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だれかのために働いている人は、それだけで尊い…「報われない仕事」をする人にブッダがかけた言葉

プレジデントオンライン / 2022年9月8日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Delmaine Donson

私たちはなぜ働くのだろうか。浄土真宗の僧侶でマンガ家の光澤裕顕さんは「悟りを開いたブッダは、人々へ教えを広めることに消極的だった。だが、あるときに『自身の悟りを目指し励む日々』から『人々に教えを説く旅』へと生き方を変えた。同様に、私たちは自分のためだけに働いているわけではない」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■ウサギが示した利他の精神

出典=『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』より
出典=『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』より
出典=『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』より
出典=『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』より

■人生において存分に働ける時間は少ない

今回のテーマは「新しく挑戦をするとき」です。

挑戦にはいつだって大きな覚悟と一歩踏み出す勇気が求められます。時として挑戦する者は嘲笑されてしまうことすらあります。しかし、われわれは挑戦することをやめない、いや、挑戦せずにはいられないのです。

あるいは私たちの有限性がそうさせているのかもしれません。私たちは必ず命を終えて去っていく存在です。つまり私が私として生きる時間には限りがあるということです。これをもっと細かい範囲で考えれば、人生において存分に働ける時間はさらに限られていることになります。

この限られたステージでは人生の目標を達成する・資産を蓄える・社会に貢献する等々……求めることが非常に多く、時間の重みはより一層増すでしょう。

■「今のままの時間の使い方でいいのか」

私の友人が転職で悩んでいたとき、次のようなことを口にしていました。

「今のお仕事、お給料はいいし悪くはないと思っている。けれども、自分のやりたいことではないし……。やっぱり、やりたいことをやりたいなって、最近考えているの」

仕事の目的が、お金を得ることだけであれば、現状のままで不満はなかったはずです。しかし、実際は収入を得るだけではなく、何に時間を費やすのか。そして、その時間でいかに「こころ」を喜びで満たすのかを真剣に悩み、新しい挑戦を望んでいるようでした。

社会人として日常生活の半分以上の時間を仕事に割り当てている私たちにとって、仕事は時間の使い方に直結する問題であり、人生においても多くのウエイトを占めています。

それゆえ、何か挑戦が頭をよぎるときは、「今のままの時間の使い方ではいけないのではないか」という疑問が生じているのではないでしょうか。

■悟りを開いたブッダの「新しい挑戦」

「新しい挑戦」をする、では、そのとき私たちは誰のために何のために時間を使おうと考えているのでしょう。

自分の未来のため……
大切な家族のため……

人それぞれ答えがあると思いますが、ここはしっかりと考えるため、ブッダのエピソードを一つご紹介します。

悟りを開いたブッダはその余韻を楽しみ、世間から離れ一人で静かに坐っておられました。そのとき、ブッダには次のような念が生じていました。

「私が得た悟りの法は、理解しがたい。執着を好み、執着に歓びを感じている人々へこの法を説いたとて、理解されず、ただ私が疲弊してしまうだけではないか」

このように考えられたブッダは人々へ教えを広めることに消極的でした。そのブッダの心の内を知った、世界の主たる梵天は大変焦ります。

「何てことだ! ブッダは法を説くことに無関心のようだ。ああ! このままだと真理の教えは人々に広まることなく、やがて世界は滅んでしまうだろう」

梵天はたちまち天界から飛び立ち、ブッダの前に姿を現しました。

「ブッダよ。どうか法を説いてくれないか。世間には、あなたの教えに耳を傾け、励む者もおりましょう。けれども、あなたが法を説かなければ、その人々も滅んでしまうでしょう」

梵天の必死な願いを知ったブッダは世界を見渡しました。そして、ブッダの教えを求めている人々がいることを目の当たりにすると、心は慈悲で溢れ、法を説くことを決心しました。

自然の大仏
写真=iStock.com/millionhope
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/millionhope

その後については、みなさまもご承知のとおり。ブッダが目覚めた教えは時間や国境を越えて、今日の私たちにまで届いているのです。これは仏教にとっても非常に大きな転機となりました。もし、ブッダが何も語らずにおられたら、今日の「仏教」は存在しなかったでしょう。

■いったい誰のために頑張っているのか

ブッダ自身にとっては、理解されないかもしれないことを人々に教えるのは対価性の高い行動ではなかったかもしれません。しかし、梵天から説得され、「自身の悟りを目指し励む日々」から「人々に教えを説く旅」への生き方の転換は、まさに新たな挑戦を覚悟した瞬間だったのです。

自分自身のために頑張ることは、挑戦するモチベーションになりますし、最も純粋な動機です。しかし、私たちは自分のためだけに頑張っているのでしょうか。

ブッダと同列に考えることはできないかもしれませんが、私たちも幸せや喜びを感じたとき、その気持ちをみんなと分かち合いたいという想いが自ずと芽生えると思います。梵天は、小さくても私たちに眠っているそんな心に希望を持っていた、だからこそブッダを説得し、ブッダもまたそれに応じたのです。

■「新しい挑戦」は自分の得たものを分け与えるとき

私たちが、「自分のために働いている」時間は、修行の段階で例えるならば、自分自身が教えを得ようと必死に励んでいるときでしょう。将来の飛躍を考えるのであれば、自己修練は不可欠であり、必ず必要な時間です。

しかし、「新しい挑戦」を考えているのであれば、次の「自分の得たものを分け与える」段階に近づいているタイミングなのかもしれません。

私たちが日常で手にするあらゆる物やサービスは他者の仕事の成果物であり、あなたが日々打ち込んでいる仕事も、なんらかの形で他者に届けられます。それらは直接ではないにせよ、人の時間を受け取り、自分自身もまた時間を提供しています。

目の前の仕事があまりに大変だと、どうしても視野が狭まってしまいますが、働くことで私たちはお互いに他者との時間を分け合いつながりを作りつづけているのです。

■他者を利することは自分自身の利を高めることになる

そこで、「新しく挑戦する」ときだからこそ、考えたいのが「利他」の道です。ここでいう「利他」は自己犠牲とは少し異なります。もし、自己犠牲にだけ重きをおいていたのであれば、「月とウサギ」の物語は、我が身を捧げて他者の空腹を満たしたお話になっていたでしょう。

仏教(特に大乗仏教)では「利他」を「自利」とセットで考えることがあります。他を利することにより自分自身もまた利を高めていくこと。他者に対しての慈しみの心による行動が、自らの心を育むことになるという「自利利他円満」の精神です。

■「自分の時間」への執着心が強い現代人

物語でウサギが炎に身を投げ、捧げたものは、「己の肉体」と、もう一つはこれから先にあった「自分の時間」です。ウサギの肉体は一人の人間の空腹を満たすことができますが、時間が経てばまたお腹が空いて同じ苦痛にさいなまれます。

しかし、「自分の時間」を布施したウサギは月にその姿を宿し多くの人々に伝わる「教え」に昇華し、限られた時間から解き放たれました。その尊い精神は多くの人々を救うことになったのです。

「自分の時間」をすすんで分け与えること、これはおそらく現代人にとって最も難しいことだと思います。

私は冒頭で「新しい挑戦は自分の時間を考えることだ」と述べました。移動時間や通信速度など日常生活の速度がぐんぐんと加速している社会だからでしょうか、「時間の無駄」に対して、特に現代人は敏感です。

私たちは今、自分自身のとりわけ「自分の時間」にとても執着していると感じます。そして、この執着心がせっかくの挑戦の意義を妨げてしまうのではないかと思うのです。

腕時計を見ているビジネスマン
写真=iStock.com/alvarez
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/alvarez

■悠久の時の中でわれわれは生を受けた

私が所属している宗派ではお説教の前に『三帰依文』という偈文を読み上げます。その冒頭に次のような一節があります。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
(東本願寺出版『真宗聖典』巻頭)
【筆者意訳】

人として生を受ける縁は得がたい。しかし、今まさに人として生を受けている。仏教に出あう縁は得がたい。しかし、今まさに仏法を聞く縁に出あっている。

注目すべくは人身(人としての生)を「受ける」という表現です。人としての生は私たちが獲得したものではなく、受けたものであると。一人の人間が生まれるまでには、たくさんの縁が連なっており、一人の人間の一生が80年だとしても、その時間が生まれるまでには悠久の時が必要であったということ。そしてその連鎖はこれからも続いていきます。

「自分の時間」という限定的な考え方はこの大きな流れから自らを分断してしまう、私たちに流れる過去未来の時間軸を「今だけ」に狭めてしまいます。お互いがお互いの時間を布施し合ってこそ、一人ひとりが大きな時間を取り戻すことができます。

これは、本当はそんなに難しいことではないのかもしれません。なぜなら大乗仏教では、私たちには他者の苦しみを和らげたいと願う心「仏性」が備わっていると考えるからです。

シビアに考えすぎると「自分はそんな器ではない」と立ち止まってしまいそうですが、完璧である必要はないのです。「困っている人に思わず声をかけた」「お客さまの笑顔のために仕事を頑張る」とか……その萌芽を見逃さないこと。まずは一人ひとりに備わっている仏性に目覚めていくのが大切なのです。

やがて、あなた自身が深く考えて「自分のため」を超えて進むのであれば、きっとその挑戦は、どんなに環境が変わってもあなたに果報をもたらしてくれるでしょう。

■ブッダの言葉「どこへ行こうとも尊ばれる人」の特徴

ブッダもこう述べています。

信仰あり、徳行そなわり、ものを執着しないで与え、物惜しみしない人は、どこへ行こうとも、そこで尊ばれる。(中村元訳『ブッダの感興のことば』第10章8)

光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)
光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)

働くことで他者とつながり、互いに「こころ」を利すること。それは長い時間の中で、燦然と輝く月のようにいつまでも色褪せません。私たちは「働く」生き方に縁があったからこそ、働いているのであり、そこにだって社会人ならではの道があり、喜びがあるのです。

仏教の実践と聞くと、例えば坐禅を組んだり、滝に打たれたりなど「いかにも」なイメージが先行しがちですが、私たちの日常もまた十分な修行の場になり得ます。いや、働く者にとっては、社会こそが実践の場です。

働くことが私たちにとっての「利他」となる、新しい挑戦がその転機であってほしいと願うばかりです。

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光澤 裕顕(みつざわ・ひろあき)
浄土真宗(真宗大谷派)僧侶
新潟県長岡市生まれ。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道修行に励むかたわら、フリーのマンガ家・イラストレーターとしても活動中。

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(浄土真宗(真宗大谷派)僧侶 光澤 裕顕)

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