「メイド3人に運転手付き」の生活だったが…「超エリートの男性との国際結婚」に私が抱いた強烈な違和感
プレジデントオンライン / 2022年9月14日 9時15分
■カンボジア人の夫との出会い
私がカンボジアの首都プノンペンで暮らし始めたのは1999年でした。日系企業で管理職を務めるカンボジア人の夫と生後10カ月の息子、そして住み込みのメイドさん3人とドライバーさん1人との共同生活でした。その2年前にはラナリット第一首相とフン・セン第二首相の武力衝突が起きたことも記憶に新しく、今振り返ってみるとそんな混沌とした状況にもかかわらず乳児だった息子とよく飛び込んだものだなと思います。
夫は少年時代に内戦を逃れ来日した元インドシナ難民で、中学校から大学院までを日本で修めていましたが私とは日本での面識はなく、プノンペンで起きた武力衝突のわずか数カ月前に私が大学の卒業旅行でカンボジアを訪れた際に出会いました。
彼はプノンペンから300キロ余り離れた古都シェムリアップ州を活動拠点とするNGO団体の代表を務め、児童養護施設運営、学校建設、アンコールワットなどの遺跡でのゴミ拾いを主な活動としながら自身はその活動資金の調達と生活のために働いていました。
12歳も年上で仕事もバリバリとこなし、日本語も堪能だった彼は、大学生の私には自信に満ちあふれた頼もしい人物に映りました。その後、彼が来日して私の両親に会ったときにも努力の末に獲得した高い日本語能力と人懐っこい性格で2人の心をつかみ、国際結婚のハードルを簡単に越えてしまったのでした。
■3人のメイドさんやドライバーさんのいる暮らし
私が息子と共に移住した頃、夫は治安の悪さから自分の勤務時間中に私が息子と外出することをとても心配していました。実際に近隣で発砲事件が何度もあり、交通事故の現場から何事もなかったように立ち去る車を目撃したこともあったので、日本にいるときと同じ感覚を持っていてはいけないと繰り返し言われました。3人のメイドさんやドライバーさんをそばに置いてくれたのは、たとえ家の中でも私と息子を2人きりにしないという配慮でした。
そのため、私が夫の不在中に外出できたのはミルクやおむつの買い出しぐらいで、それも日本なら徒歩で行けるような距離をドライバー付きの車で移動するというものでした。帰り道にカフェにでも立ち寄って息子と外の空気を感じながらゆっくりしたいと思っても、ドライバーさんが待ってくれていると思うとなかなかそうもいきませんでした。
専業主婦といえば、家事、育児に忙しいイメージですが、私の生活はそれとは全く違い、むしろ何もすることがありませんでした。なにしろ3人ものメイドさんが掃除、料理、洗濯、そして息子の世話まで全てやってくれるのです。
そんな毎日に我慢しきれず自分で掃除や洗濯したことが夫に見つかると、「彼女たちの仕事を取ってはいけない。君の行動が彼女たちを怠惰にする」と叱られました。反論したくもなりましたが、彼がそう言うのも私や息子の安全と不自由のない暮らしを考えてくれてのことだと思うと言い返すこともできませんでした。幼い息子がふさぎがちな気持ちを慰めてくれたこともあり、私の中で芽を出そうとしていた違和感を無意識に摘み取っていたのかもしれません。
■「僕は下着で体を拭いて、タオルを履くの?」
ある日、仕事から帰った夫のためにお風呂用のバスタオルと下着を準備していましたが、シャワーを済ませて出てきた夫が私に言いました。「僕は下着で体を拭いて、タオルを履くの?」バスタオルの上に下着を置くのは順番が逆だという意味で、彼の気性を象徴するような言い回しでした。
そのとき、私が抱えていたちょっとした違和感の輪郭がはっきりしてきたように思います。彼と私の関係性は夫婦、家族ではなく、上司と部下のようなものだな、と。彼から不本意なことを言われると、移住当初は私が激しく反論するため言い合いになることもありましたが、そのときは「ごめんね。」としか言いませんでした。
外国でメイドさんやドライバーさんがいる生活をしていると聞くと誰もが憧れるのかもしれないし、その生活に不満を持つようになったと言うと単にわがままなだけだと思われるかもしれません。
それでも自分の非力を感じる日々は苦痛で、もっと生きている手ごたえのある日々を送りたいと思うようになり、ひとつの提案をすることにしました。また上司と部下のような会話になるのが億劫だったので、シェムリアップに行って施設の運営に関わりたいとシンプルに告げました。
「治安の悪いプノンペンよりそのほうが安全だし、自分も安心して毎日仕事に行ける。週末には会いに行くから」と拍子抜けするほど簡単に承諾されました。余計なことは省いて伝えたのがよかったのか、無用な争いは回避できました。
■夫には合掌をして仰々しく挨拶
いよいよ引っ越しの日、プノンペンからシェムリアップまでは車での陸路移動でした。当時は飛行機か船ぐらいしか移動手段がなかったけれど、私がシェムリアップでも息子を連れて自由に動けるようにと車を1台準備してくれたのでした。振り返ってみると高収入の夫のサポートなしで自分のやりたいことにはたどり着けていなかったのだと思います。
夫に与えられたその車に乗り込み、夜明け前のプノンペンを出発しました。現在は長距離バスで約6時間の道のりですが、当時シェムリアップにつながる国道6号線は想像を絶する悪路で、私たちが施設に到着したのはお昼過ぎになっていました。
![子どもたちが薪の運搬作業をしているところ。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/8/1200wm/img_683feed8d6aab0584994875d66b5aa0b499766.jpg)
車が施設の敷地に入ると20名ほどの子どもたちが車を取り囲みました。夫にカンボジア式の合掌で仰々しくあいさつをする姿を見て多少の違和感を覚えましたが、私にはニコニコしながら「おかあさん!」と人懐っこく近づいてきました。息子はあっという間に敷地内に1軒だけあった高床の小屋の中に連れていかれ、代わる代わる抱っこされていました。その様子を見ていると、その後も安心して子守を任せられそうでした。
■経済孤児と向き合うということ
子どもたちは、田舎に親がいるけれど経済的な理由で養育が困難であるとして施設に入ってきた経済孤児と呼ばれる子たちで、内戦による戦災孤児の時代はすでに終わっていました。団体スタッフには数名のカンボジア人男性がいて全員私よりも年上でしたが、内戦後の混乱もあり一般的な学校教育はほとんど受けていませんでした。
子どもたちは、敷地内にある1つの井戸で洗濯、水浴び、料理の準備などを済ませ、1つだけあったタライで洗濯もすれば調理前の魚も洗っていました。水回りは整備されておらず洗剤や残飯が混ざって、ハエが無数に飛んでいました。朝はおかゆと干し魚、昼と夜はほとんど具のない塩辛いスープでご飯をたくさん食べてお腹を満たし、食事中にハエが飛び交うテーブルの上をさらに犬が通り過ぎていくというありさまに仰天しました。
育ち盛りの子どもにバランスのよい栄養を与えよう、もっと衛生的な環境を整えようという気がスタッフにはないように見えましたが、知識がないだけで悪気もないことにあとで気づきました。それとともに気になったのは、一緒に暮らしているはずの子どもたちの気持ちにまとまりがないように見えたことでした。
それらを確認できただけでも週末しかいない夫に代わり、私ができそうなことは確実にあると感じました。まずは子どもたちの名前を覚えるため顔写真を撮影し、名前を書き込みアルバムにしました。
■違和感の正体
そして、夫に電話して、子どもたちの1カ月の食費を2倍にしてもらい、栄養のある食事を出すことにしました。食費のことは承諾してくれたのですが、「子どもたちはきつく言い聞かせたり、力で抑えないと言うことを聞かないし、君みたいに優しくしているとなめられるから気をつけて」と忠告されました。
それを聞いたときに子どもたちが夫にだけやけに丁寧なあいさつをしていた理由が分かったような気がして、電話口では「分かった」と言いつつ、彼とは違うやり方で子どもたちと向き合うことを心に決めていました。
今から40年以上前、彼が10代の頃カンボジアはポルポト政権下で人々は強制労働の日々、少しでも反逆心があると思われるだけで命の危険にさらされる気の抜けない生活に耐えていた、と彼から聞かされたことがあります。
ポルポト政権下の厳しい時代を生き抜き、難民として日本に渡って異国で学校教育を受けることとなり、どれだけ大変な日々だったかと思います。
それに加え当時の日本は外国人、とりわけ東南アジアの人に対してはあからさまに排他的で差別的な社会だったので、嫌な思い出もたくさんあると聞きました。
物事の理解も早く運動神経も抜群で、負けん気の強さは人一倍の彼が出身国のみを理由に差別されたのはどれだけ悔しかっただろうと思います。
自分がそのようにして意地と努力で突き進んできただけに、他人に対してずいぶん厳しい面が目立つ人でした。
子どもたちをとことん突き放す彼のやり方と、小さいことを見逃さずに向き合って解決していきたいという私の考えは、プロセスが違っても自立を促すという着地点は同じだったのかもしれません。でも私にとってはそのプロセスこそが重要でした。
■ハエがひっきりなしに飛び回る
ほどなくして、私は自分の活動の原点ともいえるゴミ問題に手を付けることになります。遺跡でのゴミ拾いを活動としている団体にもかかわらず、施設内がゴミだらけという矛盾。ハエがひっきりなしに飛んでいる中で暮らすことは苦痛で、子どもたちの衛生環境のためでもありましたが自分のためにもこれだけはなんとか早期解決したかったのです。
酷暑期といわれ1年で一番暑いとされるカンボジアの4月、日中40度を超える炎天下で、1万平米もある敷地に散乱するゴミをかき集め、分別し、燃やしたり埋めたりしました。まるでプノンペン生活で失った自分を取り戻すかのように黙々と取り組んでいると、やがて数名の子どもたちが手伝ってくれるようになりました。
![施設を掃除する子どもたち。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/1/1200wm/img_7106bd591e83b811809234b44fddf2c9438165.jpg)
命令して手伝わせるよりも自発的に集まってほしいという願いがかない、作業中の会話を楽しむことでみんなとの距離も徐々に近づいていきました。子どもたちは、強制されるのではなく自主的に参加しはじめたこともあってか、徐々に歯車がかみ合うように協働がなされていきました。結果的にまとまりのなかった子どもたちの気持ちをひとつにし、衛生観念まで変化させるきっかけとなりました。
一方で、缶や瓶は売れるということを子どもたちに教えてもらい、敷地内のゴミ箱に売れるもの用を設置するというルールもでき、リサイクルの収入でおやつを買うこともできました。
■施設の習慣として朝夕2回の清掃が定着した
子どもたちがまだ知らないことは何なのかを探り、彼らの考えも聞きながら改善していくことが私の大きなやりがいになりました。これが夫とは違う私のやり方でした。今では施設の習慣としてすっかり定着した清掃は、気温の高い時間帯を避けて朝と夕方の2回行われ、広い敷地は清潔に保たれています。
![施設を掃除する子ども。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/a/1200wm/img_faef60090a2507894c02f736dacf92eb397243.jpg)
あれから20年以上が経ち、あのときの子どもたちは今や自分の子どもを連れて施設に手土産を持ってくる親となり、卒業生の1人は団体代表を務めるまでになりました。昔のスタッフのほとんどは現場を去りましたが、子どもたちと共に根気強く私に付き合ってくれた1人が現在の施設長で、奥さんも施設スタッフとして働いてくれています。
創立時には高床の小屋が一軒だけだった広い敷地には複数の建物が新築され、庭もある緑豊かなみんなの家になりました。コロナ禍前に受け入れていた年間数百名を超える施設見学者からも驚きの声が上がるほど清潔で安全な環境を実現しました。
そして私はというと12年前に離婚し、息子の養育と団体の運営をゆだねられるようになっていました。
![卒業生と交流する子どもたち。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/1/1200wm/img_f1bce442eaec2c43695e1c3a1840db5e447217.jpg)
■夫のおかげで豊かで濃密な20代、30代を送ることができた
子どもたちやスタッフとの関わりにおいて、異文化の人たちと向き合っていることを意識し、どうすれば相手に分かってもらえるのかを基準に語りかけることを心がけてきました。
そのため、夫が私に言ってきた「バスタオルと下着」の時のやりとりのように、こちらの不満や意見をいきなりぶつけることはせず、なめられると言われても相手の理由や意見を聞くことから始めました。
![メアス博子さん(一番左)と卒業生の家族。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/c/1200wm/img_dcc1c8d2c4c029f1d4d7dadb4d6b266b461384.jpg)
いくら心がけていても時には感情的になり自身の未熟さを思い知らされることもありましたが、そのときの反省がなければ時間をかけて丁寧に向き合うことで信頼関係ができるということにも気づけなかったでしょう。
20代の私は目前の取組が将来の何につながっているかなど考える余裕もなく、迷い、悩み、それでも進むしかなかったのだと思います。施設の卒業生たちが築いた新しい家族との幸せな姿や遠方の就職先から帰省したときに子どもたちと遊ぶ姿があの頃の答え合わせなのかもしれません。
豊かで濃密な20、30代を送ることができたと穏やかに過去を振り返る今、もしあのとき風呂上がりの夫がもっと違う言い方をしてくれていたらと考えることもあります。でも、施設運営を通じて得た私にしかない歩みを思うと、あのときの選択に間違いはなかったと納得しつつ、結局のところ私の人生をこれほど興味深いものにしてくれたのは元夫なのかもしれないなと思ったりもするのです。
![メアス博子さんと卒業生たち。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/0/1200wm/img_505d50f7b4fb6a0b4ac52106ed40ae76482342.jpg)
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カンボジアNGOスナーダイ・クマエ事務局長
1974年和歌山県生まれ。甲南大学経営学部卒業。2000年にカンボジアNGOスナーダイ・クマエの管理運営責任者に就任。2011年に代表に就任。2019年から事務局長。2009年からスナーダイ・クマエの子どもたちの絵画展を日本各地で開催している。
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(カンボジアNGOスナーダイ・クマエ事務局長 メアス 博子)
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