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なぜ学校の部活だけが「連帯責任」を問われるのか…同志社大アメフト部が果たすべき「本当の責任」を問う

プレジデントオンライン / 2022年9月17日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/skynesher

■日本はなぜ「連帯責任」を容認するのか

同志社大学アメリカンフットボール部の男子部員4人が、準強制性交の疑いで京都府警に逮捕された。同部は事件発覚後、無期限の活動停止と関西学生リーグ1部の出場辞退を発表した。日本における運動部活動では、部員による事件が発覚した際には、当該部活動が自主的に活動を休止する場合もあれば、学校から活動を停止させられる場合もある。さらには、加入しているスポーツ団体から、対外試合禁止処分を受けることもある。

本事件の重大さを鑑みれば、無期限の活動停止は避けられない処分であるという見解は多い。本稿では、部員による不祥事が生じた際の運動部活動における連帯責任の在り方について論じたい。

連帯責任の是非についてメディアで取り上げられる機会が多いのは、高校野球である。現在も部員による不祥事が発覚した際には、連帯責任が課される。日本学生野球協会は今月、下級生への暴力などのいじめがあった金足農業高校(秋田)に、3カ月の対外試合禁止の処分を下した。

また、部員による喫煙が発覚した酒田南高校(山形)に、1カ月の対外試合禁止処分を下した。一方で、近年の高校野球では、複数部員による組織的な関与が認められない場合、原則として処分は当事者にとどめられ、チームの責任は問われない方向にシフトしている。

■連帯責任を問えるための3つの条件

連帯責任に関する研究は海外でも行われている。連帯責任、すなわち “collective responsibility”の是非に関して、少なくない研究成果が存在する。中でも、政治哲学領域におけるJuha Räikkä(テュルク大学/フィンランド)やDavid Miller(英オックスフォード大学)の研究は、示唆に富んでいる。

両者を参考にすると、連帯責任が問われるのは、以下の3つの条件が満たされているにもかかわらず、当該行為に対して反対の行動をとらない場合だとされる。

①深刻なリスクなしに、反対する機会を持っている。
②容易に入手できる知識によって、反対する機会を持っている。
③反対することが完全に無益なものでなく、何らかの貢献できる見込みがある。

順を追って説明していこう。

■「未成年飲酒・喫煙」を一律に連帯責任としてもいいのか

ここでまず、直接的な被害者が存在しない不祥事事例(部員による喫煙、未成年飲酒)を検討してみたい。これらの事例は、直接的な被害者は存在しない。もちろん、飲酒によって暴行を加えられることや、受動喫煙によって健康を害されるといった間接的な危害は存在するが、直接的な危害を加える行為ではない。

そのため、いじめや暴行といった事例と比較すると、当事者の責任は軽いと言える。そのことに伴い、関与していない部員の連帯責任が問われるとしても、重くはない。

①~③に照らし合わせると、突発的に生じた部員による飲酒や喫煙の不祥事に対しては、関与していない部員に連帯責任を問うことは問題がある。なぜなら、部員は当該行為に反対していたとしても、喫煙や飲酒という個人的な行動を阻止することは現実的に極めて困難であるためである。ここではそもそも反対する機会を持っていないため、連帯責任を問うのは妥当ではないと言える。

ビールとタバコ
写真=iStock.com/gubernat
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gubernat

■反対する機会があり、何らかの貢献ができるかどうか

しかしながら、部員に飲酒や喫煙を促進させる風潮が存在した場合には、再考する必要がある。部員による飲酒や喫煙を知りながら反対や注意を促さず、また、黙認した部員には、連帯責任が生じる可能性がある。

なぜなら、部員は「②容易に入手できる知識(ここでは未成年の飲酒・喫煙が法律で禁止されていること)によって、反対する機会を持って」おり、また、「③反対することが完全に無益ではなく、何らかの貢献ができる見込みがある(ここでは部内の治安を良くできることなど)」ためである。

一方で、部員による飲酒や喫煙に反対の行動に出ることは、深刻なリスクに直面するケースもある。特に、上級生から下級生までのヒエラルキー構造が存在している部においては、上級生の飲酒や喫煙に対して、反対や注意を行うことは暴力やいじめの対象となり、部から排除される危険性を伴う。

このような状況において、反対の行動を起こすことができなかった下級生に、連帯責任を問うことは「①深刻なリスクなしに、反対する機会を持っている」の観点から問題がある。以上の点は、被害者が同じチームの部員である部内暴力(いじめ)の不祥事事例においても同様のことが言える。

■加害者の性的暴行を別の部員が止めることは不可能に近い

それでは、今回の同志社大アメリカンフットボール部員の事件のように、被害者が部とは関係しない一般人の不祥事事例についてはどうか。

これらの事例の多くは、加害者以外の部員にとって突発的に生じているため、関与しない部員が阻止することは極めて困難である。また、運動部自体が、一般人に対する性暴力を黙認・支持しているケースはまれである。性暴力を黙認・支持する風潮が現存している部に対しては、活動の停止や大会参加の辞退といった対処は妥当であるが、そのような風潮がなければ、一般人に対して性暴力を行った部員の責任を除き、関与しなかった部員に対して連帯責任を問うことは問題があると言える。

以上のように、海外の研究に照らし合わせれば不祥事に対して連帯責任を問うべきかどうかを区分することができるが、日本では様相が異なってくる。

『体罰の研究』『校則の話』(共に三一書房)の著者である教育評論家の坂本秀夫氏は、高校野球で連帯責任を課すのは前近代的な支配関係が残っているためであり、野蛮な現象であると主張した。自身の行為にだけ責任を持ち、他人の行為には責任を持たないことが近代法の常識であるという。また日本弁護士連合会は2011年に、スポーツ界でみられる連帯責任の考え方は、競技者の権利侵害につながると指摘している。

しかしながら、上述のように私は連帯責任否定論者ではない。個々の事例の状況を加味せずに、いたずらに連帯責任を課すことが問題であるとする立場である。その際に、RäikkäやMillerが示した条件を考慮することが重要であると考える。

■日本の連帯責任は「世間の批判をそらすための慣習的なもの」

とはいえ現実においては、運動部活動において不祥事が生じた場合には、個々の事例を加味せず、反射的に活動の停止や自粛を行う(または求める)傾向が根強く残っている。確かに、このような対処が現在の日本においては、世間からの批判を減らし、危機管理の観点からは有効である。

しかしながら、連帯責任を課されるべき対象ではない者達に対して納得のいく説明を行えず、これまでの慣習や空気で対処がなされることは好ましくない。この流れを日本でドラスティックに変えることは難しいが、少しずつ変えていく必要があると強く思う。

■コロナ禍で機会を奪われ、学生最後の舞台をも奪われた部員の絶望

連帯責任に関する以上のような問題意識は、アカデミックな学びによるところもあるが、私のスポーツ経験によるところも大きい。この度、筆をとったのは私が同志社大学の卒業生であるからではなく、また、アメリカンフットボールという競技を擁護するためでもない。アメリカンフットボールの経験はなく、特に思い入れがあるわけでない。私は大学の4年間、トライアスロンクラブに所属し、日本学生トライアスロン選手権(インカレ)で上位を目指すことを中心に、学生生活を送った。

現在は所属する大学で、トライアスロン部の監督・顧問を務めている。今月はインカレへ出場する部員と母校の部員の応援のため、15年ぶりに試合会場に足を運んだ。他大学の学生も含めてインカレは特別な舞台であり、最後のインカレとなる4年生にとってはより特別な舞台になっており、私が選手であった時代から変わっていなかった。

観戦の最中、一連の事件のために学生生活最後の舞台に立つことが許されなくなった、他のアメリカンフットボール部員が頭をよぎった。彼らはこの2年間、コロナ禍で晴れの舞台に立つことを奪われ続けてきた前提もある。幸いにも私は大学4年生の最後のインカレは、これまでのレースの中で最も良いパフォーマンスを発揮できた大会となった。仮にその当時、同じチームのメンバーによる不祥事により、最後のインカレを絶たれていたとしたら、その後、どのような人生を送っていたのだろうと、15年ぶりに訪れた試合会場で考えさせられた。

■東京五輪の汚職は「連帯責任」ではないのか

現在、五輪汚職が底沼の様相を呈している。莫大な税金が投じられた五輪において、連帯責任ではなく、当事者として責任を問われるべき方たちの責任は全く問われていない。そのような状況の中、東京五輪の招致・開催に関わった方たちが恥ずかしげもなく、2030年の札幌五輪への招致運動を進めている姿には、怒りを禁じえない。

また、五輪の招致・開催の一翼を担った、選手や監督達から声は上がってこない。競泳男子五輪メダリストの松田丈志氏が苦言を呈されたように、汚職事件にアスリートは沈黙を貫いている。上述のように、黙認という行為にも責任は生じる。

倫理的に問題のある行動を起こし続けたプロ野球選手や俳優を雇用する球団や事務所はもとより、その所業を知っていながら制止しなかった知人の連帯責任はないのか。運動部活動においては厳しい連帯責任が求められる一方で、社会人において責任が問われない現状は極めてアンフェアであり、教育的にも好ましくない。

連帯責任の問題は、運動部活動やスポーツに関してのみ顕在化してくるわけではない。会社における不祥事や国家による戦争犯罪の問題にも関わっている。犯罪加害者の家族が、事件後に受ける社会的制裁の問題にも関わってくる。個々の事例に沿った連帯責任を模索する必要があると考える。

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大峰 光博(おおみね・みつはる)
名桜大学准教授
1981年、京都府生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程修了。2017年より現職。専門はスポーツ哲学。著書に『これからのスポーツの話をしよう:スポーツ哲学のニューフロンティア』(晃洋書房)、『スポーツにおける逸脱とは何か:スポーツ倫理と日常倫理のジレンマ』(晃洋書房)などがある。

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(名桜大学准教授 大峰 光博)

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