どこにでもある農村だったのに…シリコンバレーが「世界で最もカネの集まる場所」となった3つの要因
プレジデントオンライン / 2022年9月9日 15時15分
■成功の「種」は19世紀後半に蒔かれた
シリコンバレーは、今でこそアメリカのベンチャーキャピタルによるファンドの代名詞として、大半の企業がここに拠点を構え、「シリコンの谷」として知られているが、今から150年ほど前にはオレンジ畑や野草地、農場に囲まれた一帯にすぎなかった。
シリコンバレーの歴史は、すでにいろいろな文献に書かれている。本稿は、その物語をベンチャーキャピタルの歴史という文脈の中で解説していく。
サンフランシスコ湾の湾岸地域一帯、5つの郡にまたがるかなり広大な地域の成功の「種」は、19世紀後半に蒔かれた。
この地がベンチャー投資を発展させながら拡大できたのは、3つの重要な要素が重なっていたことが大きい。
②ハイテク業界の発展を後押しした政府の軍事支出
③この地域特有の文化的、法的、物理的な環境
である。イノベーションを促す強力なクラスターが形成され、実績が未知数の人々や技術、製品に資金を提供するベンチャーキャピタルへの需要が生み出されたのである。
■シリコンバレーに最も貢献した人物
ここではフレデリック・ターマンという人物の貢献について掘り下げてみたい。
ターマンは1922年にスタンフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学(MIT)で電気工学の博士号を取得し、3年後に母校に戻った。1941年にはスタンフォード大学の学部長を務め、1955年には大学の副学長に就任。
こうした職務を果たす中で、科学を工学につなげ、学究の世界と地元企業とを結びつけて、学問と産業の双方で優れた成果を上げる戦略を考えるようになった。ターマンは、シリコンバレーの今日の姿をつくりあげるのに最も貢献した人物と評される。
スタンフォード大学に勤めていたターマンに、学校に利益をもたらそうという動機がなかったわけではないだろう。当時は貧弱だったスタンフォード大学の財政を強化しようと、起業家たちにスタンフォードのキャンパスを訪問するよう働きかけた。
ここで重要なことは、彼が起業家たちの資金調達ニーズに、大学全体の戦略をうまく組み合わせたことなのである。1937年、ターマンは大学の理事会を説得し、大学が研究者たちに付与された特許を所有する許可を得た。
この動きは重要だった。産学連携を進めるには、物理的なスペースの提供と共有が必要だとターマンは考えていたからだ。
■地元スタンフォード大学が端緒を作った
同年に、ラッセルとシグールのヴァリアン兄弟は大学の物理実験室に招かれ、そこで後のレーダー技術の基礎となる共同研究を始めた。2人は、ナチスから逃れるためドイツから移住したユダヤ人の量子物理学者だった。
スタンフォード大学は研究スペースと実験室用備品を提供する見返りに特許収入を得たが、その中には、ヴァリアン兄弟の発明した、空中でのレーダー探知技術に使われ、強力マイクロ波を生み出す有名なクライストロン真空管の特許が含まれていた。
スタンフォード大学は、20世紀に重大な影響を及ぼすほどのイノベーションを生み出しており、その支援の結果で得たロイヤルティー収入として、およそ200万ドル(今日の価値で1800万ドル)を得た。
![カリフォルニア州のスタンフォード大学](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/2/1200wm/img_1207cc979cbbdf9773b618d9050d201e286658.jpg)
ターマンは、大学と民間産業との物理的な近さを重視する姿勢を継続し、1950年代前半には大学が所有していた未開発の土地の一部を「スタンフォード・インダストリアル・パーク」に指定。
インダストリアル・パークにはエレクトロニクス・ハイテク企業をテナントとして呼び込もうとした。1953年に最初に入居したのは、ヴァリアン・アソシエイツを創業したヴァリアン兄弟だった。間もなくこれに続いたのがヒューレット・パッカード(HP)で、ターマンは同社への最初の投資家にも名を連ねた。
最終的にはゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダック、ロッキード、ゼロックスなど、東海岸の名門企業さえもここに支社を構えるようになった(ゼロックスの場合は、パロアルト研究所(PARC)が同社の支社だった)。
■規模の小さい会社でも成功する仕組み
企業とスタンフォードの教授陣や学生との距離をさらに近づけようと、ターマンは「名誉協力プログラム」を1954年にスタートさせて、地元のエレクトロニクス企業のエンジニアたちが大学院の講義に出席することを認めた。
1961年には32社が400人を超える従業員をスタンフォードの教室に送り込むようになっていた。キャンパス外でも、スタンフォードが産業界と席をともにするというビジョンを近郊のメンロパークで実現した。
ターマンの尽力が功を奏し、スタンフォード大学の首脳陣は大学と産業界の間に強力な協同関係を築き上げた。たとえば、1964年には、ショックレー半導体研究所出身のエンジニアを説得し、集積回路研究所が新たに設立され、そこで生まれた新技術が専門カリキュラムに組み込まれるようになった。
その数年後には、「スタンフォード産業連携プログラム」が拡大されて、企業各社が、少額の費用負担で大学の研究室や研究ミーティング、学生、教授陣、特別就職イベントを利用できるようになった。さらに、こうした産学協同プログラムから生まれた新しい発明の権利を守るべく、1969年にライセンシング室を設置し、新製品の商業化をサポートした。
技術上のアイデアが揉まれてレベルが向上していくという環境が与えられると、非常に規模の小さい企業でも成功を手にすることができた。
こうした教育機関の影響によって、資本、専門知識、アイデアがシリコンバレーに集中し、経済活動の密集地帯が生まれ、スタートアップ企業を基点とする、有り余るほどのビジネス機会が生まれた。
■シリコンバレーで「ゴールドラッシュ」が起きたワケ
もともと、第二次世界大戦と朝鮮戦争中にアメリカ軍からの注文が殺到して、シリコンバレーのエレクトロニクス企業は全国的な名声を獲得し、他地域との差を一段と広げていた。
第一次世界大戦中、スタンフォード大学の資金援助を得て創立したフェデラル・テレグラフはすでにアメリカ海軍向けにポールセン・アーク長波ラジオを製作しており、これはすぐに「第一次世界大戦中におけるアメリカ海軍のお気に入り」となっていた。
マグナボックスはフェデラル・テレグラフの派生企業で、戦艦用の拡声装置とアメリカ海軍の飛行艇用に耐騒音性マイクロフォンを発明している。
1940年6月から45年9月まで、連邦政府の予算規模は急増し、カリフォルニアの企業は164億ドルの戦時供給契約を結び、軍事施設と産業施設用として25億ドル以上の投資が行われた。
「サンフランシスコ・クロニクル紙」が「第2のゴールドラッシュ」と名付けたこの期間中、支出総額でカリフォルニア州を上回ったのは、ニューヨーク州とミシガン州だけである。
カリフォルニア州の企業が獲得した軍事予算のシェアが他の州に比べて高かったのにはさまざまな理由があるが、とりわけ戦時需要に関連するテクノロジー分野に強かったことが挙げられる。
■戦争特需で新規開業が相次ぐ
マイクロ波管〔訳注マイクロ波帯の電磁波を発生させる電子管9〕はベイエリアが得意とするテクノロジーの1つだったが、アメリカ軍による調達額は、1940年の数百万ドルから1959年には1億1300万ドルまで急増した。
購入額が劇的に増えたことで、アメリカ軍の主契約に占めるカリフォルニア州の割合は、1951年の13%から1953年には26%へと倍増し、軍の契約支出総額でカリフォルニア州はニューヨーク州を抜いてトップに躍り出る。
![アメリカ兵のイメージ](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/6/1200wm/img_f64d87cf2fce8f7557a96f415e6654d2331420.jpg)
1955年から59年の間に、軍によるトランジスタの調達額は180万ドルから9900万ドルに増え、国防総省はたちまちのうちにトランジスタの最大の消費者になった。
実際、1967年まで、アメリカ軍はベイエリア企業が製造した集積回路の半分以上を買い上げている。
軍需が重要な先導役となって、消費者向けの市場も拡大していく。たとえば、1963年から68年の間に、集積回路の価格は31ドル60セントから2ドル33セントへ下落している。
起業家たちは、軍からの需要拡大に応えて続々と新規開業を続けた。資金調達は、インフォーマルな関係を通じて行われることが多かった。
■米国内で存在感を持つ企業が次々と生まれる
軍との契約は一度獲得すると他社に奪われる心配はさほどなかったが、ベイエリア(シリコンバレー)の各社は生産性を高めるために、協調的な企業努力を怠らなかった。
1942年、フェデラル・テレグラフのエンジニアたちは、これまでにない真空管製造手法を開発し、歩留まりが35%から95%以上に跳ね上がった。その結果、生産量と売上高も急拡大し、売上高は月当たり4万7000ドルから60万ドルを超える水準まで伸びている。
1941年から44年まで、ヒューレット・パッカードは電子測定器と測定用受信機の製造ラインを改善して、生産高は3万7000ドルから100万ドルと27倍になったが、従業員数の増加は9名から100名と、11倍にしか増えなかった。
スタンフォードで生まれたヴァリアン・アソシエイツは1949年から59年までの間にクライストロン真空管の売上高を125倍にしたが、従業員数は4倍になったにすぎない。その結果ヴァリアンは、マイクロ波管ではゼネラル・エレクトリック、レイセオン、RCAを追い抜き、アメリカ最大のメーカーになった。
■熟練労働者も全米から集まるように
連邦政府の資金流入とともに人材も集まるようになった。
1940年7月から1945年7月までの5年間で、カリフォルニア州全体の人口は、移民の増加で198万7000人増えた。ハイテク・セクターの雇用者数は、各社が軍からの増産需要に応えるために規模を拡大したため、1960年には5万8000人を超えた。
サンマテオとサンタクララという2つの郡だけで、電子部品製造の雇用者数は1000人未満から1万人まで増大している。
こうした動きの結果、サンノゼは最終的に、アメリカの大都市圏で熟練労働者が最も密集する地域となる。優秀なイノベーターがベイエリアに移住して働くようになると、恐らくその動きに刺激され、熟練労働者の移住も一段と進んだ。
■軍との契約が切れた後に行ったこと
ベイエリアの起業家たちは、軍との契約が後退しても、底力を発揮した。
1960年代に、ロバート・マクナマラ国防長官はハイテク機器への軍の支出を削減した。国防総省も、たとえばマイクロ波管の購入金額を1962年の1億4600万ドルから1964年には1億1500万ドルへと削減した。
このコストプラスフィー契約(製造費用に加え、保証された固定手数料が支払われる契約)は儲けが大きかったので、地元製造業者を支えてきたが、1960年から65年までの間に、全契約に占める割合は35%から15%へと低下した。
ベイエリアの各社は、イノベーション能力を示すため、製造ラインを変更してこの新しい現実にすぐに適応した。ベイエリアの企業は社内の経営資源を再配分したが、この適応力の高さは他の地域には見られなかった。
■人材は東海岸→西海岸へ
それに対して、米国を代表するコンピュータ企業の一つDECを輩出したボストンの「ルート128」地域〔ボストンを半円形に取り囲む環状高速道路。この一帯にハイテク企業が集まっていた〕は、ベイエリアとは同じようには自己変革できなかった。
製品ラインの変更に時間がかかったのである。たとえば、東海岸で軍部への依存度が飛び抜けて高かった軍需製品メーカーのレイセオン社は、1960年代後半になっても製品の55%以上を軍に納品していた。
それ以降も、ルート128地域のスタートアップ企業にはベイエリアほどの勢いがなかった。
1959年から76年にかけて、北カリフォルニアでは40社を超える半導体企業が設立されたが、マサチューセッツ州で創業したのはわずか5社である。他の企業の不景気も重なって、1970年代前半のルート128周辺のハイテク産業では3万人分の雇用が失われた。
70年代半ば頃には、ルート128の景気後退がいっそう深刻になり、雇用と生産活動の重心が西へ西へと急速に傾いていく。ベンチャーキャピタルがハイテクのビジネス機会の最も大きな地域に引き寄せられるのは偶然ではなかったのである。
■若者、移民を受け入れる独自の「カルチャー」
大学と軍部の投資がスタートアップ企業の繁栄を促したことは明らかだが、シリコンバレーの文化そのものがどれほど貢献したのかは曖昧である。なにしろ「文化」を定義することは難しい。しかし、生活やビジネスのさまざまな局面に表れる、東海岸とは異なるビジネスの傾向に魅了される人々は確かにいて、彼らが集まって独特のカルチャーが築かれていったのは事実である。
![](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/3/1200wm/img_136a898f4b73f1961bed06e53cdebb6e102447.jpg)
アナリー・サクセニアンは次のように論じている。「シリコンバレーには、リスクを奨励し、失敗を受け入れるカルチャーがあった」。そして「新興企業の可能性を制限するような、年齢や地位、社会的立場による境界はまったくなかった」。
実践教育を重んじる大学は、温暖な気候に恵まれ、太陽の光がさんさんと輝くなだらかな丘とともに、テクノロジーに関心のある若者たちの心をつかんだ。東海岸の残酷なほど寒い冬と、堅苦しい秩序に惹かれる者は少なかった。
シリコンバレーは、技術ノウハウの最先端で、階層の少ない柔軟な組織で活躍したい人々を引きつけた。新進の起業家たちは、真新しいキャンバスの上に、東海岸で何十年もかけて積み重ねられてきた先例によって整理され尽くしたものとは異なる、自分たち独自のルールを描くことができたのだ。
開放的なカルチャーは、創造性とイノベーションの強力な推進力になり得る。
ベイエリアでは、このカルチャーのおかげで、それがたとえ移民がもたらした技術でも、浸透が阻害されるようなことはなかった。このエリアでは軍事技術との結びつきが重視されていたことは示してきたが、外国出身の発明家たちが防衛関連の職を見つけることはむずかしかった。逆説的ではあるが、だからこそ彼らが民間セクターの産業の発展に重要な役割を果たすことになったのである。
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英国生まれ。オックスフォード大学で博士号を取得、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで教鞭をとったのち現職。起業家精神、イノベーション、金融が専門。これまでチャールズ・M・ウィリアムズ賞をはじめとして、優れた講義を行う教育者向けの賞を複数回受賞。
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(ハーバード・ビジネス・スクールのウィリアム・J・アバナシー記念経営管理論講座教授 トム・ニコラス)
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