1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

高速道路を封鎖して自転車を走らせる…世界中から愛好家が集まる「サイクリングしまなみ」3時間の奇跡

プレジデントオンライン / 2022年9月25日 12時15分

愛媛県の中村時広知事 - 写真=筆者撮影

瀬戸内海のしまなみ海道は国内外から年間33万台の自転車が通行する「サイクリストの聖地」である。その名物は、高速道路上で行われる「サイクリングしまなみ」。自転車のために高速道路を封鎖するというイベントは、愛媛県知事の尽力で始まった。ジャーナリストの牧野洋氏がリポートする――。(第5回)

(第4回から続く)

■「高速道路を止めて自転車に開放したらすごい」

イノベーションのためには妄想力が不可欠――。「スマートスキン」をはじめ数々の発明で知られるコンピュータ科学者の暦本純一。自著『妄想する頭 思考する手』(祥伝社)の中で妄想力の重要性を説いている。

〈本当にイノベーションを起こしたいなら、「こうあらねばならない」的な真面目路線のほかに、「非真面目」な路線を確保することが必要だと私は思う。つまり、人をキョトンとさせるような妄想を語る人間を排除しない〉

10年前の2012年にしまなみ海道を舞台にして開催された「日台交流・瀬戸内しまなみ海道サイクリング」は大成功した。地方自治体が世界最大の自転車メーカーであるジャイアント(本社台湾)を巻き込み、世界に向けてしまなみ海道を売り出せたのだ。

立役者は愛媛県知事の中村時広(62)だ。しまなみ海道を「サイクリストの聖地」として根付かせるためにはこれで終わりにしてはならない、と思った。とはいってもジャイアントに頼り続けるわけにはいかない。そもそも自転車メーカーはジャイアントだけではない。

どうしたらいいものか……。ここで妄想力を働かせた。高速道路を止めてサイクリストに開放したらすごいんじゃないか!

突拍子もないアイデアといえた。当時の日本にはまだサイクリングブームは訪れておらず、交通規制して高速道路上で国際サイクリング大会を開催するのは前代未聞だったのだから。

中村は当時を振り返ってこう話す。「瀬戸内海の絶景を見ながら広々とした高速道路を走る――。きっと爽快でしょう? その思いだけで突っ込んでいきました」

■広島県側は「そこまではちょっと付き合えません」

前例踏襲主義がデフォルトになっているのが官僚組織。誰もがキョトンとした反応を示した。県庁内では「そんなこと本当にできるんですか?」という不安が相次ぎ、広島県側からは「そこまではちょっと付き合えません」とつれない反応が返ってきた。

しまなみ海道は愛媛県・今治市と広島県・尾道市を7つの橋でつないでいる。サイクリングロードとして有名であるとはいえ、基本は自動車専用道路だ。広島県側の協力なしでは全面的な通行止めは難しい。

中村は全面開放を断念し、次善策として愛媛県側だけ部分開放して大会開催を目指すことにした。

■必死の陳情の結果、通行止めは「3時間限定」

部分開放で一件落着というわけではなかった。高速道路を止めるとなると、愛媛県は国交省や本州四国連絡高速道路(旧本四公団)などとも掛け合い、許可を得なければならなかった。

2017年に「自転車活用推進法」が施行されたこともあり、今でこそ国レベルで自転車への理解が高まっている。国交省は同法に従って地方自治体を指導し、自転車専用道やシェアサイクル施設の整備を進める立場にある。

だが、2012年当時は違った。国交省担当者は「自転車のために高速道路を通行止めにするなんて」と言い、困惑するばかりだった。

それでも中村は諦めず、何度も国交省に対して陳情を行った。最終的に2013年夏に条件付きで許可を得られた。「一度だけ通行止めを認めます。ただし3時間です。3時間たったら元に戻してください」

これを受け、愛媛県は同年10月に「プレ大会」を実施する方針を決めた。プレ大会は本当のサイクリング大会というよりも、課題を検証するための実験という位置付けだ。

■たった一度のチャンスで最大限のインパクトを

一度だけ与えられたチャンスを使って最大限のインパクトを与えたい、と中村は考えた。うまくやれば一度だけで終わらずに、正式に大会開催につながるとにらんでいた。

そこで県庁職員に呼び掛け、土日に予行練習を行った。運転免許センターの敷地でカラーコーンを設置・撤去してみたり、しまなみ海道に赴いてサイクリストを誘導してみたり、さまざまなシミュレーションを行った。

中村は「とにかく3時間以内ですべてを終わらせるという思いで、みんなボランティアで頑張ってやってくれました」と振り返る。

プレ大会当日、しまなみ海道に現れたのは愛媛県関係者だけではなかった。国交省や広島県からも視察団が訪れた。高速道路をサイクリストに開放するとどうなるのか、自分の目で確かめたかったのだ。

3時間限定のプレ大会なのに、全国各地から3000人のサイクリストがしまなみ海道に結集。サイクリングが始まると、まるでマラソン大会のように沿線住民からはエールが送られたた。知事自身も愛車にまたがってサイクリスト集団に加わった。

■プレ大会の「4秒の奇跡」で流れが変わった

結果はどうだったのか。予行練習の成果が出て、2時間59分56秒ですべてが終わった。中村の言葉を借りれば「4秒の奇跡が起きた」。これで一気に流れが変わったという。

関係者は感動すら覚え、にわかにやる気満々になった。国交省側はかたくなな態度を一変させ、「これはいける!」「いや~良かったね!」「次はいつやろうか?」と前のめりになった。広島県側は「今度は一緒にやりたい!」と目を輝かせた。

プレ大会の成功が起点になって瀬戸内地域の各自治体や経済団体が連携を強め、しまなみ海道を舞台にする「サイクリングしまなみ」が立ち上がった。高速道路をサイクリストに開放して実施する国際サイクリング大会は日本初だった。

中村は言う。「一般に役人はリスクを恐れて最初の一歩をなかなか踏み出せません。失敗を恐れちゃう。だから一発目にドーンと成功例をつくってあげるんです。そうすればみんな付いてくる。楽しそうであればあるほどいいですね」

■「サイクリングしまなみ」をまねする東京都

2014年10月の初回大会は大盛況のうちに終わった。7000人以上が参加し、いきなり国内最大規模のサイクリング大会に躍り出た。それだけではない。参加者のうち500人以上は台湾や韓国など世界31カ国・地域から来日した外国人。文字通り国際サイクリング大会になったのである。

高速道路をサイクリストに開放した国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ」、2016年。前方右は愛媛県の中村知事、前方左は広島県の湯崎知事
写真=愛媛県庁提供
高速道路をサイクリストに開放した国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ」、2016年。前方右は愛媛県の中村知事、前方左は広島県の湯崎知事 - 写真=愛媛県庁提供

以降、「サイクリングしまなみ」は数年ごとに開催され、年間33万人のサイクリストを引き付ける原動力になった。2020年には新型コロナウイルスの感染拡大で中止に追い込まれたが、今年10月には4年ぶりに再開される。初回大会同様に国内外から7000人の参加が見込まれている。

「サイクリングしまなみ」は斬新なビジネスモデルで社会に変革をもたらすソーシャルイノベーション――あるいはシビックアントレプレナーシップ――のお手本だ。愛媛県を中心に広域連携が実現し、前例踏襲主義を打ち破ったのだから。

インパクトは大きかった。瀬戸内に限らず日本全国レベルで、である。

例えば東京都。東京・お台場地区と都心部を結ぶレインボーブリッジを通行止めにし、サイクリストに開放するイベントを今年11月に開催する。8年遅れで「サイクリングしまなみ」をまねたのは明らかだ。

都知事の小池百合子は「レインボーブリッジを自転車で走り抜けてもらい、東京と自転車の魅力を大いに感じて」とコメントしている。

■最終目標は「四国をサイクリングアイランドにする」

歴史的に日本の地方自治体は豪華庁舎の建設に象徴される「箱モノ」行政に傾斜し、税金の無駄遣いと批判されてきた。

では、「箱モノ」の代わりに何を目指すべきなのか。ムーブメントである。社会的な運動や潮流と言い換えてもいい。ここでカギを握るのは「建物を造る」ではなく「人を動かす」である。

中村が2010年の知事就任早々に打ち出したビジョンには短期・中期・長期の3段階があった。第1段階は「しまなみ海道をサイクリストの聖地にする」、第2段階は「愛媛全体をサイクリングパラダイスにする」、第3段階は「四国をサイクリングアイランドにする」だ。

それぞれの段階に共通する要素が一つある。ムーブメントである。

というのも、どれも広域連携が不可欠のプロジェクトであり、愛媛県単独では前へ進まないからだ。第1段階では広島県、第2段階では県内の市町村、第3段階では香川、徳島、高知3県との連携が欠かせない。

■「おじさんライダー」が起こしたムーブメント

愛媛県がジャイアントと連携して「しまなみ海道サイクリング」を大成功させた翌年、2013年のことだ。中村は県内の全市長・町長20人に「週末に一緒にロードバイクに乗ろう!」と呼び掛け、一緒にしまなみ海道を走破した。翌年には県内の商工会議所など経済界にもラブコールを送り、さらにサイクリスト仲間を増やした。

首長や社長が自らサイクリストとしてお手本を示せば、県内にサイクリングブーム――つまりムーブメント――を起こせる、と読んだのである。

首長や社長となれば50~70代の中高年が中心だ。しかも、中村から「体形はどうであれ、ピシッとしたサイクルウエアを身に着けて来てください」と念を押されていた。ひるんだとしても全然不思議ではない。

ところが、である。サイクリング当日になると、まるで申し合わせたように多くの「おじさんライダー」が集まった。強制ではないというのに。

知事を筆頭にした「おじさんライダー」がサイクリングする様子は地元テレビでも放送された。すると、県庁には「あんなおじさんたちがあんな格好して走っている! 楽しそう!」という声が続々と寄せられた。

知事はTED(テッド)トークの動画に感化されたのだろうか。

アメリカで生まれたTEDトークは、各界の著名人や専門家を招いて世界へアイデアを広がるスピーチフォーラムのことだ。2010年のTEDトークで使われた動画「ムーブメントをどうやって起こすか」は大きな反響を呼び、起業家や経営者の間でバイブルのような存在になっている。

■はかま姿で中国の人気曲を歌う異例の動画

妄想を働かせて前例踏襲主義を打破したり、多くの自治体を巻き込んで新たなムーブメントを起こしたりしている中村。明らかに型破りである。今でも商社マン気質を堅持しているからだろう。

実際、世界を相手にする商社マンよろしく、世界を飛び回っている。知事就任から10年余りでインドを除いてアジア主要国をすべて訪問。7月末には県内の経済人80人前後を引き連れてベトナムへ飛び、トップセールスを行った。

9月初めに愛媛県が発表したPR動画が斬新だ。知事が自ら出演するミュージックビデオなのである。

愛媛県のユーチューブ公式チャンネル上では「~歌唱編~知事と中国人歌手・叶里さんが夢の競演!」とのタイトルが躍っている。動画の中で中村は何とはかま姿でマイクの前に立ち、中国の人気歌手・叶里(イエリー)と一緒に彼女の代表曲を中国語で歌っている。

愛媛県はPR動画を中国で配信し、中国の大手EC(通販)サイト経由で県特産品の拡販につなげたい考えだ。日本の地方自治体が営業目的のPR動画を外国のECサイト向けに制作するのが異例であるならば、首長が自ら営業マンになり切ってPR動画内で外国語の歌を熱唱するのも異例だ。

■県庁・営業本部の売上高は230億円

県庁内には知事の肝いりで立ち上がった異例の組織もある。「営業本部」だ。地方自治体が営業専門部署を設けるのは珍しい。少なくとも10年前の発足時点では全国の自治体で初のケースだった。

いったい営業本部は何をしているのか。70人前後の職員が営業マンとなって国内外を飛び回り、県内の中小企業を対象に販路拡大支援を行っている。年間売上高――営業本部経由で地元企業にもたらされる追加的売上高――は営業本部発足時に8億円だったのに、今では230億円近くに達しているという。

リーダーが型破りであれば部下は戸惑い、軋轢(あつれき)も生まれる。失敗した場合のリスクも大きい。だが、中村は気にしていない。「リスクがないところに発展はないと思っていますから」

■プー太郎時代にひらめいた「松山-松山」路線

中村は政治家として順風満々なキャリアを歩み続けてきたわけではない。

1990年代後半には苦汁をなめている。1993年の衆議院選挙で初当選し、1996年の選挙で再選を目指したものの、わずかに及ばずに落選。1999年に松山市長に初当選するまで、本人いわく「プー太郎していた」。

中村時広(なかむら・ときひろ)氏。1960年生まれ。慶応大学法学部を卒業後、1982年に三菱商事に入社。愛媛県議、衆議院議員、松山市長を経て2010年から現職
写真=筆者撮影
中村時広(なかむら・ときひろ)氏。1960年生まれ。慶応大学法学部を卒業後、1982年に三菱商事に入社。愛媛県議、衆議院議員、松山市長を経て2010年から現職 - 写真=筆者撮影

もちろん無為に過ごしてわけではない。まだ30代後半であり、エネルギーにあふれていたのだから当然だ。見聞を深めるためにバックパック一つで海外を転々と放浪してもおかしくない。

実際、中国から韓国経由で台湾に入り、1カ月間にわたって一人旅をしていた時期があった。首都・台北市の訪問中のことだ。国際空港の「台湾桃園国際空港」のほかに国内線専用の「台北松山(しょうざん)空港」があることに気付いた。

愛媛・松山生まれで、地元の松山空港を愛用してきた元衆議院議員。自然な成り行きとしてひらめいた。松山空港発、松山空港着の国際チャーター便を飛ばしたら面白いのではないか!

単なるダジャレではないのか、と一蹴する人も多いだろう。だが、言い方を変えれば妄想力でもある。台湾も巻き込んだ「アジアの広域連携」というソーシャルイノベーションにつながるのだから。

■愛媛・松山市長が台湾の航空行政当局と交渉

松山市長就任後、中村は「松山-松山」を思い出し、市の幹部2人を連れて台北市に飛び立った。持ち前のセールスマンシップを発揮し、同市松山区の区長と直談判して「松山-松山」の国際チャーター便実現を働き掛けようと考えたのだ。松山区は松山空港の所在地だ。

台北・松山区側は総出で愛媛・松山市側の3人を歓待した。何と職員30人を集めて宴会を開催。中村は「3人とも酒でやられました(笑)。そこからすべてが始まったんです」と回想する。

宴会は前哨戦にすぎなかった。大きな壁として立ちはだかったのは台湾の航空行政当局。当初は「松山空港は国内線専用。国際便は飛ばせない」と言い、松山市側の要望を一蹴。国際線導入後にも「就航先は主要都市。日本については羽田空港に限る」との理由を挙げ、一切妥協しなかった。

中村は「役人とはどこも同じなんだ」と思いつつ、粘り強く交渉を続けた。しゃくし定規な対応に我慢できなくなり、台湾当局側に「同じ名前なんだからいいじゃないか!」と罵声を浴びせることもあった。

膠着状態を打開してくれたのは台湾の立法委員(国会議員)で親日派の李鴻鈞(りこうきん)だった。中村が当局との交渉に臨む際に同席し、「ガンガンやってくれた」という。

結局、「松山-松山」」のチャーター便は2013年10月になって実現した。中村が松山市長から愛媛県知事に転じてすでに3年たっていた。

中村は一国の元首ではなく地方自治体の首長にすぎない。にもかかわらず、事実上の外交交渉を行い、台湾当局から政策変更を引き出したといえる。

■妄想力があれば、点と点は必ずつながる

中村の経歴を点検すると、数十年前から一貫して台湾と深いつながりがあることが分かる。知事就任以降を見ても、①2012年に台湾のジャイアントとの連携で「しまなみ海道サイクリング」が実現、②2017年に台湾一周サイクリングをモデルにした「四国一周サイクリングルート」が完成、③2019年に台湾桃園国際空港と松山空港を結ぶ定期直行便が就航――をはじめ、台湾関連の実績は枚挙にいとまがない。すべてシナリオ通りなのか?

台湾との姉妹自転車協定と国際大会「サイクリングしまなみ」を記念して建立された記念碑「サイクリストの聖地」
写真=筆者撮影
台湾との姉妹自転車協定と国際大会「サイクリングしまなみ」を記念して建立された記念碑「サイクリストの聖地」 - 写真=筆者撮影

中村は「単なる偶然です」と言う。「松山市長になった当初は自転車を使う発想も持ち合わせていませんでしたから」

米アップルの創業者、故スティーブ・ジョブズには次の名言がある。「前もって点と点をつなげることはできません。後で振り返って初めてつながっていたと分かります。だから、いつかは点と点がつながると信じて行動することが大事です」

四半世紀前の「プー太郎」時代に初めて「松山-松山」を思い付いた中村。最初は点と点はつながっていなかった。だが、妄想力が働き、最後には点と点はつながったのである。

(文中敬称略)

----------

牧野 洋(まきの・よう)
ジャーナリスト兼翻訳家
1960年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール修了。1983年、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員や編集委員を歴任し、2007年に独立。早稲田大学大学院ジャーナリズムスクール非常勤講師。著書に『福岡はすごい』(イースト新書)、『官報複合体』(河出文庫)、訳書に『トラブルメーカーズ(TROUBLE MAKERS)』(レスリー・バーリン著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『マインドハッキング』(クリストファー・ワイリー著、新潮社)などがある。

----------

(ジャーナリスト兼翻訳家 牧野 洋)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください