初めて食べるときは勇気が要った…おっかなびっくり口にしていた中華料理に横浜人たちがハマった理由
プレジデントオンライン / 2022年9月7日 18時15分
※本稿は、佐野亨『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。
■横浜中華街の始祖となった「買弁」とよばれる中国人たち
横浜における中国人コミュニティの歴史横浜の外国人居留地は、開港後まもなく整備された山下居留地と外国人の増加を受けて1867年(慶応3年)に整備された山手居留地に分かれる。
開港とともに横浜には欧米から大勢の商人がやってきたが、彼らの多くは中国人をおともにしていた。日本人とおなじく漢字を読み書きする中国人に仲介役を担わせるためである。中国人たちは、通訳にとどまらず、日用品の買入れや金銭管理などあらゆる面で貿易には欠かせない存在であった。これが買弁(ばいべん)とよばれる中国人たちである。
こうした貿易上の都合から、中国人たちはおもに山下居留地に居をさだめた。なかでも中国人居住者が密集していたエリアは本村(ほむら)通り付近であったという。現在の南門から開港道にあたる一帯で、フランス人技師クリペが開港時に描いた「横浜絵図面」を見ると、界隈のなかで唯一、本村通りだけが「HOMURA ROAD」と記されている。ここから徐々に居住区が広がり、中国人たちのコミュニティが形成されていった。
■劇場から総領事館へ、幕府と華僑団体が契約を交わした土地
横浜新田の埋立が完了した1862年(文久2年)には、民間信仰の象徴として「三国志」の英雄関羽の木像を祀る小さな祠が建設される。山手居留地が整備されたのちに中華街でもっとも古い華僑団体である中華会館が設立され、1871年(明治四年)に寄付を募って関帝廟を建設した。
「当時の中華会館の最大の仕事は、この地で亡くなった中国人の亡骸を祖国へはこぶことでした。いま中華会館の事務所があるこの場所には、中国人のための医療施設として同済病院が建っていたんです」
現在、中華会館の事務局長を務める関廣佳さんが教えてくださった。
関帝廟通り沿いの旧居留地135番地には現在、山下町公園がある。1863年(文久3年)には中華会館が幕府とこの地の土地契約を交わした記録がのこっている。その後、1868年(明治元年)頃、この場所に會芳樓という劇場が建てられた。中国の演劇はもちろん、日本人による曲芸や西洋演劇の公演もおこなわれ、料亭としての機能も有していたという。現在、山下町公園の一画には、その歴史にちなんで「會芳亭(※「亭」は異体字)」という門看を掲げた東屋が建っている。
![日本の山下公園にある船の鐘](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/7/1200wm/img_e70f0ab28ab82570e4d06a8e94145bfd1236222.jpg)
1877年(明治10年)頃に會芳樓が閉業したあと、しばらくは馬車の製作所が置かれていたが、1883年(明治16年)に居留地145番地にあった清国駐横浜領事館の新館が建てられ、1897年(明治30年)以降は清国総領事館として使用された。
■日清戦争を引き金にした職業制限が、中国人の料理人を増やした
こうして華僑のコミュニティが発展を遂げていく一方で、日本人の中国人に対する意識も変化していく。大きな転機となったのが、1894年(明治27年)の日清戦争勃発である。これによって華僑に対して悪感情を抱く日本人が急増し、それまで商取引の仲介を通じて授受されてきた手数料の廃止が叫ばれるようになった。1899年(明治32年)には外国人居留地が撤廃され、中国人の内地雑居をめぐって賛否両論が巻き起こる。結果、中国人たちは大幅な職業制限を受け、理髪、洋裁、調理からなる三把刀(さんばとう)が中国人たちの代表的な職業となっていった。
明治末期になると、中華街でもっとも古い料理店である聘珍楼が店名を日本語の音読みで表記するなどして、徐々に日本人客も増えていった。
■「シューマイを東京の親類に持っていくと大いに悦んだ」
獅子文六は、1961年(昭和36年)に書かれた随筆のなかで、当時の中華街をつぎのように回想している。
〈私が南京料理を食ったのは、少くとも四十余年以前である。初めて海鼠(なまこ)を食った人間の豪胆が推測されるように、初めてシナ料理を試みるのは、腕白少年の私も、尠(すく)なからぬ勇気を要した。横浜南京町のたしか永楽楼という家であったと思う(引用者註=正しくは永楽軒)。家へ入るとムッとし、料理を見るとムッとし、ウマいもまずいもあったものではなかった〉
〈シナ料理を食うことは、ちょうど、今なら、馬肉かなんか食いに行くのに相当した。横浜でさえそうだった。南京町を通るのに、鼻を抓んで駆け抜ける人さえあった。
だが、それから二、三年経って、一部の横浜人が、安くてウマいという理由の下に、「南京」を食べることが流行した。(中略)シューマイは一銭だった。一銭時代は非常に永く続いた。(中略)シューマイを土産に買うと、赤地に金の星を刷った綺麗な函(はこ)に入れてくれた。それを東京の親類へ持ってゆくと、大いに悦んだ。保守的な東京人が悦ぶくらいだから、当時頗る進取的であった横浜人は、猛然と「南京」を食い始めていたのである〉(『飲み・食い・書く』)
■「中華街」の名前が定着したのは1955年以降
ちなみに、この場合の「南京」とは地名ではなく、中国中部からやってきたひとびとを日本人が漠然とそうよんでいたことに由来するらしい。当時の華僑はこのまちを唐人街とよんでおり、中華街の名が一般に定着するのは1955年(昭和30年)に建てられた善隣門に「中華街」と刻まれて以降のことである。
1946年(昭和21年)には、中華街大通りに新光映画劇場という映画館も開館したが、1960年代半ばに閉館し、現在は広東料理の老舗である同發の新館ホールとなっている。1976年(昭和51年)には、当時「北京ダック」という曲を発表した細野晴臣がこの同發新館ホールでティン・パン・アレーを率いてコンサートを開催し、2016年(平成28年)には星野源との共演により、40年ぶりに同じ舞台に立った。
■孫文の日本亡命が中華学校設立のきっかけとなった
僕の出身地の近くにある東京都文京区の白山神社の境内には、孫文のレリーフをはめ込んだ石碑が建っている。
日清戦争終結後の1895年(明治28年)11月、広州起義に失敗した孫文は、日本に亡命し、東京の平河町や早稲田鶴巻町でくらした。1910年(明治43年)頃には辛亥革命の支援者だった宮崎滔天(とうてん)の家に身を寄せており、この屋敷が白山神社にほど近い小石川原町(現在の白山四丁目付近)にあった。
亡命時、孫文は横浜で馮鏡如らと会見し、このとき設立されたのが大同学校である。1899年(明治32年)に正式な開校式がとりおこなわれ、犬養毅が校長に就任した。
「当時の中華街には小さな私塾があるだけで、しかも孫文にしてみれば古い教育をおこなっていたわけですね。その孫文の思想にもとづいて広東語で授業をする学校としてつくられたのが大同学校でした。ただ、創立当初から内紛が多く、犬養毅を校長にしたのも、『犬養さんを立てておけばうまくおさまるだろう』と考えたからでしょう」(関廣佳さん)
こうした内紛によって、大同学校のほかに華僑学校、中華学校も創立されることとなった。
やがて辛亥革命が勃発し、横浜の中国人コミュニティも大陸派と革命派の二派に分裂、清国総領事館は中華民国総領事館へと姿を変えた。
■大陸派と革命派を融和させた関帝廟の火事と再建
そんななか、1923年(大正12年)に関東大震災が発生。中国人コミュニティは団結して、まちの復興に乗り出す。故郷へ亡骸を送り返したことに象徴される「落葉帰根」の時代から、その地で根をはって生きていく「落地生根」の時代への幕がひらいたのである。
![](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/6/1200wm/img_567bd0e8b8ddf89b45b87cbbfbf2ca1f501282.jpg)
全壊した校舎を再建する過程で、大同、華僑、中華の3校が合併し、横浜中華公立学校が開校。空襲で倒壊したのち、1947年(昭和22年)に横浜中華学校として再建された(1968年に横浜中華学院に改称)。
そして、東西冷戦のさなかである1952年(昭和27年)、中華民国駐日代表団が中華人民共和国を支持する華僑の教師と子弟を学校から追い出す「学校事件」が発生する。翌53年、大陸派華僑は横浜山手中華学校を新設することとなった。
こうした変遷をとおして並存してきた2つの学校と二派の横浜華僑がにわかに融和へと向かっていったのは1980年代以降のことである。
「大きなきっかけは、1986年(昭和61年)に起きた関帝廟の火事ですね。関帝廟は震災と空襲でもつぶれているので、1990年(平成2年)にできた現在の廟が四代目なんですよ。横浜だけでなく、東京や大阪、神戸の華僑が協力して再建のために6億円もの資金を捻出しました。学校事件に関係していた連中も『じぶんたちが元気なうちに建て直そうよ』と言って一丸となったんです」(関さん)
壊滅から復興へ――この繰り返しのなかで、横浜の中国人コミュニティも大きく揺れ動いてきたのである。
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編集者・文筆家
1982年東京都生まれ。日本映画学校卒。出版社勤務を経てフリーランスの編集・文筆業に。編著に『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)、『心が疲れたときに観る映画「気分」に寄り添う映画ガイド』(立東舎)など。国立映画アーカイブ(NFAJ)客員研究員も務める。
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(編集者・文筆家 佐野 亨)
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