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失敗すると気分が落ち込む理由を考えてみなさい…苦しい気持ちがスーッと軽くなる「仏教の言葉」

プレジデントオンライン / 2022年9月10日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kavuto

仕事で失敗して気分が落ち込んだとき、どうすればいいのか。浄土真宗の僧侶でマンガ家の光澤裕顕さんは「なぜそれを『失敗』と捉えたのかを考えてみるといい。落ち込んでいるときは、まわりが見えなくなるが、そこもまた、光にあふれた仏さまの掌の上にすぎない」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■落ち込んだ気持ちとの向き合い方

「人は誰しも失敗して成長する」とは言うものの、やはり失敗すれば落ち込むものです。

かく言う私自身も仕事でたびたび小さなミスをやらかしてしまい、上司から叱咤されることも。だいたいは、確認不足や連絡漏れなど「ほうれんそう」の不徹底やケアレスミスによるものです。実際、悪いのは自分自身だという自覚もあり反省もするのですが、やはり、失敗のことをズルズルと引きずり、落ち込んでしまいます。

このようにたとえ「失敗」が成長の糧になるとしても、落ち込んでいるとき、その心とどう向き合うのかは大きな問題です。

ある人は「失敗」を忘れるために、とにかく欲望を満たし誤魔化そうとするかもしれませんし、なかなか切り替えられず落ち込んだままの人もいるでしょう。「失敗」との向き合い方は人それぞれですが、万人に効果のある対処方法というのは、なかなか見つからないようですね。

また、落ち込んだ人を励まそうとして、一生懸命相談にのったにもかかわらず、相手の痛みの核心に触れられない歯痒さを感じたこともあるでしょう。

人は自分という壁をこえて他者になりきることはできません。それゆえ、完全に他人の痛みを理解することはできないのです。しかし、仏教には困難の中で生きざるを得ない人々に寄り添い、生きることに対して希望を紡いできた歩みがあります。

それは「現代の常識」や「科学のしくみ」と比べるとちょっと不可思議に感じるところもあるかもしれません。しかし、「仏の世界観」を生きると、私たちはつらい失敗の先にある「未来」に目を向けることができるようになるでしょう。

■日本で阿弥陀仏が人気の理由

仏教における礼拝の対象は「仏」です。

「仏」とは「目覚めた者」「悟った者」をさす言葉です。もともとはお釈迦さまを指す呼称でしたが、後に広く「悟った者」に対する呼び名になり、阿弥陀仏や薬師如来などさまざまな仏が生まれました。

「如来」は「仏」の異名で、「如」は真実や悟りを意味し、「如来」は総じて「真実から正しい教えを導くために来る尊い人」という意味があります。

実際、みなさまもお寺にお参りされますと、いろいろな仏さまをご覧になるかと思います。それぞれ願いやお役目を持っていらっしゃいますが、その中でもポピュラーな仏さまのお一人が阿弥陀仏です。

たくさんのお寺でご安置されており、昔から人々の信仰を集めていた様子がうかがい知れます。今日でいう「推し」だったのかもしれませんね。マンガのように阿弥陀仏を奉納するのも珍しいことではありませんでした。困ったときにとりあえず「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える人もいるかもしれません。

それでは、この阿弥陀仏がなぜ、人々の信仰を集めているのか、その理由を大乗仏教の重要な経典の一つ『仏説無量寿経』の物語から紐解いてみます。

■どの時代のどの場所に生まれた命でも救う

むかしむかし、とある国に1人の王さまがいました。

ある日、王さまは世自在王仏という仏さまのお説法を聞き、これに深く感銘し、自分も悩める人々を何とかして救いたいという崇高な志を抱くようになりました。その志のため、王さまはその身分さえも棄て1人の出家者となり「法蔵」と名乗りました。

法蔵は世自在王仏に師事すると師のもとでさまざまな「仏の国」を観察しました。そして長い思慮の末、ついに仏として目覚め48の誓願とともに、阿弥陀仏となりました。

阿弥陀仏は苦悩に喘ぐ生きとし生けるもの全てを、自らの「仏の国」に導き救うと誓ったのです。この阿弥陀仏の国こそ、有名な「西方極楽浄土」であります。

これはほんの一部ですが、仏さまの誕生エピソードはなかなか新鮮なのではないでしょうか。

「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ」の音写語で「量りしれない光」あるいは「量りしれない寿命」を意味します。これは、どの時代のどの場所に生まれた命であっても漏れなく救うという願いの体現であり、阿弥陀仏の救済は年齢・性別・身分・善悪あらゆるものに捕らわれず全ての人々がその対象です。

私たちは仏さまに対してグルグル巻きの髪型(螺髪と言います)に微笑をたたえた仏像の姿をイメージしますが、実はあの姿は「仮」の姿とされています。

大仏
写真=iStock.com/photo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/photo

というのも私たちは目で見て理解できるものでないとなかなか信じることができないため、仏さまはあえて仏像のようなわかりやすい姿を取っておられますが、本来は「限りない光」であり、私たちが救われる真理(働き)そのものであるともいわれます。ちなみにこのように真実を伝えるためにあえて仮の姿を取ることを「方便」といいます。

このような、人智を超えたものによる救済を説いた考え方は「大乗仏教」といわれ、お釈迦さまの時代よりも後の時代に成立しました。

■念仏を唱えることで救われる

その中でも阿弥陀仏による救済は、特に平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて爆発的に広まりました。これは当時の時代背景の影響が考えられます。

当時の日本は各地で戦が繰り返され、大規模な飢饉や大地震が起こっていました。鴨長明の『方丈記』によれば都は死体で溢れ返るひどいありさまでした。市井の人々はその日の命をつなぐことに必死で、徳を積むどころか生きるためにやむを得ず許されざる行為に手を染めねばならない現実もあったでしょう。

現世で悪を成した人間の逝きつく先はどこか、地獄です。今生きているこの世も地獄、生まれ変わった来世もまた地獄。その中でただ、「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえれば極楽浄土に往生することができる、その考えがどれほど人々に希望を与えたでしょうか。

単に死後の幸せを約束するだけではなく、私が救われている存在であるという「事実」が今を生きる力の源になっていったのです。

■救済に対する親鸞の考え

阿弥陀仏の救いによれば、私たちはどんな苦悩を抱えていたとしても本来的には救われる(救われている)存在であるのです。しかし、ここに最大の問題があります。

救済が「事実」だといわれても、われわれはそれを信じられないのです。そして、これは現代人特有の悩みかと思いきや、昔のお坊さんも同じ悩みを抱えていたようです。その一端を読み取れるのが、『歎異抄』の中の唯円と師である親鸞のやり取りです。

「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうろうしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。

(東本願寺出版『真宗聖典』629頁)

【筆者意訳】

「念仏を唱えていても、躍り上がるような喜びが湧きあがってきません。また、すぐに浄土に行きたいという心も起こりません。このことはどのように考えたらよろしいでしょうか」と師である親鸞にお尋ねしたところ、「私(親鸞)も疑問を持っていたが、唯円も同じ気持ちだったか。よくよく考えれば、躍り上がるほどのことなのに喜びを感じない。これは、いよいよ往生は間違いないと思うべきことである。本当に喜ばしいことをそうさせないのは、煩悩のためである」

阿弥陀仏の救済が決まっているのならば、嬉しい気持ちになり早く浄土に行きたいと思うはずですが、そうはならないと信仰の悩みを吐露しています。現代は科学技術が発達したため、人々は神仏を信じなくなったといわれがちですが、実は昔から人間はなかなか神仏を信じることができなかったようです。

それでもなお、仏は何千年もの長きにわたり人々の信仰を集め、苦悩に寄り添ってきました。その表れが本書のマンガのような不可思議なエピソードとして全国のさまざまな場所で大切に語り継がれています。それらの物語は「現実」とするのには不可思議なことですが、「真実」として伝承されています。

■論理的なことと不可思議なことはどちらも真実

私たちの生活圏には高度なテクノロジーが次々に生み出される一方で、まだまだ神秘的な神仏も存在感を持っています。そのためか、スマホを持ちながら仏に手を合わせるような、全く異なる価値観がごく狭い範囲で共存している、見方によっては奇妙な風景が当たり前になっています。

ここから見えるように、実は一つに思える私たちの日常はたくさんの世界観が幾重にも重なり合って構成されているのです。そして、私たちは無意識の内にTPOに応じて自分の立つレイヤーを変えながら生活をしています。これは現代社会の良さでもあるのです。

仕事の上では、合理的なものの考え方は重要です。でも、その考え方では落ち込んだ心の支えにならないこともあるでしょう。

論理的なことと不可思議なこと、それぞれがどちらかよりも劣っているということはありません。どちらも真実であり、それで救われた人がいる、そしてこれからも救われる人がいるという事実は確かに存在しているのです。

複数の世界観を自由に行き来するのが、私たちにとって一番ナチュラルで力になってくれる付き合い方なのかなと思います。

■仏の世界観は「失敗」で終わらない

それでは、最後は「仏の世界観」でこの節のテーマをまとめましょう。

光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)
光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)

「失敗した……」

そう思いうなだれたとき、自分で自分の物語に幕を下ろしてしまっているのかもしれません。絶え間なく続く流れの中で、私たちが知覚できる時間はごくごく僅かです。その中の、さらにほんの一瞬を切り出して「失敗」と名付けるのは、われわれの眼を覆っている煩悩の所業です。私たちの存在というのは、思っているよりも、ずっと広く、喜ばしいものであるのです。

大丈夫です、つらければ落ち込んだっていい、元気が出ないのならば、静かに休んでいればいい。まずは一日一日を過ごすことができれば、とりあえずそれで百点満点です。

落ち込んでいるときは、全てが出口のないトンネルのように感じられるかもしれませんが、そこもまた、仏さまの掌の上、光に照らされている場所なのです。

南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまうなり

(東本願寺出版『真宗聖典』488頁)

ゆっくり休んで顔を上げたとき、あなたはあなたの物語がまだ続いていることに気づくはずです。

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光澤 裕顕(みつざわ・ひろあき)
浄土真宗(真宗大谷派)僧侶
新潟県長岡市生まれ。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道修行に励むかたわら、フリーのマンガ家・イラストレーターとしても活動中。

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(浄土真宗(真宗大谷派)僧侶 光澤 裕顕)

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