まるで海の上を走っているみたい…しまなみ海道に世界中からサイクリストが集まるようになったワケ
プレジデントオンライン / 2022年9月25日 12時15分
■慶応ボーイ→商社マン→知事という異色の経歴
都道府県知事と聞いてどんな人物を思い浮かべるだろうか。東京大学卒の官僚出身者が通り相場ではないか。良く言えば真面目、悪く言えば堅物だ。
愛媛県知事の中村時広(62)はちょっと違う。生粋の慶応ボーイであり、振り出しは商社マン。「誰もやったことがないことをやる」「リスクを取って変化を起こす」を信条にしている。官僚特有の前例踏襲主義とは真逆だ。
2011年11月、台湾屈指の工業都市・台中市。中村は世界最大の自転車メーカー、ジャイアント・マニュファクチャリング本社を訪ねていた。
会談相手は創業者の劉金標、別名キング・リュー(英語の愛称)。当時77歳で、中村よりも26歳年上だ。だが、なお会長職にあって現役――会長退任は2017年1月1日――であり、しゃきっとしている。
■世界最大の自転車メーカーにトップセールス
ジャイアントはサイクリストの間では誰でも知っている有力ブランドだ。創業は1972年。もともとは米大手自転車メーカーの下請けだったのに、今ではトレックなど欧米有力メーカーを圧倒する存在だ。昨年の売上高は円換算でざっと4000億円に上る。
中村は切り出した。「自転車を使ってしまなみ海道ににぎわいをつくろうと考えています。会長のご意見をお伺いしたいのですが……」
ちょうど1年前の愛媛県知事選では「しまなみ海道を世界へ情報発信する」を公約に掲げて初当選。「世界一の自転車メーカーと組むのが手っ取り早いのではないか」とひらめき、自らトップセールスに臨んだのだ。
トップセールスのために海外を飛び回ることには何のためらいもない。1982年に慶応義塾大学を卒業して三菱商事に入社。政治家に転身するまで――最初は愛媛県議会議員――5年間にわたって営業マンとして鍛えられた。今でも営業マン的なセンスを大事にしており、県庁内に営業専門部署「営業本部」を設置しているほどだ。
■台湾を「自転車先進国」にした劉会長の実績
だが、中村は自転車に関しては素人同然だった。日本語がぺらぺらの劉はやんわりと異を唱えた。
「にぎわいから入るのは間違っているよ。自転車は人々に健康をプレゼントする、生きがいをプレゼントする、友情をプレゼントする。ここに切り口はある。にぎわいは後から付いてくる」
会談中にジャイアント会長が使ったキーワードは「新文化」だった。彼の考えでは、自転車は単なる移動手段ではなく、環境にも配慮したライフスタイルと一体化したツールなのである。
「新文化」は実体験に基づいている。劉は2007年に周囲の反対を押し切り、15日間かけて台湾を一周する長距離サイクリングツアーにチャレンジ。73歳でありながら、ざっと千キロメートルを走り切って台湾人に感動を与えた。
これをきっかけに台湾全土にサイクリングブームが巻き起こった。その後、台湾は自転車専用レーンを急ピッチで整備するなどで「自転車先進国」「サイクリング先進国」に躍り出た。
■「君も一緒に走ってくれるんだったら考えてもいいかな」
会談は30分間の予定だったのに「新文化」をめぐって話が弾み、すでに3時間を超えていた。ジャイアント会長に来日してもらい、しまなみ海道を盛り上げてもらわない手はない、と中村は思った。
「ぜひ日本に来て、しまなみ海道を走ってみてください」
「実は半年後に日本へ行く予定なんです」
当時、劉は「Green World on Wheels(自転車でグリーンな世界)」をテーマに掲げ、世界各地で長距離ツアーを計画。台湾一周を成功させた勢いに乗り、すでに中国(走行距離1600キロメートル)とオランダ(同500キロメートル)でもツアーを決行していた。
当時を知る関係者によれば、次の舞台として日本が浮上し、北海道が有力候補地として挙がっていた。知事はセールスマンシップを発揮し、単刀直入に思いを告げた。
「ならば予定を変えてしまなみ海道に来てくださいよ」
劉はすぐに応じず、「君も一緒に走ってくれるんだったら考えてもいいかな」と条件を付けた。
「ずっと付き合いますよ! 約束します!」
すると、劉はその場で役員を呼び付けて命じた。「半年後の日程変更!」
2人は初会談で意気投合し、その後、サイクリングを通じて固い友情で結ばれることになる。今でも家族ぐるみの付き合いをする間柄にある。
■試乗用モデルを自腹で購入、妻に怒られる
さて、半年後にしまなみ海道を走ると約束した中村。ロードバイクを持っておらず、長距離ツアーも未経験だった。これから準備しなければならないけれども、どこから始めようか……。
そうこうしているうちにジャイアント本社から県庁に1台の試乗用ロードバイクが届いた。受取人は知事本人。そこには「これに乗って準備してほしい」というメッセージが込められていた。
確かに中村はロードバイクを必要としていた。とはいっても、試乗用に乗り続けるわけにはいかなかった。ジャイアントへ返品しなければ知事個人が寄付を受けた格好になってしまう。
そこでジャイアント側には「私に乗ってほしいのならば請求書を送ってください」と連絡を入れた。試乗用がカーボンフレーム製の高級モデル「ディファイアドバンスド2」であるとは知らずに、である。
![ジャイアントの高級モデル「DEFY ADVANCED 2(ディファイアドバンスド2)」(ジャイアント公式サイトより)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/2/1200wm/img_5284018cdd00f2eba1bfba6bfcdd67dc299536.jpg)
しばらくして請求書が届いた。中村は値段――30万円以上――を見て驚いた。ロードバイクとはこんなに高いものなのか! 自腹だから妻に相談しなければならなかった。「国際問題になるからとにかく払ってくれと言ったら、怒られましたね」
ちなみに、中村は10年以上経過した今も古い「試乗用」に乗り、サイクリングに精を出している。毎年部品を取り換えてバージョンアップを繰り返しているうちに、ますます「試乗用」に愛着を感じている。
■1社のイベントから国際的な官民連携プロジェクトへ格上げ
しまなみ海道ツアー「日台交流・瀬戸内しまなみ海道サイクリング」は2012年5月10~15日に決まった。
もともとはジャイアントの社内プロジェクトであったのに、いつの間にか国際的な官民連携プロジェクトへ格上げされていた。開催場所が北海道からしまなみ海道へ変更されただけではなかったのだ。知事とジャイアント会長の心が通い合った結果、大規模なイベントに様変わりしたといえる。
裏方の存在も忘れてはならない。ジャイアントジャパン所属のプロライダーである門田基志(もとし)が愛媛在住で、彼のサイクリング仲間には県職員も含まれた。そんなことから、知事とジャイアント会長とは別ルートで双方の裏方がしっかりつながり、しまなみ海道ツアー実現に向けて奔走した。
■今治に「世界初の地方都市直営店」をプレゼント
劉と一緒にしまなみ海道を走破すると約束した手前、中村はサイクリングの練習を怠れなかった。
直前のゴールデンウイーク中、妻と一緒にジャイアント今治店に行き、ロードバイクをレンタル。続いてしまなみ海道の「サイクリングロード」――全長約70キロメートル――に入り、ほぼ中央に位置する「多々羅(たたら)大橋」までの往復80キロメートルを走った。
JR今治駅構内に店舗を構えるジャイアント今治店はしまなみ海道の終点に位置する。ここで中村夫妻がレンタルサービスを利用したのには訳があった。同店は「ジャイアントから愛媛県へのプレゼント」として、ゴールデンウイーク前にオープンしたばかりだったのだ。
![2012年にオープンしたジャイアント今治店。地方都市の直営店としては世界初](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/b/1200wm/img_0b8c0490c9ed4ea923516807471312cb986261.jpg)
「プレゼント」であるだけに今治店は異例ずくめの店舗だった。まず、ジャイアント伝統の堅実経営路線から逸脱し、「世界初の地方都市直営店」としてオープン。さらに、国内ジャイアント店としては初のレンタルサイクルサービスを提供していたほか、男女別のシャワールームまで備えていた。
■劉会長のお出迎えに700人のボランティア職員
「ジャイアントからのプレゼント」はもう一つあった。愛媛県警用にジャイアントが用意した特別仕様のマウンテンバイク16台だ。
マウンテンバイク16台の寄贈に合わせて県警では交通安全担当の自転車部隊「バイシクルユニット」が発足。スポーツ自転車による専門部隊は欧米では珍しくないものの、日本では初めてということもあって注目を集めた。
県側は2012年5月12日に贈呈式を予定。しまなみ海道ツアーに参加中のジャイアント一行が来庁するのに合わせれば、知事とジャイアント会長を交えた式典にできると判断した。
県側にしてみればできるだけ手厚いおもてなしで一行を出迎えたいところだった。ところが、同日はあいにくの土曜日。職員に呼び掛けてもせいぜい150人くらいしか集められないのではないか、と中村は予想した。
予想は見事に外れた。県庁本館前に総勢700人の職員が集まったのである。強制されたわけではないから全員がボランティアだ。
![2012年の「しまなみ海道サイクリング」参加中に愛媛県庁に立ち寄り、あいさつするジャイアント会長(当時)の劉金標氏。右隣は中村知事(ジャイアント・ジャパン提供)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/c/1200wm/img_acdb685a3ebdafb7cd0e25a304186e97843795.jpg)
■「愛媛県庁は暗い、は間違いだった」と謝罪
ジャイアント一行が到着する直前、中村はマイクを持ってボランティア職員をねぎらった。うれしくてたまらなかった。
「1年半前に皆さんのことを暗いと言いましたけれども、きょう皆さんの姿を見て間違いであったということに気付きました。心から謝罪させていただきます」
就任直後にマスコミとのインタビューで「ここは暗いですね~。見たことありません」と言い、県職員から顰蹙(ひんしゅく)を買ったエピソードを振り返りつつ、頭を下げたのである。大拍手が巻き起こった。
今治店もバイシクルユニットも「ジャイアントからのプレゼント」だ。だが、中村にしてみたら「劉会長からのプレゼント」のように感じられたのではないか。
■「ここは世界最高のサイクリングパラダイス」
言うまでもなく今治店もバイシクルユニットも前座にすぎなかった。本番を迎えて「しまなみ海道サイクリング」は一段の盛り上がりを見せた。
当然だろう。劉は台湾の財界人やメディア関係者ら40人以上を引き連れて来日し、4日間かけて270キロメートルを走破したのだ。日本側から中村を筆頭に100人以上が加わり――広島県知事の湯崎英彦も参加――総勢150人が参加するイベントになっていた。
![「しまなみ海道サイクリング」で並んで走る愛媛県の中村知事(左)と広島県の湯崎知事](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/8/1200wm/img_b8d02ba85a7b4fa4a4fe040b383f711e862493.jpg)
ジャイアント会長は瀬戸内海の多島美に感嘆し、「ここは世界最高のサイクリングパラダイス」と繰り返し公言。台湾は「日月潭(にちげつたん)」をはじめ魅力的サイクリングロードをいくつも抱えているというのに、である(しまなみ海道と日月潭は2年後に姉妹自転車道協定を締結)。
![しまなみ海道をサイクリングするジャイアント会長(当時)の劉金標氏](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/b/1200wm/img_ab539795a6b7f9293b40b8fb2172a3ee683848.jpg)
「しまなみ海道を世界へ情報発信する」という点では世界的な部品メーカー関係者の存在も見逃せない。参加者の中には台湾系サドルメーカー大手ベロの経営トップもいたし、アメリカ系変速機メーカー大手スラムの経営トップもいた。それぞれが独自の業界人脈を通じて「しまなみ海道はすごい!」と発信した。
■世界各地に広まる「しまなみ海道はすごい!」
そのうちジャイアントの世界ネットワークにも「しまなみ海道はすごい!」という情報は流れ込んだ。間もなくしてアメリカやヨーロッパ、オーストラリアなど各地の現地法人社長の間で「次のグローバル会議はしまなみ海道にしたい!」という大合唱が起きた。
ジャイアントのグローバル会議は通常なら本社所在地の台中市で開かれる。そこに世界各地の経営代表が集まり、座学研修や懇親会を行う。もちろんサイクリングもセットにして。
大合唱が起きた結果、2012年に限って開催場所は台湾ではなく日本になった。同年11月末、ランドマークタワー型ホテル「今治国際ホテル」に各国の現地法人社長が続々と現れた。同ホテルは直営のジャイアント今治店と同じ今治市にあり、しまなみ海道への玄関口として利用できるからにほかならない。
「まるで海の上を走っているみたい!」「こんな絶景は初めてだ!」――。ジャイアント一行は海峡を横断していくサイクリングコースに次々と感嘆の声を上げた。しまなみ海道と同様に瀬戸内海の島々をつなぐサイクリングコース「とびしま海道」へも足を延ばし、誰もが大喜びだった。
グローバル会議が終わると、各国の現地法人社長は母国に戻り、事あるごとにしまなみ海道ツアーの思い出話に花を咲かせた。複数の関係者によれば、メディア業界に広い人脈を持つアメリカ現地法人「ジャイアントUSA」の社長が“宣伝役”として大活躍したという。
欧米メディアの記者が「日本にすごいサイクリングコースがあるらしい」と聞き付けて、取材を始めるのは時間の問題だった。
■レンタルサイクルの利用台数は3倍以上に
先陣を切ったのは、外国人旅行者向けに日本の観光スポットを紹介する仏ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン。2013年2月発売の改訂第3版(フランス語版)にしまなみ海道が一つ星で登場した。
極め付きは米ニュース専門局のCNNだった。翌2014年6月に「世界で最も素晴らしいサイクリングルート」を7つ厳選し、この中にしまなみ海道を入れたのだ。世界的な影響力を誇るケーブルテレビ局によって報じられたことで、しまなみ海道は世界中のサイクリストの間で一躍有名になった。
その結果、国内外からしまなみ海道へやって来るサイクリストが大幅に増えた。数字の裏付けもある。最も分かりやすいのは、しまなみ海道のレンタルサイクル利用状況だろう。
中村が最初に知事に就任した2010年度を起点とし、新型コロナウイルスが発生する直前の2019年までのデータを見てみよう。レンタル台数(愛媛と広島両県合計)は4万8千台から14万9千台へ3倍以上に増えている。また、広島県尾道市によると、2018年度には約33万2000人のサイクリング客数が訪れたという。
■サイクリング中でしか見えない風景
愛媛県松山市にある県庁本館は重厚でレトロな雰囲気を漂わせている。それもそのはず、1929年完成の歴史的な建物なのだ。正面玄関前にサイクリストが最新鋭のロードバイクで正面玄関前に乗り付ければ、いやが上にも目立つ。派手なウエアを着込んでいたらなおさらだ。
だが、「しまなみ海道サイクリング」からちょうど10年経過した現在、サイクリスト集団が正面玄関前に現れても誰も驚かなくなった。県庁内に知事の肝いりで2015年に発足した自転車専門組織「自転車新文化推進室(現・自転車新文化推進課)」が象徴するように、ここではサイクリングは行政にしっかりと組み込まれているからだ。
インタビュー当日、中村は本館3階の会議室にノーネクタイ姿でにこやかに登場。健康的にほんのり日焼けしていてスリム。実年齢よりも若々しく見える。サイクリングで体を鍛えているからだろう。
実際、プライベートではサイクリングにはまっている。週末になると70~80キロメートルの行程を組んで愛車に飛び乗り、あちこちに出掛ける。「車で移動しているときと自転車に乗っているときとでは見える街並みが全然違う。サイクリングしていると『ここでは道路がへこんでいる』とか『あそこでは照明が暗い』とかいろんなことが分かるんですよ」
サイクリストコミュニティーやスポーツ自転車業界で愛媛県知事は高く評価されている。トップセールスでジャイアント創業者を動かし、日本にサイクリングブームをもたらした実績があるからこそである。今後の課題は何なのだろうか?
「正直言ってもう離陸しています。だから行政としては後押してあげるだけ。実際、いろんな動きが自然に湧き起こっています。しまなみ海道沿いには移住者が増えているし、カフェやレストラン、宿泊施設もどんどん建っています」
(第5回に続く)
(文中敬称略)
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ジャーナリスト兼翻訳家
1960年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール修了。1983年、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員や編集委員を歴任し、2007年に独立。早稲田大学大学院ジャーナリズムスクール非常勤講師。著書に『福岡はすごい』(イースト新書)、『官報複合体』(河出文庫)、訳書に『トラブルメーカーズ(TROUBLE MAKERS)』(レスリー・バーリン著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『マインドハッキング』(クリストファー・ワイリー著、新潮社)などがある。
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(ジャーナリスト兼翻訳家 牧野 洋)
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