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「オレがやった」と主張してはいけない…織田信長の後継者を決める会議で豊臣秀吉が完璧に守ったこと

プレジデントオンライン / 2022年9月12日 10時15分

重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

難しい交渉をうまくまとめるには、なにが重要なのか。歴史家の加来耕三氏は「豊臣秀吉は、織田信長の後継者を決める清洲会議の交渉で、劣勢から逆転勝利をおさめた。それは『上様の無念を晴らしたのはだれか』という話題が出るのを、じっと待つことができたからだ」という――。

※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

■清州会議に向けてセッティングされた“アジェンダ”

天正10年(1582)6月2日、織田信長が家臣の明智光秀の裏切りに遭い、京都の本能寺において横死しました。

すると、中国地方で毛利攻めをおこなっていた羽柴(のち豊臣)秀吉は、光秀謀叛の知らせを聞くや否や、すぐさま毛利氏と和睦を結び、世に有名な“中国大返し”を敢行。本能寺の変からわずか11日後の6月13日、山崎(現・京都府乙訓郡)の合戦において光秀を討ち滅ぼし、信長の仇討ちを果たしました。

そして、その2週間後の6月27日、清洲城(現・愛知県清須市)に織田家の重臣4名(柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興〈信長と乳兄弟・織田家の代理人として〉・羽柴秀吉)が集められ、開かれたのが清洲会議でした。

「主君信長および嫡子・信忠の死後、織田家の跡目を誰にするか」
「織田家の遺領をどのようなかたちで管理、運営するか」

この二つを協議することが目的でした。

■柴田勝家を封じないことには未来がないとわかっていた

この日の会議の主役は、光秀追討の最大の功労者である秀吉と、織田家筆頭家老をつとめる柴田勝家。織田家譜代の家柄と自らの立場を自負する勝家は、成り上がり者の秀吉をこれまで侮蔑してきました。一方、秀吉も勝家が自分を嫌っていることは重々承知しています。勝家を封じ込めないことには、己れの未来がないことを、秀吉はよくわきまえていました。

そのため清洲会議は、両者の主導権争いの場となってしまいます。

秀吉はこの会議において、自身が描いたシナリオ通りに事を運び、勝家との交渉に勝利しました。

まさに、秀吉のシナリオ構築力がもたらした勝利と言えます。

以下、くわしく見ていくことにしましょう。

■後継者たちには嫌われている…信長亡き後の危うい立場

清洲会議の直前、織田家における秀吉の地位は、必ずしも盤石なものではありませんでした。むしろ、信長が生きていた頃よりも危うくなっていました。

信長は生前、家臣団の序列を飛び越え、秀吉を中国方面軍の司令官に大抜擢し、織田軍最大の兵力を秀吉に与えていました。ところが信長の死によって、秀吉は方面軍司令官の末席という、本来の席次に戻されてしまいます。

しかも秀吉にとって痛手だったのは、信長だけではなく、自分を評価してくれていた信長の後継者=嫡子・信忠も、本能寺の変の際に自害してしまったことでした。

逆に、秀吉を嫌う信長の次男・信雄と三男の信孝は健在でした。

そして前述の通り、織田家筆頭家老の勝家は秀吉のことが大嫌い。もし主君の仇討ちという大功をあげていなければ、秀吉は勝家の手によって口実をもうけられ、織田家から放逐されたのではないか、とすら筆者は思います。

交渉事、特に会議における交渉では、自分の味方になってくれる人物をいかに数多く確保するか、がカギとなります。

多数派工作において劣勢にある秀吉が取り込んだのが、織田家2位の重臣である丹羽長秀でした。

■自陣営に引き入れる口説き文句は「家臣団で盛り立てましょう」

丹羽家は本を正せば、信長の家=織田弾正忠家とほぼ同格の家柄です。けれども長秀は、名門の出だからといって偉ぶるところがまったくなく、秀吉とも良好な関係を築いていました。自分の利益や感情的な好き嫌いで動くことがなく、何がいちばん織田家の未来にとっていいかを、客観的に考えることができる人物でした。

丹羽長秀像(模本)東京大学史料編纂所蔵
丹羽長秀像(模本)東京大学史料編纂所蔵(写真=福井市立郷土歴史博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

清洲会議の議題の一つである織田家の跡目について、勝家は三男の信孝を推してくることが予想されました。勝家は信孝の後見人をつとめており、また愚鈍と言われた信雄と比べれば、信孝のほうがまだ多少はましだったからです。

一方の秀吉は、信長の孫であり、嫡子・信忠の子である三法師(のちの秀信)を推すことを決めていました。清洲会議を前にして、秀吉はそのことを長秀に告げました。

このとき長秀は、

「それは妙案かもしれない」

と、思ったはずです。

三法師は、このときまだ3歳。天下泰平の世ならともかく、乱世の時代に3歳の稚児を織田家のトップに据えるのは危険ではあります。しかし秀吉は、

「いやいや、もう天下は織田家が取ったようなものではないですか。家臣団で三法師さまを盛り立てていけば、十分にやっていけますよ。そもそも織田家の正統性を考えれば、直系の三法師さまに家督を継いでいただくのが、筋ではありませんか」

と、言います。

■「勝家に主導権を握らせるのは危険」丹羽長秀の結論

長秀は客観的立場から、物事を捉えることができる人です。

今回の会議では、勝家の案に沿って、信孝に家督を継いでいただくことに賛成すべきか。それとも秀吉の案に乗るべきか。長秀は熟慮します。

「確かに勝家は有能だ。しかしいかんせん、わがままで何かと上から目線でものを言う。信長さま亡き後、これからは家臣団が一丸となって織田家を支えていかなくてはいけないのに、勝家に主導権を握らせてしまうと、独断専行が激しくなることが危ぶまれる。その点、秀吉であれば、人の言うことにちゃんと耳を傾ける度量がある。ここは、織田家の将来を考えれば、秀吉に味方したほうが得策だろう」

こうして長秀は、秀吉陣営に入ることを選択したのです。

■重要なのは、中立派のキーパーソンを取り込むための根回し

これは秀吉にとって、大きな意味がありました。中立な立場にいると衆目の一致している人物が、交渉の場で自分寄りの発言をしてくれれば、明らかに秀吉サイドの人物が発言するのと比べて、周囲に与える影響力がまったく違うからです。

これは現代を生きる私たちにとっても、参考になることです。交渉に勝ちたければ、事前の「根回し」によって、中立派のキーパーソンをいかに自陣営に引き入れておくかが重要になります。

ちなみに、秀吉自身は「織田家の将来」や「直系であるという正統性」を考えて、織田家の跡目に三法師を推したわけではありませんでした。

「信長さまの死とともに、織田家の覇権は終わった。揃いも揃って凡庸な信長さまの子どもたちが、天下を差配していくことは無理だ」

と、秀吉は見ていました。であるならば、信長さまの事業を継承するのは、家臣団の中でもっとも優れた実力者である自分しかいない、とも。

三法師を推したのも、勝家との結びつきが強い信孝よりは三法師のほうが、自身への権力の移譲を図る際に、スムーズに事が運びやすい、と判断したからです。

秀吉にとって清洲会議は、その布石を打つための重要な会議でした。

もちろん長秀の前では、そんなことはおくびにも出しません。

■言いたいことを言ってから腹痛を理由にして中座した秀吉

清洲会議本番、勝家は予想通り信孝を推してきました。これに対して秀吉は、三法師を推します。秀吉と勝家との間で激しい論争が繰り広げられました。

すると秀吉は、何を思ったか突然、

「腹が痛くなってきた。自分はもう言いたいことはすべて言い尽くしたので、後は皆さんにお任せする」

と、会議の場から出て行ってしまったのです。

「秀吉は馬鹿か。これでこの交渉事、わしが勝った。何しろ相手がおらぬのだからな」

勝家はそう思ったことでしょう。

■自分の口からではなく第三者に言わせることで説得力を増す

ところがその後、会議は勝家が思いもしなかった方向へと転びます。事前に秀吉と示し合わせていた長秀が、秀吉が書いたシナリオ通りに、あくまでも中立の立場を装いつつ、

「上様のご無念を晴らしたのは秀吉である。その顔を立ててやるべきではあるまいか」

と発言したからです。

加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)
加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)

部屋の空気は一変します。膠着状態にあった交渉は、秀吉側有利に一気に傾きました。

繰り返しますが、もし秀吉自身が、

「上様のご無念を晴らした功労者は、この私である。しからば私の顔を立てるべきではありませんか」

などと、発言をおこなったとしたならば、間違いなく相当な反感を招いたはずです。

第三者に言わせてこそ、意味を持つ内容なのです。中立派の長秀を取り込んでおいたことが、ここで効果を発揮したわけです。

勝家は、沈黙せざるを得なくなりました。

「秀吉はすぐに中国地方から引き返して光秀を討ったのに、そなたは遅れたではないか」

と言われれば、返す言葉がなかったからです。

■「上様のご無念を晴らしたのは誰か」を出されては文句が言えない

勝家の名誉のために述べておきますが、本能寺の変が起きた後、勝家はただ手をこまねいていたわけではありません。当時、勝家は北陸方面軍の司令官として、上杉軍と対峙(たいじ)していました。史料によると、光秀謀叛の報を聞いた勝家は、軍議の場で、

「光秀はいつでも討てる。今はそれぞれの方面軍が、各所で敵と戦っている。まずは目の前の敵を倒すことが大切で、光秀を討つのはその後でよい」

と、発言したということです。

つまり、勝家は勝家なりに状況を俯瞰したうえで、「光秀討伐は後にする」と判断したのです。けっして、すぐさま行こうと思ったが、準備に手間取り遅れたわけではありませんでした。

けれども、「どちらが先に、上様のご無念を晴らしたか」というロジックを持ち出されて、秀吉と比べられれば、勝家に勝ち目はありませんでした。

本来は、「秀吉が勝家よりも先に光秀を討ったこと」と「織田家の跡目を誰にするか」は、まったく別の話なのですが、「ここは秀吉の顔を立ててあげてもいいのでは」と第三者に言われれば、何となく「確かにそうだな」と周りの人々を頷かせてしまうだけの説得力はあります。

長秀が、絶対に勝家には勝てないロジックを繰り出したことも、秀吉がこの交渉に勝利した要因の一つでした。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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