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「私は人生をかけてイギリスに奉仕したい」エリザベス女王が75年前に語っていた「女王になる覚悟」

プレジデントオンライン / 2022年9月9日 17時15分

2022年6月28日、スコットランド・エジンバラのホリールードハウス宮殿の庭園で行われた、女王のプラチナ・ジュビリー(即位70周年の記念式典)を祝う兵士たちのパレードを見守ったエリザベス女王 - 写真=PA Images/時事通信フォト

イギリスのエリザベス女王が96歳で亡くなった。在位70年の歴代最長の君主となったエリザベス女王は、なぜ長きにわたって愛されたのか。関東学院大学国際文化学部の君塚直隆教授の著書『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書)からお届けする――。

■25歳で即位した若き女王と「国王大権」

父の急死を受けて、1952年2月6日にウィンザー王朝四代目の君主となったのが、ジョージ6世の長女エリザベス2世(在位1952年~2022)である。翌53年6月2日に盛大な戴冠式も無事に済ませ、ここに新しい「エリザベス時代」が本格的に始まった。

戦後のイギリス政治は、保守党と労働党を中心とする二大政党制がしっかりと定着していた。女王にはかつての君主のような「国王大権(Royal Proregative)」は残されていないかに思われた。

しかし彼女が王位を継承した当初は、いまだ「首相の任免」に関する君主の大権は残っていたといえよう。1922年から党首選挙を導入していた労働党とは異なり、「党首は選ばれるのではなく自然に登場する」との信条から党首選のなかった保守党の政権交代の場合は特にそうだった。

1956年秋にイギリスは「スエズ戦争」で世界中から非難を受け、いまや帝国主義的で強硬な姿勢が通用しない時代になっていることをあらためて思い知らされた。病身の首相サー・アンソニー・イーデン(1897~1977)は翌57年1月に辞意を表明した。

この会見の席で、女王はイーデンに後継首班について助言を仰ぐことはなかった。通常は、保守党内で政権交代が行われる場合には、辞めていく首相(党首)が自らの後継者を君主に奏薦して御前を辞去するのが慣例であった。もちろんその場合には、次期党首は党内調整を経て「登場」していた。

■首相任命で発揮した調整力

1957年の首相選定については、イーデンは玉璽尚書のリチャード・バトラー(1902~1982)を後継者に推すのではないかと思われた。しかし女王は、バトラーをあまり好まなかったと言われる。ここでイーデンから「バトラー」の名前を出されてしまっては、引っ込みもつかなくなる。

イーデンとの会見を終えた女王は、すぐさま保守党幹部に相談させ、第2次大戦時の首相サー・ウィンストン・チャーチル(1874~1965)など「長老政治家」の意見も徴させ、最終的には蔵相のハロルド・マクミラン(1894~1986)に大命を降下した。

1953年2月、ロイヤルドレスを着たエリザベス女王
1953年2月、ロイヤルドレスを着たエリザベス女王(写真=AP通信/PD US no notice/Wikimedia Commons)

イーデンは「スエズ戦争」での失策により党内でも影響力を失っており、また当初は長期政権を担うであろうと期待された彼が、わずか2年足らずで辞意を表明したため、保守党内にも確固たる後継者がまだ「登場」していない状況だった。こうした非常事態を受け、女王が有する首相任免に関する大権も強大化したものと思われる。

さらに、そのマクミランが6年後の1963年10月に、病気を理由に突然辞意を表明した際にも、保守党内には「自然に登場できる」ような後継者は見あたらなかった。このときは病院に見舞いに訪れた女王に対し、マクミランが外相のヒューム伯爵(1903~1995)を推挙して「ヒューム首相」に決まった。

なお、このときすでに、イギリスでは国政の中枢を担うようになった庶民院で発言できない貴族院議員は首相にはふさわしくないとの判断で、首相職は庶民院議員に限られるようになっていた。ヒュームの場合には、ちょうどこの年に議会を通過した貴族法により一代に限って爵位を放棄し、補欠選挙で庶民院議員に当選してから首相に就任した。

■「君主制にとっては政治的中立こそが成功の最大の秘訣」

ところが、総選挙に慣れていないヒュームが首相に就いたこともあってか、翌64年10月に保守党は僅差で労働党に敗北し、労働党のハルロド・ウィルソン(1916~1995)が政権を担当することになった。そのウィルソンから「お上品な時代錯誤(an elegant anachronism)」と揶揄(やゆ)されていた保守党の党首選びのあり方は、党内からも批判が挙がるようになっていた。

こうして1965年2月からは、ついに保守党にも下院議員団による党首公選制度が導入されることに決まった。それも当初は現職が辞意を表明した場合に限られていたが、1975年からは毎年改選されるように変わった。労働党でも、議員団、労働組合、党員代表による全体会議での党首選挙が1981年から始められるようになった。

こうして、いまや首相任免に関する国王大権は形式的なものとなってしまったが、女王は敬愛する祖父のジョージ5世から引き継いだ叡智に基づき、保守・労働の二大政党の間で公正中立の立場を貫き、議会政治の危機にあたっては、各党指導者と協力しながらその解決に努めている。女王の最新の評伝にもあるとおり、「君主制にとっては政治的中立こそが成功の最大の秘訣(ひけつ)」なのである。

■英連邦の女王、コモンウェルスの首長として

そのエリザベス2世も、国制の上では、ヴィクトリア女王やジョージ5世以上に難しい立場に立たされているといえる。

彼女は、①グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国の女王、②カナダやオーストラリアなど海外一五ヵ国(英連邦王国)の女王、③コモンウェルス(旧英連邦諸国)の首長、というそれぞれの地位にある。そしてこの三つの間で「板挟み」になることも稀ではない。

たとえば、1970年にエドワード・ヒース(1916~2005)率いる保守党政権が、ヨーロッパ共同体(EC)へのイギリスの加盟実現を第一課題として掲げていたとき、この加盟に不安を抱いていたコモンウェルス諸国の首脳たちから横槍が入るのを恐れ、ヒース首相は翌年にシンガポールで開催される予定であったコモンウェルス諸国首脳会議(Commnwealth Heads of Government Meeting : CHOGM)に、女王が出席しないよう要請し、女王もこれを受け入れた。1953年に初会合が開かれて以来、女王が初めて欠席することになったのである。

それは政府と正面から衝突するのを避けようとした女王の英断によっていた。しかし翌72年にイギリスのEC加盟が内定するや、73年にカナダのオタワで開催されたCHOGMに、今度はヒース首相に事前に「通達」して、女王は晴れて出席することができた。

コモンウェルス(Commonwealth)こそは、政府や閣僚、現場の外交官らが政策決定の実権を握る戦後イギリス外交の世界のなかで、女王や王室がいまだに大きな影響力を残す舞台である。なかでもエリザベス2世は、1947年に初めて家族で訪れた外国が南アフリカ連邦であり、その折に次のようにラジオを通じて演説していた。

「私の人生は、それが長いものになろうが、短いものになろうが、われわれのすべてが属する大いなる帝国という家族への奉仕に捧げられることになるでしょう」

さらに、彼女は戴冠式を終えた5カ月後の1953年11月から半年にわたる世界周遊の旅に出かけるが、その行き先はほとんどがコモンウェルス諸国であった。

1954年1月25日、エリザベス女王とエディンバラ公フィリップ王配がニュージーランドを訪問した際に、ロイヤルトレインのティマル駅にて撮影
1954年1月25日、エリザベス女王とエディンバラ公フィリップ王配がニュージーランドを訪問した際に、ロイヤルトレインのティマル駅にて撮影(写真=Archives New Zealand/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons)

■あなたと私の間を結ぶ、個人的な生きた紐帯

女王夫妻が世界周遊の旅に出かける4日前に、当時の保守党政権のチャーチル首相は庶民院で次のように演説した。

「女王がこれから乗り出されようとしている旅は、ドレーク[16世紀のイングランドの海賊・航海者]がイングランドの船で初めて世界を一周した時に劣らぬ幸先の良い旅であり、女王が持ち帰られるであろう宝物も、ドレークに劣らぬ輝かしいものであろうかと思われるのであります」

女王の周遊はこのチャーチルの期待に違わぬものであった。たとえばオーストラリアでは、かつての祖父ジョージ5世も顔負けの活躍を示した。

このとき女王夫妻は、57日間で250以上の公務をこなし、70もの市町村を周り、自動車で207回、飛行機で33回の移動を行った。当時のオーストラリア国民(全人口900万人)のうち、女王夫妻を一度は見たという国民は、実に75%(600万~700万人)にも達していたとされる。

群衆に手を振るエリザベス2世。1970年ごろ、オーストラリア・クイーンズランド州にて
群衆に手を振るエリザベス2世。1970年ごろ、オーストラリア・クイーンズランド州にて(写真=Queensland State Archives/CC-BY-3.0-AU/Wikimedia Commons)

憲法学者の高柳賢三は、戦後の日本国憲法で天皇を「象徴」と表現する際に、GHQの高官たちが念頭に置いたのが、「英国王は英コモンウェルスの成員の自由な結合の象徴(Symbol of the free association of the members of the British Commonwealth of Nations)」であると規定した、1931年の「ウェストミンスタ憲章」の前文であったと指摘する。

かつてジョージ6世は、「君主というものは権威を付随した抽象的な象徴(abstract symbol)にすぎないが、国王自身は個人なのだ」と、コモンウェルスの首相たちに漏らしたことがあった。その長女のエリザベス2世は、即位して最初の「クリスマス・メッセージ」をニュージーランドのオークランドからラジオを通じて世界中に発信した。そのとき女王はこう語りかけている。

「私は君主というものが、我々の団結にとって単に抽象的な象徴であるだけではなく、あなたと私の間を結ぶ、個人的な生きた紐帯であることを示したいのです」

■アパルトヘイト廃止と女王の影響力

その女王が、コモンウェルスの人々との「個人的な生きた紐帯」の役割を果たした如実な事例が、彼女の最初の海外訪問地である南アフリカでの世界的な大事件と関わっていた。

1979年8月にアフリカ大陸で初のCHOCMとなったザンビア(ルサカ)の会議の折には、すぐ南隣の南ローデシア(1965年にコモンウェルスから脱退)の黒人差別政策を終わらせることが、最大の争点となっていた。しかしこの年にイギリスで首相に就任し、CHOGM初参加となったマーガレット・サッチャー(1925~2013)は、この問題に大した関心を示していなかった。主催国ザンビアの大統領ケネス・カウンダ(1924~)ら黒人首脳たちと、サッチャーとの間には冷たい空気が流れるようになっていた。

このとき、初日の晩餐会で一人部屋の隅にたたずんでいたサッチャーを、昔からの知り合いである黒人首脳たちが談笑する場に連れ出し、両者の間を取り持ったのが、ほかならぬ女王陛下であった。

サッチャーはこのとき、南ローデシア問題の深刻さを認識し、翌日の会議からはまるで別人になったかのごとくに積極的に発言し、翌月にはロンドンにあるランカスタハウスで南ローデシア各派の指導者を一堂に集めて交渉を開始させた。それは翌80年に、黒人にも初めて参政権を与えた「ジンバブエ(南ローデシアが改名)」の独立につながった。

こののち、サッチャーは再び黒人差別問題からは遠ざかってしまうが、このジンバブエ独立を呼び水に、さらに南隣の南アフリカ共和国(1961年にコモンウェルス脱退)で深刻化していた「アパルトヘイト(人種隔離政策)」を廃止に追い込むことが、女王や南アフリカの周辺諸国の黒人首脳らにとっての最終的な目標であった。

■女王でなければなしえない偉業

南アフリカへの経済制裁を渋るサッチャーを尻目に、女王は世界各国の首脳らとも裏で連携し、アパルトヘイト反対の闘士ネルソン・マンデラ(1918~2013)をついに釈放させることに成功を収める(1990年)。

この直後に、アパルトヘイトそれ自体もなし崩し的に崩壊していったことは周知の事実である。コモンウェルスの首脳たちと長年にわたる友好関係を保ち続け、世界中に知己を持つ女王でなければなしえない偉業であった。

この点については、歴代のイギリス首相たちも認めている。サッチャーの前任者であった労働党のジェームズ・キャラハンも「女王はコモンウェルスについての権威であり、私はその意見を尊重した。私は常に思っているのだが、このローデシアに関する女王の主導権は、いつ、いかなるかたちで、君主が自らの幅広い経験に基づき、さらには完全に立憲的節度をもって、大臣たちに助言し、奨励するべきなのかを示す申し分のない事例であった」と振り返っている。

また、サッチャーの後継首相となった保守党のジョン・メイジャー(1943~)はこう断言する。

「コモンウェルスをひとつにまとめ上げている最も重要な要素が君主制である。特に加盟国には女王に対する愛着が根強い。それもそのはずで、女王は加盟国のすべてについて毎回百科事典的な知識を披露してくれた。私もコモンウェルスに関わる問題をたびたび奏上したとき、『ああその問題はこうだと記憶しておりますよ……』と、女王陛下はその問題の起源から何からすべてを、もう何年も前のことなのに懇切丁寧に教えてくださったのだ」

2013年6月26日、擲弾兵総隊長である女王陛下がグレナディアガーズに新しいカラーを授与
2013年6月26日、擲弾兵総隊長である女王陛下がグレナディアガーズに新しいカラーを授与(写真=UK Government/OGL v3.0/Wikimedia Commons)

■「ダイアナ事件」の教訓

まさにエリザベス2世は、祖父ジョージ5世がバジョットの『イギリス憲政論』から学んだとおり、「この国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家」として、もちろん立憲君主としての節度も保ちながら、歴代の政府からの諮問に対して意見を述べ、奨励し、警告を発しながら政治に携わってきたのである。しかしその女王の長い治世にも危機的な状況は見られた。

それが、彼女の後継者であるチャールズ皇太子(1948~)がダイアナ妃(1961~1997)と離婚した翌年、1997年9月に起きた「ダイアナ事件」であろう。

8月31日にパリでの交通事故により突然の死を迎えた彼女に、その年に首相に就任したばかりの労働党政権のトニー・ブレア(1953~)が「彼女は民衆の皇太子妃(People's Princess)であった」と即座に追悼の姿勢を示したのに対し、ロンドンから北に800キロも離れたスコットランドのバルモラル城で静養中だった女王は、ダイアナが王室を離れたことを理由に、国民に哀悼の意を示すことはなかった。

それは当時の国民(特に大衆)の感情とは大きくかけ離れた行為であった。側近たちからの要請でロンドンに戻った女王は、事態の重大さに気づき、その後はダイアナに対し最大限の弔意を示すことで、事態は一応は収まった。

■開かれた王室への前進

この「ダイアナ事件」をめぐる一連の騒動には、1997年当時のイギリス社会の様々な問題が隠されていよう。サッチャー保守党政権時代に奨励された「自由競争」の原理により、国民の間で王室や貴族など上流階級に対する「恭順」という感覚が急激に衰弱したこと。

君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書)
君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書)

さらに同じくサッチャー主義によって、国民の間に経済的格差が広がり、特に下層階級(「置き去りにされた人々」と呼ばれる)の間ではダイアナに対する「自己投影(ダイアナも自分も弱者である)」が強まり、それが宮殿前に数万人以上が集まり花束がうずたかく積まれるという光景につながった。

それまで王室は国民から支持を集めていると信じて疑わなかったエリザベス2世は、こうした新たな状況にはついていけていなかったのであろう。

これ以後、王室はホームページや最新の通信手段を利用して、広報活動に邁進した。その成果もあってか、ヴィクトリア女王以来となる「在位60周年記念式典(Diamond Jubilee:2012年)」や「女王の90歳誕生日(2016年)」の頃までには、王室と国民が一体となってこの慶賀を盛大に祝うようになった。

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君塚 直隆(きみづか・なおたか)
関東学院大学国際文化学部教授
1967年、東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『悪党たちの大英帝国』『立憲君主制の現在』(後者は2018年サントリー学芸賞受賞、ともに新潮選書)、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』『物語 イギリスの歴史(上)(下)』(以上、中公新書)、『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』(光文社新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)、『女王陛下のブルーリボン』(中公文庫)、『女王陛下の外交戦略』(講談社)など多数。

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(関東学院大学国際文化学部教授 君塚 直隆)

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