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いつも上から目線で無理難題を押しつける…そんな上司を一発で改心させる元上場企業社長の禅僧の言葉

プレジデントオンライン / 2022年9月15日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sunabesyou

怒りはどうすればコントロールできるのか。元上場企業社長で禅僧の島津清彦さんは「そもそも怒りの感情とは、ただあるものであり、いいも悪いもない。それに振りまわされるのは人の欲ゆえだ。わたしたちはもっと足ることを知る必要がある」という――。(第2回)

※本稿は、島津清彦『元上場企業社長の「禅僧」に、今の時代の悩みをぶつけてみた。心が回復する禅問答』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■怒りの感情を処理できるようになったワケ

みなさんは、どんなとき、どんなことに怒りを感じますか?

わたしの場合、怒りは年々小さくなってきているので、たとえふだんの生活で突発的なことが起きても、いまはほとんど怒りを感じることはありません。

もちろん、最初からそうだったわけではなく、会社員の頃はよくイライラしたり怒ったりしていた気がします。しかし、禅の修行を続けるなかで、そうした感情が次第になくなっていきました。

そういえば、最近も外を歩いていると、いきなりうしろから歩いてきた中年男性に思い切り肩をぶつけられたことがありました。おまけにものすごい剣幕で怒鳴られた。

でも、そのときも「あ、すいません」といって自らよけて、その人が去っていくのを見つめていました。

正直なところ、むかしのわたしならそんな対応はできなかったでしょう。かつてのわたしは、通勤中に人とぶつかるだけで、そのたびにいちいち怒りを感じていました。

なにか理不尽なことをされたときに、怒りを感じるのは当然だし、怒りの感情は持っていてあたりまえです。なぜなら、怒りは動物が持つ本能的な感情だからです。

攻撃に対して戦うために、まるでハリネズミの針のように怒りの感情が湧き上がるわけです。

■「なぜ怒りは存在するのか」に対する老師の答え

でも、知っておきたいのは、同時に怒りは人を傷つけるということです。

怒りは人を傷つけて、争いや戦争のもとにまでなるもの。では、なぜこんな感情が、わざわざ人間に備わっているのでしょうか? 怒りによってわたしたちがいがみ合うのなら、そもそも人間の感情として怒りは必要ないのではないか?

そこで、禅の修行をはじめた頃のわたしは、老師に教えを仰ぎました。

すると、彼は「怒りはただあるだけだ」と答えたのです。

怒りは「ただあるもの」であり、いいも悪いもなく、機能としてあるだけだということです。それを聞いたとき、怒りに対するわたしの「こだわり」が静かに取れていきました。

世の中には、理不尽な出来事がたくさん起こります。確かに、わたしにもニュースなどで悲惨な出来事を見聞きすると、「うーん」と気持ちが沈むことがあります。

でも、怒りの感情がふつふつと掻き立てられるかといえば……、そんなことはないのです。

わたしは、怒りそのものを否定しているわけではありません。怒りは「ただあるもの」であり、人を不必要に傷つけることが多いものだということを知っているだけです。

そして、もうひとついえば、いつ獣に襲われるかもしれない古代人とは違い、わたしたち現代人には、さほど怒りは必要ではないのではないかと考えているのです。

■怒りは相手だけでなく自分にも刺さる

では、なぜ怒りの感情を、なるべく手放したほうがいいのでしょうか。その答えはシンプルです。

怒りはあなた自身を傷つけるからです。

仏教には、怒りは毒であるとする教えがあります。「三毒(さんどく)」といい、人の善心を害する3つの毒を、「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」といいます。「貪」は貪りのこと。「痴」は愚痴や悪口のこと。そして、「瞋」が怒りです。

三毒 貪るなかれ。愚痴をいうなかれ。怒るなかれ。

わたしがこの「三毒」をはじめて知ったとき、「怒りとは誰かに毒を吐くことなんだな」と解釈しました。怒りには、それをぶつける対象(相手)があるわけですから、毒を吐いて傷つけてはいけないのだと思ったのです。

しかし、やがて修行を続けるなかで、「そうか、怒りは自分にも毒を吐いているのだ」と腑に落ちるようになりました。

例えば、あなたが怒りに駆られて誰かを怒鳴ったとしましょう。その言葉は誰が聞いていますか?

もしあなたが怒鳴れば、怒鳴った瞬間、相手だけでなく、あなたの潜在意識や身体のすべてが怒りを聞いています。

これこそが、怒りは「自分に毒を盛る」行為に等しいという意味です。

「三毒」の真意を理解したとき、わたしは相手に向けていたはずの怒りの矢が、自分に向かって迫ってくるように感じました。

それまでのわたしは、怒りの感情にとらわれやすい人間でした。それゆえに、「怒ることは自分をも傷つけるのだ」と知ってはじめて、怒りは自分にとって必要がないものだと納得できたわけです。

桜の花の下に立つ僧侶
写真=iStock.com/SAND555
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SAND555

■医学的にも怒りは身体に悪い

すぐにイライラして怒りやすい人は、血圧が上がったり、血管が詰まりやすくなったり、ストレスで内臓が悪くなったりすることが医学的にもあきらかになっているそうです。

また、わたしたちの身体は、一つひとつの細胞がそれぞれの役割を持ってネットワークをつくっています。皮膚を少し痛めたとしても細胞が自然に治してくれるし、ウイルスが入り込んだら、命令しなくてもそれと戦って守ってくれます。

そんな細胞の一つひとつに、自ら毒を撒いて傷つけているに等しいと気づいたとき、わたしは大きなショックを受けました。

そして、「わたしはもう怒るまい」と決めたのです。

怒りの感情が「ただあるもの」だということは、簡単にいえば、それに自らが「とらわれる」のがよくないということです。

ただ、誰しも修行などをせずに、いきなり怒りを手放すことなんてできません。

だから最初は、「し過ぎはよくない」と考えるのがいいと思います。

ときにはイライラすることもあるけれど、怒り過ぎたり、イライラし過ぎたりするのはよくないと考えればいいのです。

■欲を減らすことで怒りが減る

「貪り」も同じです。貪りという感情もよくも悪くもなく、ただ機能としてあるものです。でも、必要以上に貪るからおかしなことになってしまう。

人間はいったん欲にとらわれると、欲が欲を呼び、とめどなく暴走していきます。自分にとって適正な状態を忘れ去ってしまうのですね。

いずれにせよ、わたしたちはもっと「足るを知る」必要があるのでしょう。禅には、「少欲(しょうよく)知足(ちそく)」という言葉があります。

少欲知足 欲を少なく、いま与えられているものに満足する

欲を少なくすれば、余計な怒りが生じにくくなります。

そして、怒りが減っていけば、人の悪口や愚痴などもいわない人間になっていきます。

■部下に対しては問いかけが有効

ここで、ふだんの仕事や生活のなかで、どうしても感じてしまう怒りへの「具体的な対処法」も、例を絞って紹介しておきましょう。

例えば、あなたのまわりには、他人を振りまわすような人はいませんか? 自分の都合で人を巻き込んだり、他人の時間に対してリスペクトがなかったりする人に、多くの人は怒りを感じると思います。

わたしは、自分の身を守るという人間の本能の意味においても、怒りの感情は、自分より弱い者に向けてはならないと考えています。

そこで、まず自分より弱い立場にある人がなにか不都合なことをしたときは、怒るのではなく「諭す」といいと思います。

それこそ、朝の会議にいつも遅れてくる部下がいても、その場で怒ってはいけません。あとで機会をつくり、「君が遅れたことでチームのみんなにどんなことが起こると思う?」と問いかけるわけです。

諭すとは、まさに禅問答のように「問いかけ」をするイメージです。いまふうにいえば、「コーチング」ということになるでしょうか。

怒りは感情をそのままぶつけることであり、自分の感情をコントロールできていない証しです。つまり、「禅的」ではない状態といえます。

ただし、怒るべき場面で怒らないことで、まわりにいる人たちに示しがつかない場合もあるでしょう。同じ例でいうなら、みんなの前で「みんなもう揃っているよ」「会議は9時開始だぞ!」というのが「叱る」ことにあたります。

でも、叱るのも一方向の行為です。怒ってはいなくても、相手に気づきを与えることもありません。

どれだけ冷静に叱ったとしても、その人に対する「問いかけ」にはならないのです。

■年上に対して効果的な叱り方

では次に、自分よりも立場が上で、力を持つ人が相手の場合はどうでしょうか?

これは、それぞれの職場やまわりとの関係性によって、取るべき行動は変わります。もし、あなたがその職場でずっと働きたいと望んでいるなら、ただ上司に怒りをぶつけても立場が悪くなるだけです。

実は、わたしはかつて働いていた会社でたまたま若くして人事担当役員になり、ほかの役員や事業部長たちのほとんどが年上だったという経験があります。

すると、どうしても上から目線で無理難題をいってくる人もいました。

そんなことが続いていたある日、わたしは個室で向き合っていたある事業部長に対して、机を思い切りバーンと叩き、「いい加減にしろ!」といいました。

「こっちがどれだけあなたの部のことを考えて、苦労しているのかがわからないのか!」と。

その頃は禅もなにも知らず、わたしは未熟でした。だから、怒りをぶちまけてしまったわけです。

でも、いったん怒りをぶちまけると、その人は目を丸くして、「そ、そうはいってもさ……」と小さくなってしまったのです。

いま思えば、あれは意図せず、禅の「喝(かつ)」をしたのかもしれません。「喝」とは、相手の目を醒まさせるということです。

わたしはその人のことが嫌いではありませんでした。ただ、「なにをいってもダメだ」と思ったので怒ってしまったわけです。

繰り返しですが、わたしの未熟さゆえ、怒りの感情が必要だったということです。

でも、立場が上の人に対しては、ときに毅然(きぜん)とした態度を取ることも必要なのだと思います。

■喝を入れたあとに忘れてはいけないこと

目上の人に対して「喝」なんて入れたら、そのあとのことは正直、結果はわたしにもわかりません(笑)。

でも大切なのは、喝を入れたあとに引きずらないこと。ある意味では「鈍感」になって、必ずフォローをする。たとえ気まずくても、「○○さん、昼ご飯行きませんか?」などと、むしろ勢いをつけて距離を縮めるフォローをするのが、相手に対する尊重の姿勢でしょう。

「喝」が、怒るのとなにが違うのかというと、あくまで自らが手綱を握り、自分の感情をコントロールしているということです。

かつてわたしの場合は、そこに怒りの感情が含まれていたのかもしれませんが……、本来は怒りをそのまま相手にぶつけるのではなく、きちんと手綱を握って伝えるイメージです。

立場の強い者に対しては、ときにそんな方法を取らなければいつまでも虐げられることもあり得ます。そして、相手はいつまで経っても目醒めないでしょう。

もちろん個々の状況によりますが、わたしの経験では、真正面から「NO」を突きつけた相手と、そのあとも長くつき合いが続いているケースは多いです。

むしろ、みんなが「おかしい」と思っていることは、リーダーが率先していわなくてはなりません。

「怒ることは自分に毒を盛るに等しい」ことは絶対に忘れてはいけませんが、自分よりも強い人に対しては、ときに怒りの感情をうまく「使う」ことも必要だととらえています。

■苦手な上司とは飲みに行ったほうがいいワケ

そうはいっても、「自分ではどうしようもない人がいる」という場合もあるでしょう。

特に、パンデミック以降はストレスが増えたせいか、より怒りやイライラがひどくなっている人が増えているかもしれません。

ただ、ひとつみなさんに心に留めていただきたいのは、相手だけでなく、あなたもまた変化しているということです。

「わたしは変わらない」と思う気持ちはわかりますが、そもそもこの世に変わらないものなどありません。

もしかしたら、あなたの気持ちも落ち込み気味だから、これまでは処理できていた怒りに駆られてしまうのかもしれません。

だからこそ、やはり自分を害する怒りの感情をコントロールすることが必要です。

怒りをぶつけるのではなく、むしろあなたが精神的に成長すれば、嫌な相手との縁は自然と細くなっていく。すると、目の前の景色もまた変わっていくでしょう。

もしあなたに苦手な上司がいて、まだあなたが会社を辞めるつもりがないのであれば、やはり苦手な彼ら彼女らと向き合うしかありません。

もちろん、無理をして自分を追い詰める場合もありますから、「いつでも逃げていい」のが大前提です。

ただ、概して上から目線で接してくる人は、実は「硬くなっている」のです。

そこで、もし気持ちに余裕があるなら、案外効果のあるアプローチとして、「許せない人と飲みに行く」方法もあります。まさに物理的に正面から向き合うわけですね。

ビールのグラスで乾杯
写真=iStock.com/AH86
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AH86

■飲みニケーションは禅の教えでもある

「1対1なんてあり得ない!」と思うかもしれませんが、他愛もない話を和やかにするだけでいいのです。そうして会社の外で向き合うステップを踏むことで、わだかまりが解けたり、ハードルを越えられたりすることは案外多いとわたしは見ています。

なぜなら、会社ではどうしても仕事モードになって、いわばお互い鎧を着けて話しているようなもので、どうしてもぶつかりがちになるからです。

「とりあえず飲みに行けばなんとかなるなんて、ただの昭和の“飲みニケーション”じゃないの?」と思う人もいるかもしれませんね。

でも、飲みニケーションはそんなにいけないことでしょうか? それこそ、そんな「いい、悪い」にこだわらなくてもいいんですよ。

もちろん、それを強制してはいけませんが、いまは人と接することに対して少し神経質になり過ぎている面もあるようです。

コミュニケーションが密接でないことで、救われる人がいるのはとてもいいことです。

一方で、正面からコミュニケーションするのを避けたために、相手の真意が見えなくなり、誤解や孤立を招いている面もあります。

相手と向き合う機会がなくなって、お互いに疑心暗鬼になってしまうわけですね。

■技術の進歩が認知能力を鈍らせている

人と人が向き合い、相手のことを五感で感じることを、禅はとても大事なことと考えます。「面授(めんじゅ)」という言葉があります。ポジティブなことでもネガティブなことでも、大事なことは、きちんと顔を見て伝えようという教えです。

島津清彦『元上場企業社長の「禅僧」に、今の時代の悩みをぶつけてみた。心が回復する禅問答』(プレジデント社)
島津清彦『元上場企業社長の「禅僧」に、今の時代の悩みをぶつけてみた。心が回復する禅問答』(プレジデント社)

実際に顔を合わせると、あなたは相手の顔だけでなく、その人の手の動きや呼吸の仕方、汗をかく様子など、さまざまな情報をまるごとキャッチできます。

だから、相手についてわかることがあるし、言葉足らずでも自然と伝わることもあるわけです。

人間は本来そのような認知能力に優れた生き物ですが、コミュニケーションのテクノロジーが発達したことで、逆に本来の機能を働かせづらい環境になりつつあります。

苦手な人と向き合う機会をどんどん遮断することで、かえって人間関係を改善する力が弱くなっていく場合もあるでしょう。ここに、さまざまなメンタルの問題が生じる原因があると見ることもできるのではないでしょうか。

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島津 清彦(しまづ・きよひこ)
経営コンサルタント、僧侶
1965年、東京都生まれ。ZENTech代表取締役CEO、シマーズ社長、禅メソッドアカデミー学長、曹洞宗僧侶。東日本大震災での被災を機に上場企業の社長というキャリアを捨て、2012年に経営人事コンサルタントとして独立起業。その後、多くの世界の一流リーダーが禅に辿り着くことを知り、自らも出家得度し仏門入り。著書に『元上場企業社長の「禅僧」に、今の時代の悩みをぶつけてみた。心が回復する禅問答』(プレジデント社)、『仕事に活きる禅の言葉』(サンマーク出版)、『翌日の仕事に差がつくおやすみ前の5分禅』(天夢人)など。

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(経営コンサルタント、僧侶 島津 清彦)

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