1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

国際ボランティアで出会った西アフリカの男性が日本で不倫三昧」離婚を決意した30代女性が落ちた試練の谷底

プレジデントオンライン / 2022年9月10日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nadezhda1906

現在40代の女性は、小さな頃から憧れていた青年海外協力隊に25歳で参加。西アフリカの国に赴任し、現地の7歳下の教員の男性と恋に落ち、帰国後に結婚。ところが、ある日、夫の不倫が発覚。それも複数人との接点が露呈した。離婚すると、1歳半の息子とともに実家に転がり込むが、コロナ禍で父親が腰の痛みを訴え、救急搬送された――。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■母親の目を気にして育った長女

早瀬須美さん(40代・独身)は、知人の紹介でお見合い結婚した薬品メーカーに務める39歳の父親と、パートとして社員食堂で働く35歳の母親のもとに長女として生まれた。4歳上には兄がおり、きょうだい仲は良かった。

ただ、母親は人を非難したり悪く言ったりするなど、マイナス面ばかり指摘するタイプで、人を褒めるのは下手だった。そのため、幼い頃の早瀬さんは自尊心が傷つき、自分に自信が持てずに育った。

「母に叱られても、基本反抗しません。しても母はヒステリックになるだけで、話を聞かず、ただうるさいからです。叱られたらいつも自分の部屋に逃げていました」

基本、母親に反抗しなかった早瀬さんは、大学生の頃にたった一度だけ、母親に対する憤りがたまりにたまって爆発したことがある。その時は、「お母さんは自分中心に世界が回ってると思ってるんだよ!」と言い、その後、3日ほど口を聞かなかったという。

「とにかく母は、“うるさい存在”とだけ思っていて、自分はデキナイ人、ダメな人だと思っていました。でも、私が確か年長か小学1年生の頃、一人で帰宅していた途中で雨か雪が降ってきたのですが、母親が迎えに来てくれた時の安心感はいまだに忘れません。それなりに愛情は感じていたんだと思います」

母親には、何をやっても文句を言われるため、相談事があっても、ほとんど母親には相談せず、父親に相談。すると父親からはいつでも、「自分で決めなさい」「健康を大切にしなさい」と言われた。

高校生になってからは積極的にアルバイトを始め、「自分のやりたいことは自分のお金でやる!」という「両親をあてにしない」行動をとるように。大学生になると、両親に黙ってホームステイを決断。すべて決まってから事後報告すると両親は2人とも驚いていたが、「気をつけなよ」「どこへ行くか住所を紙に書いておいて」という言葉をかけられただけで、とがめられることはなかった。

■海外に憧れホームステイや青年海外協力隊へ

早瀬さんは4歳ごろから英語教室に通っていたことから、「海外に行きたい」「住みたい」という気持ちが強くあった。そのため大学生になった早瀬さんは、これまでアルバイトでためたお金で、夏休みにアメリカへホームステイに行くことにしたのだ。

しかし、夏休み期間中だけのホームステイでは期間も短く、英語力の向上も十分に得られず、満足できなかった。大学を卒業すると、早瀬さんはIT企業に入社。プログラミングやパソコン講師の仕事をする。

それから約3年後、早瀬さんは社会人になってからためてきたお金を使い、6カ月間休職をして、イギリスに留学。このときは期間も十分で、ホストファミリーや学校関係者、同級生などと親しくなり、英語力も向上。満足のいく留学となった。

それからしばらくして、生花店を経営する男性と出会い、結婚を前提として交際をスタート。早瀬さんも生花店を手伝うが、激務な上、人のマイナス面ばかり指摘し、褒めるのが下手な男性は、時々早瀬さんの母親を彷彿とさせた。「このまま彼と一緒にいては自分がダメになる」と思った早瀬さんは5年ほどで婚約解消を申し出る。

その後、商社で派遣社員として働き始めると、グローバルに働いている人たちと出会う。その影響で、「自分を成長させたい」「ずっとやりたかったことをやろう!」と思った早瀬さんは、高校の頃、英語の教科書で知って以来、ずっと心の奥底で憧れ続けていた青年海外協力隊(JICA:独立行政法人国際協力機構)に思い切って応募。

「青年海外協力隊は、高校の英語の教科書に載っていて、『知らない国に行ってみたい』という好奇心と、『ちっぽけな自分でも役に立てるかも』と思い、憧れました。しかし、特に『専門』がなかった私は無理だと諦めていたのです」

3回不合格だったが、それでも諦めず、4回目に合格。早瀬さんは32歳になっていた。

派遣先が西アフリカにあるブルキナファソという国に決まると、両親に報告。母親からは、「親に甘えるのも親孝行だよ」と言われたが、承知してくれた。

西アフリカ地域の地図とブルキナファソの位置
写真=iStock.com/PeterHermesFurian
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeterHermesFurian

■現地・西アフリカの国・ブルキナファソでの出会い

青年海外協力隊で現地に赴くと、ホームステイ生活が始まった。約1カ月経つ頃には、近所に住むアフリカ人男性が、現地での生活に慣れない早瀬さんを、いろいろと助けてくれるように。

彼は買物や生活の手続きに同行してくれたり、彼の友人宅へ連れて行ってくれたりしてくれる。そんな生活から約3カ月後、彼との交際がスタート。

彼は、早瀬さんより7歳年下で、早瀬さんが暮らしていた都市から離れた田舎の小学校の教師だった。そのため、付き合い始めてすぐに遠距離恋愛に。早瀬さんは月に2回ほど彼の田舎を訪れて、彼が勤める小学校でボランティア活動をすることもあった。

アフリカ大陸の地図
写真=iStock.com/PeterHermesFurian
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeterHermesFurian

彼は、早瀬さんの悩みを聞いてくれたり、早瀬さんの活動に協力してくれたりしてくれて、優しさや思いやりがあり、頼りになる存在となっていく。やがて早瀬さんが2年の任期を終え、帰国しなければならない日が迫って来ると、彼も「日本で暮らしたい」と言う。

当時、周囲には現地の人と結婚した隊員が何人かおり、彼らから結婚に至る経緯やその後の話を聞くと、2人で日本に帰った。

両親に結婚したい旨を話すと、父親は理解してくれたが、母親は大反対。しかし、彼は諦めなかった。早瀬さんの母の日に花を送り、会うたびにいつも気遣う言葉をかけ続け、母の心を少しずつ開いていったのだ。やがて、早瀬さん35歳、彼は28歳で結婚した。

■帰国後に結婚したが、離婚発覚で離婚

帰国後、早瀬さんは、メーカーの秘書兼事務として働き始めた。一方夫は、就職活動をするが、苦戦。日本語が全くできない夫は、日本の企業に正社員として雇用されることが難しかったため、自治体が開く無料日本語教室に通ったり、知人に紹介してもらった深夜の居酒屋のアルバイトを通ったりして少しずつ覚えていった。

「日本に来たのは彼が望んでのことです。現地では仕事も少なく、給料も良くなかったので、2人でお金をためてからアフリカへ帰って、アフリカで暮らすという計画でした。また、同国出身で元隊員と結婚した人が数人近くに住んでいたので、孤独ではなかったのも彼にとっては救いでした」

結婚してから約2年半後、早瀬さんは息子を出産。産後は実家に息子を預け、約1年後に職場に復帰した。

ところが結婚から約4年後、夫の携帯に残っていた写真から、早瀬さんは不倫を疑う。夫に問い詰めると、一向に認めなかった。だが、メールや持っていた物から不倫関係にあった相手が1人ではなかったことが分かると、早瀬さんは夫を信用することができなくなり、離婚を選択。

男女間の口論
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

「なかなか正社員として雇用されない夫の代わりに、『私が大黒柱にならなくては』と、頑張りすぎてしまい、夫に対してキツく当たったり、ほったらかしにしてしまったことも、夫に不倫されてしまった一因だったと後から気づきましたが、もともと価値観の違いが大きく、たまたま不倫が離婚のきっかけとなっただけと思っています」

夫は離婚を認めず、調停離婚となり、終了まで10カ月ほどかかった。早瀬さんは、40歳になっていた。

■実家に出戻っての暮らし、父親が大動脈解離

離婚した早瀬さんは、1歳半になった息子を連れて実家を訪れ、「実家に戻らせてほしい」と両親に土下座して頼んだ。

父親は、「事情が事情なだけに仕方ない」と受け入れてくれたが、もともと結婚に大反対していた母親は、「ほら、やっぱり」と一言。

その頃、父親は77歳、母親は74歳。50代の頃に狭心症で倒れ、4カ月ほど入院していたことがある父親は、以降、健康オタクになり、食事や運動など気をつけていた。60歳で定年退職すると、その後嘱託として同じ会社で働き、65歳で完全に退職すると、高齢者専用フィットネスに週1回通い、トレーナーの資格を取得。週1でジムでの指導ボランティアをするほか、月2〜3回社会福祉法人のボランティアに参加し、障害者向け絵画教室のアシスタントを務める。そのうえ、株式投資もしており、会社説明会や株主総会へ出かけるなど、定年後の暮らしを積極的に楽しんでいた。

外科手術中の外科医チーム
写真=iStock.com/xmee
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xmee

同じく母親も、65歳で社員食堂のパートを辞めると、その後は父親と一緒に高齢者専用フィットネスに週1回通うほか、週2回フォークダンス教室、週1回体操教室へ通い、充実した老後を送っていた。

正社員として働いていた早瀬さんは、1歳半の息子の保育園の送り迎えは、車の運転ができる父親に一任。体調が優れないときの通院なども、率先して担ってくれた。

母親は食事の支度や洗濯など、家事全般を担当。時間があるときは、父親が保育園の送迎に出るときに、同行してくれるなど、積極的に孫育児に参加。花火大会や地域の行事に連れ出すなど、唯一の孫をとてもかわいがってくれた。

「両親とも、口では私に文句ばかり言っていましたが、なんだかんだでよく面倒を見てくれました。わが家に常に笑顔があるのは息子のおかげと思っています」

ところが、実家での穏やかで幸せな生活は、そう長くは続かなかった。

2020年に父親は、早瀬さんが仕事で不在の時間帯に大動脈解離を起こし、激痛に悶え苦しみ出した。それを見た母親と息子が救急車を呼ぼうとしたが、パニックになって消防車や警察を呼んでしまった。

何とか無事病院に搬送され、緊急手術を受けた後、約3カ月で退院でき、早瀬さんたちは胸をなでおろしたが、ほっとしたのはつかの間だった。

2021年になると、父親は腰の痛みを訴えるように。整骨院や整形外科へ通院したが、一向に良くならない。痛み止めを処方されるが、それでも痛みは治らず、ついに4月末頃、「痛くて眠れないから救急車を呼んでくれ」と深夜に起きてきた父親は、早瀬さんに頼んだのだ。

救急車が到着すると、目を覚ました母親が同乗。父親のことが心配だった早瀬さんは、10歳になっていた息子を起こし、自家用車で病院へ向かうことに。

時はコロナ禍。父親を乗せた救急車は、ほとんどの近隣病院に救急搬入を断られ、行き先が決まったのは、約40分かかる遠方の病院だった。(以下、後編へ)

----------

旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

----------

(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください