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よかれと思って子供に「勉強しなさい」と言った親が、生涯かぶることになる"ひどい災難"

プレジデントオンライン / 2022年9月27日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

子供が自ら机に向かって学ぶようにするために親はどうすればいいの。現役小学校教員の松尾英明さんは「親や教師の務めは、子供の主体性を高めることです。『勉強しなさい』と親切心や大人の責任感などから、子供に声かけするケースが多いが、逆効果です」という――。

※本稿は、松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)の一部を再編集したものです。

■教育現場で飛び交う「主体性をもたせる」という言葉

不親切教師の基本スタンスは常に子どもの主体性向上をねらうことにある。

しかし現在の学校教育には「主体性をもたせる」という言葉が平気で横行している。明らかに矛盾しており、「もたせる」と使役の助動詞を使っている時点でそもそも全く主体的とは言えない。

主体性と関連して、次の本の中に「自由学園」創設者の羽仁もと子さんの考える「自由」についての言葉が紹介されている。(渡辺和子『愛と祈りで子どもは育つ』、PHP文庫 106頁)以下、引用する。

「あなたがたには、脱いだはき物を揃(そろ)える自由があります」というのです。それは、「揃えない自由もある」ということなのです。どちらがより良い生き方なのか、脱ぎっ放しにするほうか、揃えるほうか、そのより良いほうを考えて、選ぶということなのです。日々の生活の中での小さな自由の行使が、実は大切なのです。「自分らしさ」を作るのは、このような小さな自由の行使の積み重ねなのです。

この言葉の中には、主体性や自由といったことの真理が含まれている。それをするのが自由の行使であるという自覚は、意識していないとなかなか難しい。日常のすべてが「当たり前」になっているからである。

学級会をやっていると、議題で「掃除を真面目にしない人がいる」ということがよく上がる。要するに、真面目にやって欲しいという要望である。何年生の学級でも、必ず出る。これはなかなか考えどころである。

話し合いをしても大抵着地点が定まらないが、毎回一つだけ言えることがある。それは、真面目にやっている子どもの中に、進んでやっている子どもが一定数いるという点である。つまり、誰かが見ているからとか、得とか損とか関係なく、やる人間はやるということである。やる方が良いと考えるからやる。主体性に基づいて取り組んでいる子どもが必ずいるのである。

つまり「はき物を揃える自由」と同じである。どちらが自分にとってより良い生き方なのか。それを主体的に選びとり、行動する。それこそが、自由である。やらされてやるのは、完全に意味がないとは言わないが、効果の方向が全く変わってくる。掃除などは、特にここが大きく分かれるところである。

学校以外の生活でも、やらない人はやらないし、やる人はやる。本人の選択次第である。他人がどうかにはあまりこだわらず、やると自分で決めた人は、気にせずやる。掃除に限らず、勉強や宿題、仕事や趣味やボランティア活動、あらゆることに言える「自由」の考え方である。

つまり、子どもの主体性向上に必要なことの一つに、自覚があると言える。何を良しとして、何を望ましくないとするのか。どちらの行動をとることもできるが、まずはその価値を知る必要がある。「はき物を揃える」という単純な行為一つをとってみても、まずその価値を知らなければ主体性をもって行動することはできない。

子どもに教えるべき点はそこである。各行為の自覚を促し、その上で、子どもが主体性をもって行動を選びとることができるよう、不親切教師は少し距離をとって見守っていく。

■なぜ、「勉強しなさい」と言ってはいけないのか

「勉強しなさい」というのは、親から子どもに対してよく出る言葉のようだが、教師がこれを発していることもある。勉強ができないと将来困るだろうという親切心、もしくは教師としての責任感からである。

結論から言うと、不親切教師は、決して勉強しなさいとは言わない。この言葉が、子どもの主体性を大きく損なうことを知っているからである。

「勉強しなさい」は明確な命令であり、「あなたのため」という親切心に満ちた名目、善意による行動の支配である。この支配が成功した暁には、親や教師たちはずっと子どもの勉強の面倒を見るはめになる。子どもは支配されている以上、自分で決められなくなるからである。大人の顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になる。そして、勉強するかどうかということは、子どもの課題ではなく、周囲の大人の課題にすり替わる。主体性をもった子どもとは真逆の方向に育つ。

宿題を進めない子をしかる親
写真=iStock.com/Zhonghui Bao
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Zhonghui Bao

例えば、漢字練習を全くやらない子どもがいるとする。この時、多くの親切な親や教師は「やりなさい」という。しかし、漢字練習をやるべきかどうかは、明確な子ども自身の課題である。断じて、親の課題でもないし、教師の課題でもない。

本人が必要だと判断したらやるだろうし、不要だと判断したらやらない。自身の判断による行動の結果の全責任を、自分自身が請け負う。人生における大切な原理原則を学ぶ貴重な場である。絶対に大人が奪ってはいけない。

その大事な学びの場である子どもの課題を大人が引き受けてしまったら、その子どもに対しその後もずっと面倒を見て、手出し口出しをし続ける必要が出る。勉強は、学生時代だけでなく、一生涯を通して続くものだからである。

そしてさらに悪いことに、勉強のあれこれに口出しすることで、子どもにとって次のような思考法が出来上がる。

「勉強ができない」=「親が悪い」or「教師の教え方が悪い」=「自分に責任はない」

勉強が、明確に他人の課題になる。そして悪いことに、子どもがこの思考法に一度染まってしまうと、より勉強しなくなり、学力が落ち続けるという悪循環に陥る。

なぜそうなるのか。

それは「勉強しない」という選択肢をとり続けることで、「(やっても)できない」から逃れ続けられるからである。「勉強しなさい」と言われてやっていても、なかなかやる気が起きない。そして、予想通り結果が悪いと、「次にがんばろう」と思う代わりに「やらないでおこう」という逃避の心理が無意識に働く。

「やってもできない可能性」を潰す方向に向かうのである。つまり、ずっと勉強しなければ、できない自分が証明されることはないのである。行動しない方が「安全・安心」が保証されるのである。

この傾向は、失敗を恐れて行動しない、という態度につながる。人間は、失敗しないことより、試行錯誤する人になる方が大切である。それを学ぶには、自分でチャレンジするしかないのだが、何でも周りのせいにする人間では、どうにもしようがない。

松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)
松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)

大原則は、あらゆる他人の課題に対して、決して首を突っ込まないことである。「この絵の葉にどの色を塗るか」「おかわりをすべきかどうか」「休み時間は外に出るか中で過ごすか」といった日常生活の小さな課題はもちろん、子どもの課題に決して口出しをしてはいけない。

教師の為すべき努力は、子どもに「勉強をしろ」と強要することではない。勉強が楽しい、やりたいと思えるような環境を整え、授業をすることである。新しいことを知る喜び、学ぶ喜びに触れられる機会を、授業を通して提供することである。

勉強は本来、楽しい。それを、まずは大人の側が腹の底から実感すること。そうすれば「勉強しなさい」という言葉は絶対に出ようがない。もし子どもからいつか「勉強させてほしい」と言ってくる日を求めるなら、こちらからは一切言わないことである。

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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。

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(公立小学校教員 松尾 英明)

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