1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「未読スルー」でもラブレターを送り続ける…歴史書に記されている北条義時の異常すぎる婚活事情

プレジデントオンライン / 2022年9月15日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時はどのような人物だったのか。作家の羽生飛鳥さんは「有力御家人を次々粛清した冷血漢のイメージが強いが、惚れた女性に1年以上もラブレターを書きづづける熱い男だった」という――。

※本稿は、羽生飛鳥『「吾妻鏡」にみる ここがヘンだよ! 鎌倉武士』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

■ただ「会いたい」の一点張り…源頼朝は「モテない男」だった

----------

源頼朝(1147-1199)
平治の乱に敗れて伊豆に流され、北条政子と結婚。挙兵して平家を滅ぼし、東国に武家政権を樹立。鎌倉幕府初代将軍となる。

----------

源頼朝は、ご存じ鎌倉幕府を開いた初代将軍。流人でありながら、北条政子という女傑と結婚したおかげで、その実家のバックアップで成り上がり、血の気の多い武士達をまとめ上げ、日本で初めて武家による政権を築き上げた政治家だ。

しかし、『吾妻鏡』を読むと、その印象も変わるだろう。なぜか。

頼朝は、モテない男だったからだ。

政子という優秀な妻がありながら、頼朝の浮気相手は二人ほどいて、そのどちらも名前が判明している。そして、そのどちらからも実際はモテていない。

一人は頼朝の正妻・北条政子に嫉妬され、家を叩き壊された亀の前。彼女は政子を恐れて、頼朝へ会いたくないと伝えた。しかし、頼朝は家を叩き壊された後でも会おうと言ってくる。ただ「会いたい」の一点張りなのである。

ようするに「俺の奥さんから守ってあげることはしないけど、俺が満足したいから、会いに行く」と、ふざけたメッセージを、言葉ではなく態度で示していたのだ。

そういうわけで亀の前は、頼朝に何度も命令されたから渋々会ったという。頼朝、身勝手すぎる。この段階で、もう嫌われているだろ。

■兄の未亡人にラブレターを送る

もう一人は、鎌倉の御所で働いていた大進局だ。彼女は亀の前とは違い、頼朝の息子を産んでいた。そのせいか、同じ愛人であっても、亀の前に比べると態度が大きい。

彼女は政子に睨まれ、鎌倉にいられなくなって都で暮らすことになったのだが、その際に頼朝から伊勢国(三重県)にある所領を与えられた。後日、彼女は「頼朝から与えられた所領の保証を重ねてしてほしい」と、要求してきた。もはや頼朝を収入源としか見ていない。

二人の愛人のうち、一人は頼朝とイヤイヤ会っているし、もう一人は金づるという態度がむき出しだ。だが、頼朝のモテない男伝説は、まだ終わらない。

ある時、頼朝は自身の長兄・源義平の未亡人にラブレターを送った。

この人選は色々とアウトだ。しかも、当時すでに頼朝は政子と結婚している。こうした事情から、未亡人の父親は急いで娘を再婚させ、頼朝に取られないようにした。政子に睨まれたくないという政治判断が働いたとはいえ、女性の父親にここまで拒まれるとは……。

血筋・家柄、共によく、富・名声・権力を持っていて、『平家物語』などの諸記録によると物腰が優美だという。ここまで好条件であっても、女性からモテるかどうかは別問題であることを、頼朝は後世の我々に教えてくれる。

鎌倉町の山中にみなの子本子(第一軍の将軍)像
写真=iStock.com/joymsk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/joymsk

■鎌倉では通用しなかった「都の常識」

どうして頼朝は、モテないのか。

政治的な観点から見れば、北条家を守るために、政子が頼朝をキープしようとしていたからモテない。文化的な観点から見れば、都の一夫多妻を常識とする恋愛原理が、東国では通用しなかったからモテない。

人格的な観点から見れば、頼朝が身勝手さを丸出しにして生きていたからモテない。他にも、色々な観点から頼朝のモテない理由を考えてもいいのだが、だんだん気の毒になってきたので、ここまでにしておく。

ところで、『吾妻鏡』は北条氏びいきの観点で書かれているという。つまり「こんなモテない男である頼朝と結婚して添い遂げた政子は偉大だ!」と主張したいがために、頼朝がモテなかった逸話ばかりを抜粋されて、鎌倉幕府公式歴史記録書に書き残されてしまったとも考えられる。

もしそうだとすれば、頼朝は『吾妻鏡』の作者からすらモテていないと言えようか。

■「頼朝の馬鹿息子」と記録された2代将軍・源頼家

----------

源頼家(1182-1204)
源頼朝の嫡男。鎌倉幕府2代将軍。将軍の地位に就いて1年ほどで、北条氏によってその座を追われた末、暗殺された。息子に公暁がいる。

----------

源頼家は頼朝の長男で、鎌倉幕府2代将軍だが、政争に巻きこまれ、母方の実家の北条氏によって無理矢理引退させられた。よって、活躍期間が短く、そのせいか、目立たない。

父親頼朝(大物)、弟実朝(3代将軍、歌人)と、個性的な父と弟の間に挟まれているので、いっそう目立たない。

しかも、北条氏びいきで書かれているという『吾妻鏡』は、頼家を“頼朝の馬鹿息子”として記録していて、実像はさておき、とにかく目立たない。

それでも、『吾妻鏡』をよく読めば、頼家にもけっこうしっかりした個性が見えてくる。

例えば、気取ったところのある頼朝や、文系優等生の実朝と違い、頼家は“アウトドア派”だ。よく若い武士達を連れ、狩りや船遊びなどのアウトドアをエンジョイしている。

そして、面白いことをした家来には褒美を与える、気前のよいところがある。他にも、“蹴鞠百日チャレンジ(百日の御鞠)”というイベントを開催している。

『吾妻鏡』には、頼家と取り巻き達が蹴鞠を何日に何回やったのか、こまめに記録してある。例えば、

~建仁元年(1201)頼家主催の蹴鞠百日チャレンジ~
初日の旧暦7月6日スタート
旧暦9月15日……回数多くなかった
20日……700回
旧暦10月1日……360回
21日……950回
(中略)
建仁2年(1202)
旧暦9月10日……朝270回/160回
昼280回/230回
夕130回/390回/550回
15日……230回/160回

といった具合である。

ここまで克明な記録を残すとは、『吾妻鏡』の作者、実は蹴鞠百日チャレンジを楽しんでいただろ。

■ヤンキー兄ちゃんのノリ

さて、蹴鞠百日チャレンジ終了後、伊豆や富士山麓へ狩りに行って洞穴を見つけるたびに、頼家は取り巻き達に命じて洞穴探検チャレンジをさせている。

チャレンジ企画が大好きなのか、頼家。たくさんの友達とつるんでアウトドアにふけって、やんちゃするのが大好きとは、ちょっと昔のヤンキー兄ちゃんと変わらない。

例えば、先述の蹴鞠百日チャレンジは、現代の感覚に置き直せば、「勉強をさぼってサッカーのリフティング回数自己ベスト更新に夢中!」ということになる。

洞穴探検チャレンジは、舎弟達へ度胸試しと称して心霊スポットへ行かせるヤンキー兄ちゃんのノリに近い。もし、現代に頼家がいたら、心霊スポットの空き家の壁に「禍魔苦羅罵駆符2代将軍参上!」と、カラースプレーで落書きしていそうだ。

捕虜となった弓の名人である敵の女性(弓で何人も殺っている)を妻に欲しいと頼みに来た武士には、「おまえの女の趣味ってすげえのな!(已に人間の好む所に非ざる)」と、さんざんからかいまくってからOKを出してやる。

これは完全に、“パシリ”の女の趣味をネタに盛り上がるヤンキー兄ちゃんだ。

■愛人の「元カレ」を許せず、出兵

さらに頼家には、家来の愛人をさらって自分の愛人にしてしまった逸話がある。

頼家の家来の安達景盛は、都から来た美女を妾にしていた。その評判を聞いた頼家は、景盛に出張任務を与え、その隙にさらってしまった。

鎌倉幕府二代将軍 源頼家像(写真=建仁寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
鎌倉幕府二代将軍 源頼家像(写真=建仁寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

これは、ヤンキー兄ちゃんと言うよりも、暴走族の頭首が、手下のオンナを略奪愛してしまったノリに近い。それが原因で暴走族のグループ内抗争が始まってしまったかのように、この後、頼家は美女の元カレが邪魔なので兵を率いて攻めに行く。

正治元年(1199)に起きたこのトラブルは、政子が仲裁に入ったので元カレは血祭りに上げられずにすんだ。1980年代の暴走族漫画にありそうなことを、当時実際にやってのけるとは、妙なところで時代を先取りしているぞ、頼家。

こうした逸話を見ていると、頼家がリーゼントと特攻服姿で、大型2輪車を転がして峠で最速を目指す姿が思い浮かぶようだ。ようするに庶民的な性格なのだ。父や弟に負けず劣らず個性もはっきりしている。

彼が2代目ではなく、もっと後の代の将軍なら「飾らない人柄」と評価されただろう。政権も社会も安定した時期だったら、むしろ「型破りで面白い将軍様」と大人気になったかもしれない。

だが、頼家は鎌倉幕府ができたばかりで、軌道に乗せていかなくてはならない時期の将軍だ。その将軍に威厳がないのは致命的だ。

頼家は、無理矢理将軍をやめさせられ、瀕死の重病をわずらっている間に妻子を殺され、やがて自分も暗殺されてしまった。

そんな悲惨な人生なのに、知名度が低いとは、さらに悲惨だ。

生前も死後も浮かばれないとは、これほどの悲劇もそうそうないだろう。

■ひたすらラブレターを送り続けた冷血漢・北条義時

----------

北条義時(1163-1224)
北条時政の次男。鎌倉幕府2代執権。承久の乱で勝利を収め、武家政権を確立させた。姉に北条政子、息子に北条泰時がいる。

----------

2代執権の北条義時は、数々の陰謀を巡らせて有力御家人達を粛清し、鎌倉幕府の実権を握った人物だ。さらに、朝廷を相手取って戦った承久の乱(1221年)で勝利を収め、武家政権を確立。3人の上皇を島流しにした人物として、戦前の日本では大悪党のように語られていた。

今ではそんな評価は過去のものだが、それでも鎌倉幕府を創るために共に尽力した仲間である有力御家人達を、次々に血祭りに上げていったことは事実なので、どうしても冷血漢の印象はぬぐえない。

実のところ、義時とはどんな人物だったのか。『吾妻鏡』で、義時の人となりをうかがえる逸話を拾い出してみた。まずは、義時が結婚した時の逸話だ。

義時は長男・泰時が生まれた後に最初の妻に先立たれ、それ以来、10年近くシングルファーザーをしていた。しかし、ある時、彼の前に頼朝に仕える女官として、絶世の美女の「姫の前」が現れた。義時はひたすら恋文を書く。だが、姫の前は恋文を読もうともしない。それでも、義時は恋文を送り続けた。その期間、およそ1、2年。粘り強すぎる。

そんな義時を見かねた頼朝が、結婚したら絶対に捨てません、という起請文を義時に書かせて、姫の前に渡した。それを読んだ姫の前は、ようやく義時の家に嫁に来てくれた。シングルファーザーの一途な恋愛による再婚……恋愛ドラマかな?

ヤブサマ射手
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

■ファッションに気を使い、同僚を思いやる優しさ

それから、頼朝が後白河院と対面するために都へ行った時のこと。

頼朝の護衛としてついて行くメンバーの1人に、義時は選ばれた。この護衛は、都の人々に頼朝の武力を披露する軍事パレードも兼ねていた。憧れの都に出て、人々の注目の的になるのだから、鎌倉武士達にとって一世一代の晴れ舞台であったとも言える。

彼はこの時、一緒に護衛をする同僚の武士に「私は、赤い鎧と青い直垂(着物の一種。鎧の下に着る)を着て行くから、対になる鎧と直垂を着てね」と、コーディネートに悩んでいた同僚に前日のうちに伝えて、相手がコーディネートで悩まないようにしている。双子コーデとは、上級者だな。

源実朝が3代将軍になってから、実朝の怒りを買って謹慎処分を食らった人物が義時の家に押しかけ、泣きついて来たことがある。この時、義時は「和歌が好きな実朝だから、和歌を贈れば機嫌がよくなるよ」と適切なアドバイスをする。

そればかりか、彼を実朝の元へ連れて行き、実朝の怒りが解けるようにした。血の粛清をしまくっているくせに普段は優しいのか。

■占いに一喜一憂

承久の乱の際、義時は兵を子の泰時に預けて都に送り、自分は鎌倉に残っていた。

この時、夜に義時の邸宅に雷が落ちた。当時、雷は吉凶を占うものだったので、義時は不吉の予兆かもしれないと怯えた。

そこで、その雷が吉か凶かを知るため、占いにも精通している、鎌倉幕府のブレーンである大江広元を呼び出して相談した。いくら不安だからって、当時74歳の大江を雷雨の晩に呼び出すなよ。結果、落雷は吉を意味するものだと教えてもらい、義時は安心したのであった。もし占いの結果が凶だったら卒倒しているタイプだろ、義時。

以上の逸話を総合すると、義時は恋に一生懸命で、ファッションに気を使っていて、気配り上手で面倒見がいい。しかも、占いに一喜一憂する。ようするに、女子力が高い。

武家政権を確立させたのだから、さぞかし、横柄にふんぞり返って命令ばかりしているだけの男くさい性格かと思いきや、全然違った。

歴史を動かすほどの偉業を達成できる男になるには、女子力を高めよ。

義時の人となりを知ることで、そんな謎めいた教訓が見出されてきた。

■チクリ魔、悪役として描かれる梶原景時の意外な一面

----------

梶原景時(?-1200)
相模国(神奈川県)出身。初めは平家方に仕えていたが、のちに源頼朝に仕え、頭角を現す。頼朝の死後に失脚し、再起を図ろうとしたところを謀殺される。

----------

梶原景時と言えば、チクリ魔として知られている。源平合戦の時、源頼朝への報告書の中で源義経を讒言する内容を書いたことは有名だ。

結果、義経が頼朝に討たれる原因を作った人物として、『義経記』が成立した室町時代頃から多くの日本人達に嫌われていた。源平時代を題材にした歌舞伎でも、たいてい悪役として描かれる。

だが『吾妻鏡』からは、景時の別の一面が見えてくる。

平家を滅ぼした後、平家に味方していた捕虜が自由の身になれるように頼朝へ口利きをしているのだ。

例えば、城長茂という越後国(新潟県)の豪族だ。身長7尺(約2.1メートル!)の巨漢で、景時は釈放して幕府の味方に引き入れるよう、頼朝に進言。おかげで城は自由の身となれた。

景時が頼朝へ口利きをした相手は、捕虜だけではない。嵐の晩に寺の橋が流されないように奮闘した武士を見かけた時には、その晩のうちに頼朝へ報告して、馬を与えるように手配している。

義経についての讒言ばかりが目立つ梶原だが、このように彼の口利きによって救われた人々もまた存在していた。

■和歌が詠めるインテリ武士

梶原の優しさは、他の形でも発揮されている。『吾妻鏡』には、梶原の和歌が残されている。

羽生飛鳥『「吾妻鏡」にみる ここがヘンだよ! 鎌倉武士』(PHP研究所)
羽生飛鳥『「吾妻鏡」にみる ここがヘンだよ! 鎌倉武士』(PHP研究所)

和田義盛のように、東国は脳みそ筋肉大量生息地帯だというのに、梶原は和歌が詠めた。例えば、建久元年(1190)に頼朝が都へ行く道中、「はしもとの君にはなにをわたすべき」と和歌の上の句を詠んだ際、梶原がすかさず「たたそまがはのくれてすきばや」と下の句を詠んでいる。

他人の詠んだ和歌の上の句へすかさず下の句を詠んで完成させる詠み方を、連歌というのだが、普通の和歌を詠むのもやっとの人間にはできない芸当だ。それを難なくきちんとこなせるほど、梶原は和歌の素養があったのだ。

そのことを示すように、『吾妻鏡』には梶原の息子達の和歌も収められている。自分だけではなく、息子達も和歌が詠めるようにしつけていたとは、梶原の教育力は高い。

梶原が和歌を詠めたことは当時有名だったようで、曾我兄弟の仇討ちの顛末を描いた『曾我物語』にも、梶原が和歌を詠む場面が登場する。

心優しく、風流でもある。これが『吾妻鏡』から見えてくる梶原だ。とても申し分のない好人物だ。

■好人物でも数の暴力には勝てなかった

そんな梶原だが、頼朝の死後わずか1年で失脚。その後再起を図ろうと、一族郎党を率いて都へ行く途中に、北条氏の地元だった駿河国(静岡県)で襲撃されて自害した。これを梶原景時の変という。しかし、北条氏の地元……間違いなく北条氏はクロだ。

ところで、梶原はどうして失脚したのか。

それは、有力御家人達総勢66人が「梶原くんは、いつも同僚を讒言しているので困ります」という署名を集めて失脚させたのだ。北条氏はこの出来事に便乗して、梶原へ最後のとどめを刺したのである。

本人がいくら好人物であっても、数の暴力には勝てない。

現代社会でも通じる、せちがらい真実を体現していた梶原だった。

----------

羽生 飛鳥(はにゅう・あすか)
作家
1982年神奈川県生まれ。上智大学卒。2018年『屍実盛』で第15回ミステリーズ!新人賞を受賞。2021年同作を収録した連作短編集『蝶として死す』(東京創元社)でデビュー。歴史小説と本格ミステリの巧みな融合を追求する期待の新鋭。近著に『揺籃の都』(東京創元社)がある。また、齊藤飛鳥名義で児童文学作家としても活躍している。

----------

(作家 羽生 飛鳥)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください