペスタ『THE GIRLS』(大月書店)
アビゲイル・ペスタ『THE GIRLS』(大月書店)

こんな性虐待を続けてどうして何十年もこの医者は捕まらなかったのか。どうやってこんな巧妙で獰猛(どうもう)な性犯罪者になったのか。親はどうして気づかなかったのか。なぜ、あんなに大勢の子どもたちが黙っていたのか。虐待されていることをわかっていて誰かに話した子どもたちは少なくなかったのに、なぜ対応するべき関係者が無視したのか。この男を止められた機会は何度もあったではないか。こうした若いアスリートや親たちに対する保護はどうなっていたのか。女の子たちを見捨ててこの怪物をのさばらせたのは誰か、どこの組織なのか。

アビゲイル・ぺスタがまとめた証言集『THE GIRLS』は、そんな、人々がくり返し口にする疑問に答えてくれる。登場する人たち、多くはこのミシガン州にある人間関係の濃い地域でラリー・ナサールとともに育ってきた人たちの、普通ならとても口に出せないようなプライバシーにかかわる体験談や当事者ならではの鋭い視線があればこそ、この事件の全容が明らかにできる。そしてかならず、こんな悪い夢としか思えないようなことを二度と起こさないための力になるだろう。

それが、ここで体験を明らかにしたみんなの願いだ。

――アビゲイル・ペスタの取材に応えて

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ターシャ・シュウィカート オリンピック銅メダリスト、弁護士
1984年生まれ。現在、ダラスの法律事務所でアソシエイト弁護士として勤務。また、ナサールの性虐待被害者数百人とアメリカ体操連盟、米国オリンピック、パラリンピック委員会とのあいだで交わされた2021年12月の和解条項にもとづき、アメリカ体操連盟の理事を務める。2000年オリンピックで銅メダル、全米大会優勝歴2回。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)体操チームでも数々のタイトルを獲得。

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ジョーダン・シュウィカート 体操コーチ
1986年生まれ。現在、体操コーチ。2001年から2002年にかけて米国代表チームで、のちにはUCLAチームで競技。UCLAでは卒業の2008年にGymnast of the Yearとなる。

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(オリンピック銅メダリスト、弁護士 ターシャ・シュウィカート、体操コーチ ジョーダン・シュウィカート)

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