妊婦が死にそうになるまで手術はできない…アメリカの日本人医師が指摘する「妊娠中絶の厳罰化」の深刻さ
プレジデントオンライン / 2022年9月7日 15時15分
■中絶の権利を認めない…アメリカの医療現場で広がる混乱
2022年6月24日、アメリカ最高裁は妊娠中絶の権利を保障したいわゆる「ロー対ウェイド判決」を覆した。憲法上認められた中絶の権利は、各州の判断に委ねられた。
筆者は中絶容認派が多数を占めるマサチューセッツ州ボストンに住んでいる。同年5月にリーク報道があり、予想されていた事態とはいえ、このニュースを受け多数の市民が動揺していた。ボストン市長、州選出の上院議員、州司法長官などは緊急記者会見を開き、全米各地でも多くの抗議行動が行われた。
![エリザベス・ウォーレン上院議員](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/a/1200wm/img_aa7456447ded8e8806e18710c1adaa95407440.jpg)
リベラルなワシントンDCと20の州では引き続き中絶が合法となった。筆者の住むマサチューセッツ州では州知事が、同州の役所が他州の中絶捜査への協力を禁ずる知事令を発するなどした。
筆者の勤務するマサチューセッツ総合病院とハーバード大学医学部は、混乱を避けるために、同病院での中絶処置は今まで通り行われる旨の通達を出した。
![マサチューセッツ総合病院が病院関係者に送った文書](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/c/1200wm/img_ac6d824130f52dcd70df91c364ecc253395546.jpg)
![ハーバード大学医学部が病院関係者に送った文書](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/6/1200wm/img_f60a6d83b77d09d3a6636897fbd6fff4400746.jpg)
しかし、中絶規制に乗り出した保守的な州ではすでに混乱が起きている。
アメリカのシンクタンク・ガットマッハー研究所によると、7月24日現在、ミシシッピ州やテキサス州など保守的な11州で即時、または早期に中絶が違法になり、43の中絶クリニックでサービスの提供が中止された。合計26州で中絶規制が実施されると予想されている。
アメリカの妊娠中絶の問題は、政治的・宗教的な立場が優先され、医学的な議論が不十分なまま規制が実施されてきた経緯がある。本稿では、この問題がアメリカの患者や医師にどのような影響を与えているのか紹介したい。
■同僚や友人であっても気軽に話せない
なぜアメリカでは中絶・避妊問題が国を二分するほどの政策テーマになっているのか。
アメリカでは、相手の宗教的背景が相当はっきりとしていないと中絶や避妊の話題は気軽にできない。リベラルな人々が多いマサチューセッツ州といえども同じだ。私は在米20年の産婦人科医だが、同僚や友人との会話で中絶・避妊問題についての話題を自分から切り出したことはただの1度もない。それほど宗教的に敏感なテーマなのだ。
聖書では、生命の授受は神の手に属しているとされる。敬虔(けいけん)なキリスト教徒からなる保守的な「プロライフ」派の人々は、人生は受精や心臓の拍動など早期から始まるとし、まだ生まれぬ胎内の生命を中絶することは殺人と同じであり、中絶断固反対という立場をとる。敬虔なキリスト教徒は、絶対に譲れない点であるため、うかつに触れることはできない話題である。
これに対して、リベラルな「プロチョイス」派の人々は社会的、医学的根拠から中絶容認の立場をとる。
アメリカでは、キリスト教福音派などのプロライフ派団体が盤石な共和党支持層と資金源となるとの認識から、レーガン大統領当選の1980年代以降、共和党の「プロライフ」化が顕著になっており、中絶規制が大きな政治的焦点となっていた経緯がある。
![2022年5月にボストンコモンで開催された抗議集会](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/6/1200wm/img_662a60777818253253a564a2a07160db389537.jpg)
![社会的な不安を感じているためか、抗議活動の参加者の年齢層は幅広い](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/e/1200wm/img_6e67a035395d7331221d7add9777a3e2407526.jpg)
■最悪の場合は終身刑…中絶を助けただけでも厳罰になる
筆者は、医学的な議論が不十分なまま妊娠中絶の規制が進むことを懸念している。その理由は、中絶厳罰化の中では「適切な医療」を提供できない恐れがあるからだ。
1973年の「ロー対ウェイド」判決以前、1900年ごろまでに成立した中絶規制法では、違法に問われてもせいぜい5~10年程度の収監で済む場合がほとんどであった。
一方、近年の規制では中絶をした女性でなく、中絶を助けた者に厳罰が適用される。各州によって重さは異なるが、医療機関の閉鎖、医療従事者の免許停止だけでなく、99年間の収監や終身刑などの極端な厳罰化が特徴だ。
例えば、テキサスで2021年9月に発効した州法SB8は、胎児心拍が確認される妊娠6週目以降の中絶が禁止と定める。最悪の場合終身刑だ。近親相姦やレイプによる妊娠も例外とせず、中絶は「母体の生命の危険が迫る場合のみ」に限られる厳しい内容である。
アメリカでは、中絶した女性ではなく、中絶を助けた者に厳罰が下される。そのため医療従事者のほか、例えば、中絶に向かう妊婦と知りながら乗せたタクシードライバーも罪に問われてしまう。
厳罰化は世界的な潮流であり、敬虔なカトリック教徒の多い中南米の国でも見られる。レイプ犯が「10年未満の収監」に対し、中絶への刑罰は数十年とするところが多く、理不尽なほど厳罰化する傾向がある。
■「生命の危険」がなければ中絶はできない
規制が先行する事態に、医学界は声を上げている。アメリカ産婦人科学会、アメリカ医師会などが「このような中絶規制下では、現場の医療従事者が患者にベストな医療を提供できない」と非難の声明を出している。
特に問題なのが、中絶禁止の例外条項が死文化している点だ。中絶を規制する法令の中には、「母体の生命を脅かす場合には中絶を認める」という条項がある。しかし、詳細な議論に先行して規制が敷かれたことで、その条項が具体的にどのような場合を指すのか曖昧なままである。
2021年9月、中絶規制が成立したテキサス州である妊婦が注目を集めた。妊婦は18週で前期破水し、流産は避けられない状態であった。母体には高熱などの非常に危険な感染の兆候があるにもかかわらず、胎児の心臓が停止するまで待機させられた。
テキサス大学のアレイ医師は医学専門誌への寄稿で、同じような前期破水の状態で急変リスクを抱えながら、中絶処置のために他州へ飛行機などで移動した妊婦も複数いたと指摘。担当医に「飛行機の中で死産に至った時にどうするか」の指導を受けて移動したという。
妊婦の敗血症は進行が早いため手遅れになるケースも多い。よって待機的な医療は適切でない。2012年にもアイルランドで同様の事例があった。妊婦は17週の前期破水で、敗血症のサインが見落とされ死亡した。
同国はローマ・カトリックの国だ。当時の法律では胎児に心拍がある場合に中絶は禁止されていた。違法な中絶は終身刑となり得るため、医療従事者は慎重にならざるを得なかったことが原因といわれている。
規制により、アメリカでも同様な悲劇が繰り返されてしまったわけである。
■流産への処置を恐れる医師
刑事罰を恐れる医療従事者は慎重にならざるを得ず、「適切な医療」を妨げている。これは流産への処置でも見られる。
胎児が死亡するなどで自然に流産する可能性は15%以上ともいわれ、その頻度は低くない。しかし、出血がはじまり、子宮内容が外に出てきている進行流産の状態で受診した場合、妊婦が何らかの方法で中絶を試みたのか、自然流産した胎児の排出過程にあるのか、受診のタイミングによっては不明なこともある。
子宮内容が排出しきれず出血が続く「不全流産」という状態では、痛みが継続するほか、感染や大量出血などの危険がある。よって治療目的で子宮内容除去術などの治療が考慮される。
しかし、子宮内容除去術の手術は中絶処置と同じであるため、医療従事者はこれを妊婦に施行すると人工中絶を疑われる恐れがある。
医療従事者は刑事罰を科されるのを避けるため、確実に流産と言えるか、出血多量や感染など「母体の生命を脅かす状態」に当てはまるか、状況証拠が十分そろうまで待つことになる。
■胎児が死亡して2週間以上放置された事例も
実際、テキサス州では2021年9月の中絶規制成立後、胎児が亡くなっているが排出が始まっていない「稽留(けいりゅう)流産」の状態で、全く症状がないから待機しろと指示され、胎児死亡の超音波診断後2週間以上待機させられたユーチューバーが話題になった。
また、テキサス州ダラスの病院の調査で、進行流産の状態の妊婦が平均9日間余分に待機をさせられ、その結果57%が重篤な感染症・大量出血などの合併症を抱えることになったことが分かった。敗血症の症状を呈していた妊婦もいたという。
医療従事者の萎縮は上記の事例にとどまらない。ニューヨーク・タイムズ紙によると、6月24日の最高裁判決以降、保守的な一部の州で、処罰を恐れた病院や薬局が、稽留流産や進行流産の患者に薬(ミフェプリストン)の処方を断った複数の事例があった。
ミフェプリストンは、流産の際に子宮内容の排出を促す効果があり、経口中絶薬としても使われる薬だ。
処方や処置が受けられないと、全例で自然排出を待つことになる。だが、死亡した胎児を長期間そのままにしている精神的負担に加え、不全流産となり出血や痛みが続くことになる。うち20%程度の割合で薬物や手術が必要となり、対応が遅れるリスクは高く、医学的にベストな医療とは言えない。
■処方を断る薬局、手術を拒む麻酔科医や看護師
全妊娠の1~2%程度の割合で発生する子宮外妊娠への対応でも、不完全な医療が提供されている。
子宮外妊娠とは、受精した初期胚が卵管など子宮体部内膜以外の場所に着床するもの。適切な子宮環境がないため妊娠初期に流産に至り、出産の見込みはない。そればかりか治療しないと急激な大量出血により落命の危険がある。
通常は診断が下れば直ちに手術で除去するなど治療を開始するが、流産前の胎児にはまだ心拍があることになり、流産に至ってない場合は中絶ができないということになる。
アメリカ医師会は、最高裁判決以降、処罰を恐れた薬局が、抗がん剤や子宮外妊娠の薬物治療などに使われるが、中絶作用もあるメトトレキサートの処方を断ったケースがあったと報告している。
また、テキサス医師会は今回の最高裁判決後の7月、同州内の病院事務や法規担当部門が「医師に妊娠合併症の治療をしないように働きかけている」というケースを公表した。
妊婦の命に関わる子宮外妊娠が破裂するまで何もしないで待機するように干渉された1例もあった。この場合、医師は中絶規制には違反しないだろうが、医療過誤で訴えられるリスクがある。八方ふさがりの状況に危機感を募らせているという。
また産婦人科医が処置に踏み切っても、麻酔科医や看護師などが「中絶の補助」をしたと疑われるのを恐れ、協力しなかったケースも報告されている。
![医療従事者による抗議集会](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/9/1200wm/img_99911776e9ac207e0d6f44608a6dcc133929899.jpg)
■母体と胎児が危険にさらされている
前出のアレイ医師の寄稿では、生まれても致死的な18トリソミーの胎児異常が発見された後、担当医が中絶のオプションがあることさえ妊婦に知らせなかった例も紹介している。
これから類推されることとして、胎児に致死的な障害がある場合でも、医師から中絶は全く言及されず、カウンセリングでは産後のケアなどに集中することになる。また、一絨毛膜一羊膜双胎の場合、臍帯(さいたい)相互巻絡による胎児突然死のリスクを管理する目的の減胎処置も考慮されるが、これも選択肢とはなり得ない。
肺高血圧症では、妊娠初期には母体が安定していても、血液量が増え妊娠進行とともに悪化することはよく分かっている。通常、避妊や早期の中絶による管理がされているが、この場合でも初期での中絶は認められず、母体の状態が実際に悪化する妊娠後期まで待たねばならないということになるであろう。
体外受精(IVF)では、体外で複数の受精卵を作成し、選別して子宮内に戻す。この際、戻さなかった余剰な胚は廃棄されることもあり、プロライフ派としては中絶に当てはまるため、規制の対象と考えられている。
仮にこの問題がクリアされても、IVFでは治療周期を合わせるために避妊する必要があり、流産率も高いため、経過に応じた流産処置も必須となる。このため、保守州では何ができて何ができないか、明確にしないとIVFなどの生殖補助医療の施行は難しい。
このように、今のところ曖昧だが医学的にもっと議論されなければならない生殖医療現場での問題は山積している。
![エド・マーキー上院議員](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/0/1200wm/img_80d6511700d0551662e18987f93c2789398234.jpg)
![エド・マーキー上院議員(右)と並ぶ筆者](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/e/1200wm/img_0e793052df8ba58b7a76e63c2c6a1a3f408829.jpg)
■規制の次なる焦点…経口中絶薬に向けられた矛先
アメリカでは妊娠12週までの中絶は、真空吸引法が主流だ。だが、このところ妊娠初期の中絶に、経口中絶薬の使用が広がっており、規制の矛先が向けられている。
ガットマッハー研究所の調査によると、中絶件数のうち経口薬による中絶は2011年が24%、2020年には54%に増加した。掻爬(そうは)法が主流である日本では未承認であるが、英製薬会社ラインファーマが2021年12月に承認申請をおこなっている状況だ。
経口中絶薬ミフェプリストンは、1988年にフランスで認可されて以降、80カ国以上で使われており、アメリカ食品医薬品局(FDA)は2000年9月に承認した。アメリカでは現在最終月経から70日以内(妊娠10週)まで認可されている。中絶の成功率は極めて高く、安全で効果的な経口薬として利用が広がっている(※1)。
※1:抗プロゲステロン作用を発揮し妊娠の継続を阻害し、子宮頚管を拡張する。子宮収縮作用のあるミソプロストールを24~48時間後に内服し子宮内容排出を促す2剤のコンビネーションは妊娠9週までなら98%の成功率がある。合併症頻度は2%程度といわれているが、予期される程度のマイナーなものが多く安全といわれている。過去20年で370万人が使用したのに対し、きちんとしたプロトコルを守れば防げた可能性の高い26人の死亡
■経口中絶薬は利用拡大が続いていたが…
ミフェプリストンは2011年以降、FDAのリスク評価・緩和戦略(REMS)に管理され、病院やクリニックで直接処方を受けることや、妊娠週数の報告、患者の教育を徹底するなどの条件があった。しかし、2021年12月より直接処方の規制は撤廃された(※2)。
※2:2017年にアメリカ産婦人科学会などが直接処方は不必要としてFDAを提訴したことや、コロナパンデミック中の緊急措置で、リモート投薬後の自己観察で中絶が安全であった世界的な結果を受けて規制緩和が進んだ。2020年WHOではさらに、医療従事者の直接管理がない場合でも、十分な情報を得て、自己投与、自己観察することにより、経口薬による12週までの中絶が可能とし、そのためのプロトコルを発表している。
現在ではオンラインのみでの処方、または処方なしで薬局から直接入手できる。郵送での入手も可能だ。
アメリカでは、薬局による入手法をFDAで確立中であるが、今でも世界中の経口中絶薬の入手先を詳細にリストしているオンラインサイト「PLAN C」を参照し、薬局で入手することができるようになっている。
また、ヨーロッパのエイドアクセス(Aid Access)、カナダのウィメン・オン・ウェブ(Women on Web)など、外国から遠隔診療で処方を受けることも広がっている。
エイドアクセスは、オンラインでミフェプリストンとミソプロストールを郵送するが、2020年の10月1日から2021年の12月31日までにアメリカから4万5908件の処方要請を受け取っている。コストは110~150ドルで、インド国内の薬局から発送される。
これも規制州では基本的に違法であるが、検挙することは現実的には難しいため、遠隔処方による経口中絶薬の入手は今後も広がるであろう。実際、米国医師会のオンライン誌によると、テキサス州での2021年9月の規制以降、同州からのエイドアクセスへの注文は3倍になっている。
■擁護派と反対派の攻防
このように、アメリカの連邦レベルで認可されている中絶薬ではあるが、今回の最高裁判決前にもすでに、30州で規制法が存在し、医師の直接処方を条件とするところも19州あった。
これに対抗し、バイデン政権は2022年7月11日、「投薬時に性別や妊娠などによる差別を禁止した条項(1964年の公民権法第7編とその修正条項)で経口中絶薬の処方は保護されており、違反には罰則を適応する」とし、関連する大統領令にもサインをした。
ただし、中絶規制州法では中絶方法が処置か、薬かは区別されていないため、経口薬による中絶も禁止ということになる。
さらにアメリカでは、薬の認可は連邦政府の管轄であるものの、
実際、テキサス州は保健福祉省のガイドラインを不服としてバイデン政権を即座に提訴した。サウスダコタ州などでも経口中絶薬処方を対象とした規制をすると公言しており、プロライフ団体の生命の権利委員会はオンライン処方を罰するモデル法をネット発表などもしている。
経口中絶薬をめぐるプロライフ派とプロチョイス派の攻防は、すでに始まっているのだ。
■規制が先行し、医療制度が追い付いていない
こうした議論の中で見逃されがちなのが、冒頭で触れた「患者に適切な医療が届けられているか」という点だ。結論から言えば否である。
中絶薬の安全性は高いとはいえ、重大な合併症が起こる可能性は0ではない。WHOの自己管理プロトコルでも、事前に十分な情報を得た上で、必要な時に迅速に適切な医療が受けられる環境での服用を必須としている。
今後、認可の過程で、処方や効果をモニターする方法だけでなく、大量出血などの合併症が出て治療が必要になったときに、規制州にいる場合でも罰則を気にかけずに適切なケアが受けられるよう、ここでも法と医療体制両面の観点からの整備が急務である。
![Rise4AbortionRights主宰の抗議集会の様子](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/5/1200wm/img_558ea5eaf3fbf01c6fedd78b58c081ca400531.jpg)
![デモ行進](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/0/1200wm/img_0023c95a784a2723639091fbb7bda10c399827.jpg)
シンクタンク・ピュー研究所によれば、2021年現在、アメリカ人の63%がキリスト教徒である。これは2011年より12%も少なく、近年減少の一途をたどっている。
世論調査会社・ギャロップ社の2022年5月の調査では「プロチョイス」(中絶権利擁護派)を自認する人は55%と増加傾向だが、反対派の「プロライフ」は39%と年々減っている。長期的には中絶規制の動きは減速し、超長期的には両者のバランスが大きく崩れ、政治的な利用価値がなくなるだろう。その時はじめて医学的、社会的にこの問題が解決に向かう可能性はある。
■「患者にとってベストな医療」を最優先にするべきだ
しかしながら、これまで見てきたようにアメリカでは規制が先行し、特に保守州で患者にベストな医療や薬剤が提供できない状況が続いている。実際に不利益を被るのは患者であるため、当面はこの観点から現時点で可能な法整備が望まれる。
2022年のテキサス大の政策評価プロジェクトによると、規制施行後、最善の医療を施すことができない医師にも葛藤が生じており、医療従事者のバーンアウトなどにつながる危険性を指摘している。医療従事者は中絶のケアだけをしているわけではない。治療する・しない、処方する・しないの問題が患者と医療従事者の信頼関係におよび、他の医療行為に悪影響が出ないことを祈るばかりである。
アメリカのような先進国でも、政治的背景から医療に規制がかけられたことは、法的規制が医療に及ぼすインパクトを多方面から検討・考慮しなければならない例として他山の石とすべきであろう。
また、経口中絶薬の例からは、効果的で安全というエビデンスのある医療や薬剤を、変化するIT技術や社会情勢に対応しつつ、迅速に市民に提供するための法制度や医療体制を整備することも、ベストな医療を提供する上で重要と教えてくれる。
翻って日本では、未承認となっている経口中絶薬の使用をめぐり製薬会社が承認申請をおこなった段階である。アメリカでの事例を対岸の火事とせず、患者にとって「ベストな医療」を提供することを第一に議論し、患者の選択肢や医療環境を整えていくべきだろう。
医療、法曹など各分野の専門家や患者団体が横のコミュニケーションを促進することで種々の医療問題が解決され、ベストな医療がタイムリーに提供されることを願ってやまない。
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ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院助教授
ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院放射線科Assistant Professorとして基礎医学研究室を主宰。慶應義塾大学医学部卒業後、産婦人科医として勤務したのち慶應義塾大学大学院医学研究科修了(博士、医学)。2003年よりハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院にて研究員として基礎医学の研究のため渡米後、市民権を取得しアメリカ合衆国に帰化。長野県小諸市に生まれ育つ。マサチューセッツ州ボストン市在住。
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(ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院助教授 柏木 哲)
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