なぜカメラにこだわり続けたのか…ニコンとキヤノンが取り逃した「半導体露光装置」という巨大市場
プレジデントオンライン / 2022年9月29日 11時15分
※本稿は、野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)の一部を再編集したものです。
■時価総額でトヨタに匹敵する「オランダのASML」
オランダにASMLという会社がある。この会社は、オランダの企業の中で時価総額が最大だ。オランダのトップ企業はフィリップスだと思っていた人にとっては驚きだ。「そんな会社、聞いたこともない」という人が多いだろう。実際、ASMLは、歴史の長い企業ではない。
生まれたのは1984年。フィリップスの一部門とASM Internationalが出資する合弁会社として設立された。そして、フィリップスのゴミ捨て場の隣に建てたプレハブで、31人でスタートした。現在の時価総額(*)は2642億2000万ドル。世界の時価総額ランキングで32位。29位のトヨタ自動車とほぼ並ぶ。時価総額は、トヨタ自動車2742億5000万ドルとほぼ同じだ。世界第678位のフィリップス(293億5000万ドル)の10倍近い(*時価総額は2022年2月の計数。以下同様)。
ASMLの2020年の売上高は160億ドル(約1兆8000億円)、利益(EBIT:利息及び税金控除前利益)は46億3000万ドルだ。トヨタ自動車の場合には、売上が2313億2000万ドル。利益は169億9000万ドルだ。売上に対する利益の比率は、ASMLが遙かに高い。しかも、従業員数は2万8000人しかいない(2020年)。トヨタ自動車(37万人)のわずか7.6%である。
■かつてはニコンとキヤノンのライバル会社だったが…
ASMLは、最先端の半導体製造装置を作っている。極小回路をシリコンウエハーに印刷する極端紫外線(EUV)リソグラフィと呼ばれる装置だ。大きさは、小型のバスくらい。この技術は、ASMLがほぼ独占している。年間の製造台数は50台ほどだ(2020年度は31台。21年は約40台、22年は約55台の見通し)。
1台あたりの平均価格が3億4000万ドル(約390億円)にもなる。大型旅客機が1機180億円程度といわれるので、その2機分ということになる。主なクライアントは、インテル、サムスン電子、TSMC(台湾積体電路製造股份有限公司)などだ。
半導体露光装置は、もともとは、日本の得意分野だった。ニコンが1980年にはじめて国産化し、90年にはシェアが世界一になった。キヤノンも参入し、95年頃まで、ニコンとキヤノンで世界の70〜75%のシェアを占めた。ASMLの最初の製品も半導体露光装置だった。この時代、キヤノンやニコンは、ゴミ捨て場に誕生した会社のことなど、歯牙(しが)にもかけなかっただろう。しかし、ニコン・キヤノンのシェアは、1990年代後半に低下していった。
その半面で、90年には10%にも満たなかったASMLのシェアは、95年には14%にまで上昇し、2000年には30%になった。10年頃には、ASMLのシェアが約8割、ニコンは約2割と逆転した。そして、キヤノンはEUV露光装置分野から撤退した。ニコンも、2010年代初頭に、EUV露光装置の開発から撤退した。
■「すべてを自社で内製化する」が日本企業の敗因
ASMLとニコン、キヤノンの違いは何だったのか? それは、中核部品を外注するか、内製するかだ。ASMLは中核部品を外注した。投影レンズと照明系はカールツァイスに、制御ステージはフィリップスに外注した。
自社で担当しているのは、ソフトウエアだけだ。製造機械なのに、なぜソフトウエアが必要なのか? 半導体露光装置は「史上最も精密な装置」と呼ばれるほど複雑な機械であり、安定したレンズ収差と高精度のレンズ制御が重要だ。装置として完成させるには、高度にシステム化されたソフトウエアが不可欠なのだ。自動車の組み立てのように人間が手作業で作るのではなく、ロボットが作るようなものだから、そのロボットを動かすためのソフトウエアが必要なのだと考えればよいだろう。
それに対して、ニコンは、レンズはもちろんのこと、制御ステージ、ボディー、さらにソフトウエアまで自社で生産した。外部から調達したのは、光源だけだ。このように、ほとんどを自前で作ったため、過去の仕組みへのこだわりという問題が生じたといわれる。また、レンズをどう活用して全体の性能を上げるかよりは、どうやってレンズの性能を引き出すかが優先されるという問題が発生したともいわれる。
結局、日本型縦割り組織を反映してすべてを自社で内製化しようとする考えが、負けたのだ。
![シリコンバレーにあるASMLのオフィスビル](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/6/1200wm/img_26502f27bedf3b4fb6f5f4d8877e3c58382900.jpg)
■核になる技術を持っていたからこそ成功できなかった
キヤノンもニコンも、核になる技術、つまり「レンズ」を持っていた。それに対してASMLは、部品については、核になる技術を持っていない。レンズすらも外注している。他社が作っているものを、ただ寄せ集めているだけのようにさえ見える。しかし、それにもかかわらず、売上高の3割という利益を稼ぎ出すことができる。このことは、ビジネスモデルに関する従来の考えに反するものだろう。
いままでは、「企業は核になる技術を持っていなければならず、その価値を発揮できるようなビジネスモデルを開発することが重要だ」といわれてきた。しかし、ASMLは、このルールには当てはまらない。
部品について、ASMLは製造者ではなく購入者であったため、品質評価が客観的であったといわれる。また、多くの技術を他社に依存する必要があったため、他社と信頼関係を築く必要があった。そして、顧客であるTSMCやサムスン、インテルなどと連携して、技術と知識が蓄積された。それが成功につながったといわれる。
それに対して、技術力が高いニコンは、他社と協業するという意識が低かった。それが開発スピードを低下させ、開発コスト負担増を招いたというのだ。
■カメラに注力しなければ、世界は変わっていたかもしれない
現在のキヤノン、ニコンはどのような状態か? キヤノンは、時価総額が255億9000万ドル、世界第759位だ(2020年1月時点)。2007年には784億ドルだったのだが、このように減少した。
ニコンは、時価総額が41億8000万ドルで、世界第2593位だ。07年には126億ドルだった。2007年には、ASMLの時価総額は126億ドル程度で、ニコンとほぼ同じ、キヤノンの6分の1だった。しかし、いまでは、キヤノンの10倍程度、ニコンの60倍程度になってしまった。こうした状態では、日本の賃金が上がらないのも、当然のことといえる。
日本企業敗退の原因は、さきほど見た自社主義だけではない。もう一つは、ビジネスモデル選択の誤りだ。つまり、カメラという消費財に注力したことだ。もし、2000年代の初めに、キヤノンやニコンがデジタルカメラに注力するのでなく、半導体製造装置に注力していたら、世界は大きく変わっていただろう。
■給与が高い企業は、なぜ高い給与を出せるのか
2010年頃、日本では、円高などが企業にとっての「六重苦」になっているといわれた。そして、「ボリュームゾーン」を目指した戦略を展開すべきだといわれた。これは、勃興してくる新興国の中間層をターゲットに、安価な製品を大量に供給しようというものだ。ASMLとは正反対のビジネスモデルだ。そして、日本ではこの方向が受け入れられ、企業経営者もそれを目指した。その結果が、いまの日本の惨状なのだ。
![野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/1/1200wm/img_c13ef38938fbb2b5c0c678a88804d4c3214793.jpg)
もちろん、将来がどうなるかは分からない。半導体の微細化をさらに進めるために、三次元の回路を作ることも考えられている。そうした技術が実用化されたときに、はたしてASMLが生き残れるかどうかは、誰にも分からない。日本企業が再逆転してほしいが、はたしてできるだろうか? 奇跡が起こることを祈る他はない。
日本の上場企業の従業員平均年収について、ダイヤモンド・オンラインが毎年特集を出している。2021年の場合、トップはM&Aキャピタルパートナーズで、2269万9000円だ。一方、年収200万円台の企業もある。上場していない会社なら、年収がもっと低い会社もあるだろう。
このように、企業によって、給与には非常に大きな差がある。では、給与が高い企業は、なぜ高い給与を出せるのか? それは、業績がよいからだ。そのとおりなのだが、業績とは一体なんだろうか? どのような指標でそれを測ればよいのか?
■給与水準は従業員一人あたりの「粗利益」によって決まる
給与水準を決めるのは、従業員一人あたりの「粗利益」である。問題は、これが何によって決まるかだ。
これを見るために、年収リストの上位にある企業からいくつかを取り出して、様々な指標を計算すると、図表1のようになる(従業員数が少なくて高年収の企業はホールディング・カンパニーである場合が多く、以下の分析に馴染まない。そこで、ここでは、単体従業員数が500人以上の企業を対象とする。また、金融機関は会計方式が違うので、対象としない)。
![【図表1】企業の付加価値、給与等(2021年3月期)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/5/1200wm/img_b5f820dbe858f3c67e9ed6c55c9985ab399778.jpg)
これを見ると、年収が1000万円を超える企業は、つぎの2つのタイプのどちらかであることが分かる。第1は、「従業員一人あたりの売上高(e)が大きい企業」だ。これが大きくなるのは、その企業の全体としての売上高が大きいからだ。つまり、企業が巨大であるからだ。
例えば、不動産業の場合、零細不動産業者では、大規模な物件は扱えない。信用もないし、資金力もないからだ。大規模な取引は、巨大企業でなければできない。卸売業でも同様の事情があるだろう。もちろん、巨大であるだけで、大規模な取引ができるわけではない。それを遂行できる能力のある人がいることが重要だ。
■「売上に対する付加価値の比率」がずば抜けて高いキーエンス
ただし、巨大さが必要条件であることは事実だ。総合商社や不動産業の場合に、こうした事情が顕著に表れる。そのため、高給与の企業は、三井、三菱、住友など、旧財閥系の企業であることが多い。
なお、これらの企業の売上高・付加価値比率(f)の値は、表中の他企業に比べると低い。年収が1000万円を超える企業の第2のタイプは、「売上に対する付加価値の比率(f)が高い企業」だ。この比率は、キーエンスがずば抜けて高く、80%を超えている。これは、同社がファブレス(工場のない製造業)だからだ。また、東京エレクトロンや、ファナック、横河電機も高い。
このタイプの企業になるには、企業規模が巨大である必要はない。事実、いま名を挙げた企業の売上高は、トヨタ自動車に比べると、ずっと少ない。トヨタ自動車は、売上高や従業員数でいえば巨大な企業だが、生産性(g)はさほど高いとはいえない。
■企業規模が巨大であっても、高年収であるとは限らない
図表1には、高度成長期の日本経済を支えた日本を代表する企業が含まれている。トヨタ自動車は、このカテゴリーに含まれる。これらの企業では、従業員平均年収が1000万円未満だ。これらの企業では、従業員一人あたりの売上高(e)が、さほど大きくない。また、売上高に対する粗利益の比率(f)もさほど高くない。多くは20%台、あるいはそれ以下だ。
三菱重工業もトヨタ自動車も、20%未満だ。キーエンスの場合に、この比率が80%を超えているのに比べると、大きく違う。従来タイプの製造業である限り、このようなことになるのは、必然なのであろう。
卸売業や不動産業の場合とは異なり、製造業の場合、企業規模が巨大であることは、高年収に寄与しない。例えば、トヨタ自動車の売上高は三菱商事よりずっと大きいが、従業員年収では遥かに及ばない。製造業の企業は、画期的な新技術やビジネスモデルを開発しない限り、従業員一人あたりの年収を1000万円以上にするのは難しいだろう。
■重要なのは企業規模ではなく、新しいビジネスモデルや技術
規模が巨大な企業は、それほど多数存在できるわけではない。各業種ごとに、日本全体で数社しか存在し得ないだろう。だから、企業サイズの巨大化によって、日本の平均給与を引き上げることはできない。
それに対して、新しいビジネスモデルや新しい技術は、いくらでも開発が可能だ。それが達成できれば、巨大さは必要でない。だから、日本の給与水準を引き上げるには、新しいビジネスモデルや新しい技術を開発し、それによって生産性を引き上げることが必要だ。
人々が巨大さを求めるのは、安定性を求めるからであろう。しかし、その期待が裏切られることは、1990年代末の金融危機の際にはっきりしたはずである。ところが、日本人はそれから20年以上経っても、まだ巨大さに対する信仰を捨てていない。
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一橋大学名誉教授
1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問を歴任。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に『「超」整理法』『「超」文章法』(ともに中公新書)、『財政危機の構造』(東洋経済新報社)、『バブルの経済学』(日本経済新聞社)、『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社)ほか多数。
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(一橋大学名誉教授 野口 悠紀雄)
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