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この風景は数年後には消えてしまう…私が「佐渡の棚田に23隻の船を浮かべる」という写真を撮ったワケ

プレジデントオンライン / 2022年9月24日 11時15分

Manda-la in Sadoの設計図=著者提供

人口約5万人の新潟県の佐渡島では、5年ごとに約5000人の人口が減っている。写真家の宇佐美雅浩さんは、そんな佐渡で「棚田に23隻の船を浮かべる」という撮影プロジェクトを敢行した。宇佐美さんは「この風景は数年後には消えてしまう。今ならまだかろうじて残っている佐渡の美しい自然と文化を写真に残したいと思った」という――。

■突然舞い込んだ「佐渡で作品を作ってみないか」というオファー

キュレーターの菊田樹子さんからのメッセージはいつも突然だ。そして、私を未知の世界へと連れて行く。

2019年8月14日、父の抗癌剤治療の手続きで実家に帰省し病院の待合室で待っている時に彼女からのメッセージが届いた。

「おはようございます。突然ですが、宇佐美さんにどうかなと思うプロジェクトがありまして連絡しました」

私は動揺した。

菊田さんは2016年に私がキプロスという島国で作品を作るきっかけとなった人だ。

「宇佐美さん 別件かつ唐突ですが、キプロス島を撮影する写真家を探してます。滞在制作ですが、ご興味ありますか? 南北に分断されていて、真ん中には国連軍が駐留しています。国民の意志として、いずれは統一へという希望があります」

このやりとりからキプロスでの作品制作が始まり、今現在に至る。

彼女からの電話が来るまでの間、私にはどんな案件なのか想像する時間ができた。未知なる案件に対してワクワクしたが、私は正直そのオファーをうけるべきか悩んだ。私にはキプロスの作品の時の制作費が借金としてまだ残っていた。

手を抜いてやるなら意味のあるものができるわけもない。

さて、どうしたものかと勝手にシミュレーションしては悶絶していた。

■アートが与えてくれるチャンスは面白い

彼女からの電話はメッセージの翌日にあった。電話で話した結果、新潟県の佐渡島で行われる芸術祭の中で「Manda-la(マンダラ)」(注)のスタイルで作品を作ってほしいという依頼だった。

(注)仏教の「曼荼羅(まんだら)」のごとく、中心人物の個人的、社会的背景を1枚の写真で表現するプロジェクト

佐渡島ならなんとか時間的にもやりくりができるかもしれない。

ほっと、胸をなでおろす自分がいた。

でも、佐渡島のことは正直詳しくはない。制作費もある程度は出るようだが、予算も潤沢にあるとは思えない。

菊田さんの説明によると、「さどの島銀河芸術祭」は2021年にあり、2020年の3月までに作品を制作してほしいとのことだった。

ふと、抗がん剤治療のために入院している父が頭によぎった。父は生死をさまよう状態であり、私が支えなくてはならない。

ただ、こんな暗い状況の中でさえ、アートは私に予想もできないチャンスを与えてくれる。

いつなにが、降ってくるかわからないものだ。「面白い!」と素直に思った。私は彼女からの依頼を引き受けることにした。

■その人物の人生や関係性を1枚の写真で表現する「Manda-la」

私の写真家としての代表作である「Manda-la」は、ある人物を中心として、その人に関わる物や人々を周囲に配置する。それを1枚の写真におさめることで、その人物の人生やそこに映り込むさまざまな関係を一つの世界として凝縮して表現する。

合成は一切しない。

私の「Manda-la」シリーズの制作は2011年の東日本大震災を機に一気に撮影規模が広がり、以来、福島、気仙沼、京都など日本各地を舞台に、入念なリサーチと現地の人々との対話を重ねて作品を制作してきた。

「広島」
《早志百合子 広島 2014》タイプCプリント (c)USAMI Masahiro Courtesy Mizuma art Gallery=筆者提供

2014年には、広島の原爆ドームを背景に500人のボランティアとともに1枚の写真を撮影。キプロスでは、首都で分断し、停戦状態にある国で「Manda-la in Cyprus」という作品を手掛けた。たった1枚の写真ではあるが、数年越しでその地の歴史や背景をリサーチし、プランを立て、撮影する土地の関係者を説得し、資金を集め、撮影するというとてつもない労力がかかっているのだ。もはや写真というより大規模なプロジェクトと言っていい。

■地域ごとに多くの伝統芸能が現存する佐渡

2019年9月24日、私は現地を視察すべく佐渡島に向かった。

睡眠不足からかフェリーで爆睡し、目覚めると島がみえるところまで近づいていた。これからさまざまなことが起こるんだろうと、ボーッとしながらフェリーの周りを飛ぶウミネコと曇り空を見ていた。

私はこれまで佐渡島を訪れたことはなかった。私の中の佐渡島の印象といえば、世界文化遺産の登録を目指している金銀山があり、過去にはさまざまな人々が島流しにあった場所というくらいだった。

当時の人口は約5万4000人。日本では本土4島と北方領土を除けば沖縄の次に大きな島である。

到着後、市役所職員の川上高広さんらに迎えられた私は佐渡の歴史に詳しい新潟大学名誉教授の池田哲夫氏を訪問した。

彼が見せてくれた資料は私をびっくりさせた。

と言うのも、佐渡は、沖縄の次に大きな島だが、沖縄でも見たことないようなさまざまな伝統芸能が地域ごとに多く存在していたのだ。

能、歌舞伎、文弥人形、説教人形、鬼太鼓、佐渡おけさ、大獅子、小獅子、春駒――。

古典芸能に関してあまりに種類が多く、どこを切り口にしてよいかわからないが、私の興味をそそるには十分だった。

その中で特に、私の目を引いたのは能だ。

能舞台は佐渡に限らず全国各地にあるが、その数は日本の人口比率に対して佐渡が最も多いという。実際、佐渡には美しい舞台がたくさんあった。

また、迎えに来てくれた川上さんのように、民間人が伝統を絶やさないようにと古来から伝承し続けているのだ。能に興味を持った私は、次のステップとして、川上さんとその息子の師匠である宝生流師範である祝忠生先生に会うことにした。

■深刻な人口減少で伝統芸能は継承の危機に

祝さんは私の佐渡における能楽の問いかけに応じる傍ら、同席していた芸術祭代表の吉田モリトさんに「あなたも能を習ってみなさい」と熱く勧誘した。

「もう、私の会は平均年齢が80歳だよ、ほんとに高齢化でこのままじゃなくなってしまうよ」と言っていたのが印象的だった。

実際にその後、祝さんの舞う姿を2度拝見させていただいたが、他の仕事を持っている一般の方が集まって佐渡の能を継承している姿は牧歌的で、佐渡ならではのほんわかとした表現になっているような気がした。

そして、演じている方々の大部分は確かに高齢だった。

実際に能だけではなく、調べてみると数年前まであった祭りや、芸能団体がどんどんなくなっている状況がわかった。

5年ごとに約5000人の人口減少が起こっている島なのだからそうなるのも当然ではある。

佐渡は能の大成者・世阿弥が流された地として知られているが、実際に能がここまでの広がりを見せたのは江戸時代初期からである。

金銀の資源に恵まれた佐渡は幕府の天領(直轄地)となり、1604年、初代佐渡奉行として派遣された大久保長安が能楽師の常太夫(つねだゆう)と杢太夫(もくだゆう)ほか、囃子方・狂言方一行を連れてきたことが大きく影響しているとされているらしい(注)

(注)https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/sado_noh_reason

金銀山がさまざまなものを引き寄せ生み出した源泉だったことを私は理解した。

■10年以内になくなると言われる岩首昇竜棚田

佐渡をテーマにした作品を撮影するにあたって、私は島内のさまざまな候補地を巡った。

佐渡金山のほか、大間港、大野亀、宿根木、佐渡奉行所跡など、世界文化遺産にも申請されているような個性的で歴史的な場所はいくつかあった。

そんな折、私は「岩首」という集落の「岩首昇竜棚田」と呼ばれる場所に何気なく案内された。

岩首昇竜棚田の風景
岩首昇竜棚田の風景=著者撮影

岩首集落は現在約120人が暮らす小さな集落で、明治の時に、七つの村が集まって現在の形になった。主な産業は農業だ。

棚田の地権者である大石惣一郎さんの軽トラックで話を聞きながら、ワインディングロードをのぼった先には、海沿いの集落の標高30mから470mまでの間に棚田が広がっていた。直線距離約2km、ダムもない、溜池もない、落葉紅葉樹の森の水のみで成り立つ豊かな棚田である。

400年以上の歴史を持ち、江戸時代に開墾された急峻な土地だった。山の上の不便な場所に隠れるように棚田があるのは、一説には年貢の取り立てを避けるためらしい。

棚田の地権者の多くはかなり高齢化してしまい、あと10年はこの光景は持たないだろうと言われている。実際、昭和20年に70~80人の地権者が約300ヘクタールを管理していたが、現在は地権者は31人となり、棚田の面積自体も約130ヘクタールにまで減少している。

平地に比べて効率が悪い棚田の米作りは儲かるわけがなく、年寄りが年金を切り崩してなんとか気持ちで維持をしている状態だという。

大石さんもまたその例に漏れない。いつも農作業に働き詰めだったにもかかわらず、母親は「金がない」しか言わず、この棚田をなんの価値もないものだと思っていた。将来自分が継ぐことは全く考えていなかった。だが、自身がこの棚田の跡継ぎになって田んぼからこの景色を見た時、思いは180度変わった。

「この光景が消えることは悲しすぎる」

それからは、なんとかこの美しい景色を守るために動いているという。

■「滅びる美学もある」という考えの農家も

その活動の一つが、行政などへの呼びかけだ。

棚田は、日本の景観保全のために行政と一体になって残す取り組みをしなければならない。実際に彼の棚田はアウトドアメーカー「スノーピーク」(新潟県三条市)の協力に加え、美しい景観を求めて訪れる観光客を受け入れることによって、米を収穫するだけでない活用法を開拓し、それによって得られた収益を棚田の保全活動に充てている。こうした活動は国からも認められ、現在では国からの支援金も出るようになっている。

だが、その金額だけでは次の世代の後継者はとても生活することはできない。今のままではこの美しい光景が消えることは確かな事実であり、時間の問題だった。

加えて、ここ岩首集落には、大石さんのような考え方の持ち主ばかりではない。中には「滅びる美学もあるんだ」という地権者もいて、集落全体で一枚岩にはなりきれない事情もあった。

岩首昇竜棚田の風景
岩首昇竜棚田の風景=著者撮影

実際に海外の企業が岩首集落に興味を持ち、その景観を生かして観光地化する話もあったが、一部の住民の反対もあり話は止まったままだという。

そんな話を聞きながら山頂に着くと、海から続くなだらかな棚田に美しい稲穂が風に揺れていた。

■「佐渡は流刑地ではなく文化が運ばれる島」

私は棚田の展望小屋に立った時、佐渡の歴史や光景が重なり合い、秋の収穫の稲穂の上を北前船(注)が金山により佐渡が栄えた時代に海からさまざまな文化を運んでいる光景が浮かんだ。

(注)江戸時代中ごろから明治30年代にかけて、大阪と北海道を日本海回りで往来していた商船の総称。

そして、「佐渡は、流刑の島ではなく、宝船に乗って文化という宝が運ばれてきた島なのだ」というキャッチコピーが浮かんだ。

そして、今ならまだ残っている棚田も、伝統芸能も表現できる。そう思った。

佐渡における「Manda-la」が決まった瞬間だった。

それからは、私の暮らす東京と佐渡島を往復する日々だった。

佐渡を何度も訪れる中で、佐渡での「Manda-la」のコンセプトが徐々に具体的になっていった。

私の想定はこうだ。

北前船に見立てた船を棚田に浮かべて、そこに、佐渡の多種多様な芸能団体に乗ってもらうことで、佐渡は島流しの島ではなく、文化という宝が流れてきた島であることを表現する――。

■「収穫前の棚田に船を浮かべさせてほしい」

そんな中で苦労したのは、棚田の地権者に収穫前の棚田の上に北前船に見立てたセットを置かせてもらう許可を取る作業だった。収穫前の稲の上に物を置くと稲に傷がつき、商品価値を落としかねないからだ。私はなるべく稲に傷がつかずに船を浮かべる方法を模索すると共に、地権者への説明に奔走した。

北前船に見立てた船のセット
北前船に見立てた船のセット=著者撮影

私は、大石さんと、地域おこし協力隊として佐渡に暮らす村山凛太郎さんと、棚田の地権者の家を全て周ることにした。ただでさえ、保守的な地域の人々に、彼らが1年かけて大切に育てた稲の収穫の時期に船を浮かべ、マストをたて、その中にたくさんの芸能団体の人々を入れさせてほしいと言うお願いはあまりにも心ないお願いなのではないかと自分自身でも思っていた。

地権者の最初の反応は「何をどうしたいのかイメージできない」というものだった。当たり前だ。私はその時、作品の内容と言うよりは、私という人間をみられている気がした。

地域の人たちが集まる集会にも出向いた。多くの人が集まる中でこのプロジェクトの説明をするのは、お笑いに無関心な人々が集まるアウェーなステージで一ネタするようなものだった。私は縮こまりながらも、「全てはこれからだ」という気持ちでコンセプトと、簡単なラフスケッチは描いて精一杯作品制作の意義をお伝えした。

だが、多くの農家にとっては自分の田んぼの上にアート作品を置くことなど初めての経験であり、「そんなことをされては稲が傷つく」となかなか首を縦に振ってくれなかった。

大石さん自身は新宿の歌舞伎町でスナックを20年あまり経営していたこともあり、私のようなよそ者にも好意的に接してくれた。だが、大石さんによると農家は保守的な人が多いらしい。よそ者は受け入れがたく、新しいことをするのを極端に嫌う傾向にあるということだった。

そんな状況で、新しいことをやればやるほど反発が生まれていく。集落では「また大石がめんどくさいことを始めた」と思われているようだった。今回は私がとびきり面倒な相談を持ちかけてしまった。私のコンセプトに共感し、集落の反発を食らいながらも私の盾になって最後まで私をサポートしてくれた大石さんには感謝しかない。

■「傷んだ米は保証する」という問題ではない

私自身、1年間大切に育ててきた米の上に船を浮かべさせてくれというお願いは胸が痛かった。

ともあれ、何度も何度も、彼らの玄関先まで個々に足を運び、集落の集会でもみんなが集まった時に伝えることを繰り返した。回覧板も何度も回した。

傷んだ米は保証すると伝えたが、「そういう問題ではない」と激しく怒られることも多々あったし、やんわりと断られることもあった。中には、話さえ聞いてくれない地権者もいた。

とは言え、逆の立場だったら私もきっと受け入れなかったかもしれないし、彼らの気持ちを否定することはできない。

今回は、胸が痛いプロジェクトだ。

■コロナ禍が佐渡の人々の心を柔和にした

そうこうしているうちに、世間はコロナ禍になってしまい、芸術祭の話は完全にストップした。

佐渡は東京の何倍もコロナに敏感な土地で、しばらくは来島することすらできず、プロジェクトは完全にストップした。

感染者数が落ち着いた折を見て島に出向き地権者を訪問した。しかし、感染者数は減ったり増えたりを繰り返した。撮影できる空気では全くなく、2019年、さらに次の年も断念した。

時間は、あっという間に過ぎて3年目に入ろうとしていた。

しかし、この3年と言う月日は、地権者と私の関係性を好転させた。3年という長い時間をかけて話してきたからか、徐々に信頼されるようになっていたのだ。

その結果、最終的には地権者の7割に賛同していただき、プロジェクトが実行できる見通しがたった。

■地域の結束を高めるツールとしての伝統芸能

残るは、船に乗る芸能団体との交渉だった。

もともと人口が少ない状況で、コロナが重なり人集めは難航した。

加えて、集落内の神事や祭りの時以外に出したことのないものがほとんどなので、このような撮影に参加してもらうことが可能かどうかわからなかった。

私は可能な限り佐渡に現存する芸能を作品に落とし込みたいと思っていた。能、歌舞伎、文弥人形など、多種多様な文化を表現するために、複数の団体との交渉が必要だった。

私は芸能団体と繋がりの深い地元の関根勝義さんに芸能団体の橋渡しをお願いすることになった。

地元に住み続け、鬼太鼓を若手に教える立場になっている彼によると、佐渡に暮らす人たちにとって芸能とは、神社の神事の「盛り上げ役」であるという。その芸能が何十年(中には100年以上)と続いていくうちに、伝統芸能と呼ばれるようになった。

伝統芸能は各地域の各神社で、氏子の方々が先輩から後輩へ、親から子へと、口伝で伝えられてきたものが多い。祭りの1カ月ほど前から毎晩練習をし、酒を飲み、交流を図り、何十年も続けてきた。その練習や準備、飲み会を通じて、佐渡の人はコミュニティを形成していった。

私は関根さんとの会話で、佐渡の芸能は伝統を守るだけでなく、それが彼らの誇りとなって地域との結束を重ね、佐渡を守っているに違いないと思った。そうでなければ、みんなが島外に出てしまい、佐渡の文化の継承はとっくに廃れていたであろう。

調べれば調べるほど佐渡の芸能を作品として残したいという気持ちは高まるばかりだが、理想通りには物事は進まない。

私のコンセプトに共感し、協力してくれる団体は思ったよりも少なかった。

OKがでたところも「集落でコロナがでた」と言って断りの連絡が来ることもあった。

特に鬼太鼓と大獅子の組み合わせは、私が描いたイメージでは到底実現できそうになかった。

■地域を出たことのなかった大獅子を出してくれることに

そんな絶望的な状況の中、岩首のとなりの集落の松ヶ崎という地域に住む菊池高根さんという方を紹介してもらった。

彼は、相談してから3日後には彼の地区である松ヶ崎、多田、浜河内、浦ノ川内の4集落の代表を松ヶ崎神社近くの会館に集め、私のために「みんなで参加しよう」と声を大にして呼びかけてくれた。そこには、この集落独自の呼び方がある祭りの関係者のトップ達が集結していた。

鬼太鼓として活動する若人(わけし)たちに参加を依頼するために、その場にいた若人の代表である若人年行事(わけしねんぎょうじ)に依頼。氏子総代(氏子の代表)に話をつけ大獅子の参加を宮委員(神社とつながる大獅子のことを決める組織)に話をどんどんつけていってくれた。

私もその場でプレゼンさせてもらったが、皆は追い詰められた私を応援しようと地域から出したことのない大獅子をだしてくれることになった。

天から降りてきた蜘蛛の糸のように思えた。

■大幅に予算オーバーだが中途半端な作品にはしたくない

最後までクリアできなかったのが予算の問題だ。

当初のプランは地権者の許可も出ず、実現することはかなわなかった。

北前船に立てるマストの高さや帆の幅も、安全性の問題でテストの結果、理想からどんどん遠ざかり小さくなっていった。

計画は何度も変更され、設計図も何度も書き直した。船だけでも51隻から23隻に減った。予算の関係で船の数も大幅に減ってしまったが作家としてこれ以上減ったら表現として成立しないというギリギリまで研ぎ落とした。それでも軽く見積もって数百万円は足りない状況だった。「クラウドファンディングでなんとかしよう」ということになり、「足りない分は私自身が責任を持つからやらせてほしい」と話して、予算が足りないまま続行することにした。

作家というのはなんとも、不条理な生き物である。だが、ここまで時間をかけて地権者の許可をとり、地元の方々と一緒に作ってきた作品が感動のない中途半端なものだったらどうだろうか。私が佐渡のためになると訴え、交渉してきたものが台無しになってしまう。私の純粋な制作意欲もあるが、佐渡の素晴らしい棚田と芸能を島外の方々に広く伝えるという約束も叶えることはできなくなるだろう。このような、信念から、予算面で不安な状況を抱えたまま、撮影の1週間前から棚田での準備は始まった。

■反対していた地権者の笑顔に救われた

棚田の上に、稲を極力傷つけないようにと何度も試作を繰り返したマストを丁寧に立て、船を浮かべる。帆を張る作業は天候にも左右され、足場も悪く難航を極めた。誰も経験したことのない作業だった。だが、天は私たちに味方してくれた。撮影当日は天候にも恵まれ、佐渡の方々に協力していただき、約270名の人たちが集結してくれた。私は現状できうる限り完璧な作品を撮り終えることができた。

撮影のため棚田にセットを組み立てる様子
撮影のため棚田にセットを組み立てる様子=著者撮影

撮影が終わった後、地権者に挨拶回りをした。稲を傷つけないように注意を払ってはいたが傷ついてしまった稲も多かった。

一番面積の多い地権者の平間俊雄さんは、終わってよかったけど稲のことを考えると複雑な気持ちだと言っていた。一緒に挨拶回りした地域おこし協力隊の村山さんはその表情を見て泣いてしまった。

最初は反対した地権者の方も笑顔を見せてくれた。

お気に入りのビートルズのTシャツをくれた地権者の方もいた。佐渡の人たちの優しさが身に染みた。

プロジェクトを実行しながら痛いほど実感したのは、佐渡は企画やプロジェクトの内容で動くのではなく、人で動く島ということだ。

撮影は終えることができたが、これから佐渡の方への作品のお披露目が残っている。稲へ傷がつくことを理解し、惜しみなく協力をしてくれた地権者や伝統芸能の継承者の方へ報いるためにも、今秋のお披露目会に向けて全力で準備に取り掛かりたい。

佐渡の棚田も、伝統芸能も急速な人口減少と高齢化により、数年後には消えてしまう可能性が高い。

しかし、今ならまだかろうじて残っているこの二つの佐渡の美しい自然と文化を記録し、その重要性を広く伝えることができる。

少なくとも、そのことで多くの人にこの事実を知ってもらい、考え、継承する道筋が見えてくるかもしれない。

棚田では、大石さんの草の根運動が身を結び島外からさまざまなサポートがあるようにさらに少しずつでもこの写真が佐渡の力になることを願ってやまない。そのためには、まずは佐渡で展示し、さらには島の外にこの作品を発信することが必要である。皆さんのご支援をお願いいたします。

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宇佐美 雅浩(うさみ・まさひろ)
写真家
1972年千葉県千葉市生まれ。1997年武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。様々な地域や立場におかれた人々とその人物の世界を表現するものや人々を周囲に配置し、仏教絵画の曼荼羅のごとく1枚の写真に収める「Manda-la」プロジェクトを大学在学中から20年以上続けている。

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(写真家 宇佐美 雅浩)

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