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ナイキだけが「日本からの別注」を受け付けてくれた…ナイキのスニーカーが人気になった知られざる理由

プレジデントオンライン / 2022年10月3日 12時15分

アメリカ、オレゴンにあるナイキ本社(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

なぜナイキのスニーカーは人気になったのか。アトモス創業者の本明秀文さんは「それはデザイン性の高さだろう。ナイキだけがわれわれの別注(特別注文)を受け付けてくれ、その結果、数量限定の独特なデザインの靴が、スニーカーブームを巻き起こした」という――。

※本稿は、本明秀文『SHOE LIFE』(光文社)の一部を再編集したものです。

■なぜナイキは巨大企業になれたのか

ナイキには自由な社風があった。今でこそ、巨大企業になり過ぎてそれが薄れた気がするけど、当時から、働いている人にも活気があった。

僕たちを目の敵にしていたあるメーカーからは「並行輸入屋のあんたたちには一生アカウントを開けない」と言われたこともある。だからこそ分かるのだけど、偏見を持たず、リアルなマーケットを柔軟に取り込もうとするナイキの姿勢こそが、20年後に売上高3000億円企業になるのか5兆円企業になるのかの違いだと思う。

当時はそこまで差がなかったのに、今やナイキは5兆、僕らを目の敵にしたメーカーは3000億と大差がついている。自由を愛する僕は、ナイキの社風を好んで、そこに自由のイメージを重ねていた。ナイキを売ろうと心に決めていた。

■「絶対にできっこない」と思っていたこと

アメリカで最大手のスポーツチェーン、フットロッカーやNo.2のフットアクションによるナイキの別注スニーカーは、スニーカーヘッズ(強烈なスニーカーファン)の憧れの的だった。このころ、ナイキが別注相手に選んでいたのは、一定量をさばけるチェーン店のみだった。

それもそのはず。当時のチェーン店の別注とは、いわゆる“型止め”(その店にのみ卸し、他店舗に流通させない方法)のことを指す。ナイキはブランドの成長過程において、「質よりも量」を優先していたのだ。だから当然、アトモスのような数をさばけない個店レベルの店が、ナイキに別注するなんてことは、夢のまた夢といっても過言ではなかった。

アトモスをオープンしてわりとすぐに、ナイキジャパンにいたマーカス・タユイと仲良くなった。マーカスは、僕のことを面白がってくれるちょっと変なやつで、「ナイキのアカウントが開いて良かったね」と、喜んでくれていた。ある日、喫茶店で僕が、「もっと面白いことがやりたいんだよ。僕たちみたいな個店でも別注モデルを作りたいんだ」と話すと、「じゃあとりあえず、絵型を描いてみてよ」とマーカスが鉛筆を渡してきた。

てっきり「実績のないアトモスじゃ、そんなこと絶対にできっこないよ」とでも言い返されると思っていた僕は、半信半疑ながら、その場でコピー用紙の裏に鉛筆で絵を描いた。実は、以前から、「『ターミネーター』のジョージタウンカラーが『エア フォース 1』でもあれば、確実に売れるのになぁ」なんて構想していたので、それをイメージしながら、「ここのパーツをこうして、ここをこうして……」と呟きながら、「エア フォース 1」を描いた。

そして、その反転カラーの「エア フォース 1」をもう1型作って欲しいと頼んだ。

すると、「生産枠が決まっているから『エア フォース 1』は1型だけ。もう1足は別のモデルにして」とマーカス。「じゃあ、反転カラーの方は『ダンク』でいいよ」と言うと、マーカスは「オッケー、オッケー」と、拍子抜けするぐらいの軽いテンションで、「夢は叶うんだ」とだけ言い残して、去っていった。

■世界で初めての「エア フォース 1」別注

1~2カ月経ったころだと思う。ある朝、僕の携帯電話が鳴った。マーカスだった。「本明、ちょっとオフィスに来てくれ。サンプルが出来上がったぞ」。

その日のことは今でも鮮明に覚えている。誰もいないナイキジャパンのオフィスで、初めてサンプルを見た。想像以上の出来栄えに、「おぉ、これ売れそうじゃん」と僕が言うと、マーカスも「俺もそう思うんだ」と言う。

僕が「でも絶対に社内でダメって言われるに決まっているよ」と肩を落としていると、マーカスが「諦めるな、手は考えてある。オーダー数のミニマムが3000だからサイズのアソート(構成割合)を出してくれ」と紙を渡してきた。

僕はすぐに「エア フォース 1」と「ダンク」を3000足ずつ、合計6000足のアソートを書いた。すると、すぐ横にあったコンピューターにマーカスがサイズごとに数量を入力し始めた。そしてしばらく待っていると、画面に「CONFIRMATION」(承認)と表示されたのだ。

オーダーが通ったという意味だった。マーカスはすぐに「これは残しちゃいけないんだ。とりあえず消しておこう」と、オーダー実績を消してしまった。「大丈夫なの?」「大丈夫、大丈夫! でも絶対言っちゃダメだぞ。それにもうオーダーしたから絶対全部買い取れよ」。そんなやりとりをして、その日は解散した。

ところがその数カ月後、オーダーに載っていないスニーカーが6000足も届いたものだから、あっけなく僕の仕業だとバレてしまった。僕はナイキジャパンに呼び出され、アカウントを開いてくれたマツシタさんから「あんたたち、一体どういうつもりなんだ! こっちは遊びでやっているんじゃないんだぞ」とみっちり3時間怒られ、コテンパンにされた。

だけど、マツシタさんも売れるとは思ったらしい。「責任持って、全部買わせていただきます」と言う僕に対して、「ダメだ。うちでも売る」と言う。結局、アトモスで3600足、ナイキジャパンで2400足を売ることになった。僕は心の中で「ラッキー!」と叫んだ。後で、マーカスに「お前のせいで3時間怒られたじゃん」と愚痴ると、マーカスは「ほらな、夢は叶うだろ」と、親指を立てた。

そんな紆余曲折を経て、とうとう2001年5月に、アトモス提案カラーの「エア フォース 1」と「ダンク」が「CO.JP」(日本企画)として発売された。

NIKE-AIR-FORCE-1 アトモス別注
写真=アトモス提供
ナイキ「エア フォース 1 アトモス別注」 - 写真=アトモス提供

■ナイキだけが外部のデザイン案を採用していた

1店舗の小さな店だったアトモスが、大手スポーツチェーン店以外では初となるナイキの別注モデルを手掛けたのだ。

僕は、アトモスが後に、ナイキに世界有数のパートナーと認められたのは、結果的に個店として最初のナイキの別注相手になれたからだと思っている。このころからナイキは「量よりも質」を重要視するようになり、数々の別注やコラボレーションを生み出していくことになる。

「エア フォース 1」と「ダンク」のヒットを機に翌年、今度こそ“正式に”ナイキジャパンから声がかかり、新しい別注プロジェクトが動き出した。このころはナイキだけが、あらゆる可能性を求めてデザインの一部に外部の力を採用していた。

■「エアマックスを復権せよ」というオーダー

当時のマーケットは、「エア フォース 1」と「ダンク」というコート系(テニス、バスケットボールなどのスポーツで使用されたシューズ)のスニーカーの独壇場だった。ランニング系スニーカーの象徴である「エア マックス」は、「エア マックス 95」が1997年に復刻発売したことでマーケットの熱が一気に冷めてしまった。

今では「復刻」と聞けば盛り上がるものだけど、早すぎる復刻はただのレプリカと捉えられかねない。それで、見事にみんなが飽きてしまった。完全に「エア マックス」は時代に置いていかれてしまっていた。そのこともあり、新しいアトモス別注に求められたのは、まさに「エア マックス」の“復権”だった。

そのとき僕たちが提案したのが、「エア サファリ」の“サファリ柄(ダチョウの革、オーストリッチから着想を得た柄)”を「エア マックス 1」に落とし込むというもの。個人的にも好きな柄だったし、入荷すればすぐに売れることは分かっていた。

その時代のトレンドはあるのだけど、スニーカーには、いつの時代も変わらない本質の形があると思う。普遍的なものとトレンドをうまく融合できると売れるのだ。本質的なものが分からないと、普遍的なものが選べない。それはスニーカーが好きという根本的な感覚だとも思う。

だからなんとなくだけど、「エア サファリ」のカラーリングを落とし込めば売れると思ったのだ。ただ、そのまま使うと面白みがないので、「外側と内側のスウッシュのカラーを変えたい」と伝えた。だけど当時のデザインレギュレーションでは、そんなのはNGだった。今の自由度の高さからは考えられないかもしれないけど、当時はそれがフツウなのだ。

それで、「まぁまぁ、いいじゃない」とナイキジャパンの担当者を半ば強引に説得し、出来上がったのが、2003年3月に発売した外側にオレンジ、内側にグリーンのスウッシュを配した「エア マックス 1 “アトモス サファリ”」だった。

■アメリカの企業と付き合うコツ

アトモス別注は、またしてもヒットし、その甲斐あって、いくつかの別注プロジェクトへとつながった。

ナイキジャパンの人たちもアトモスやチャプターによく遊びに来てくれていて、その度に「どんな色やどんな柄が売れるかな?」という話になっていた。「“アトモス サファリ”」と同じ2003年に「エア マックス 1」と「エア マックス 95」をベースにした別注「バイオテック」カラーを、2004年に「エア マックス 95」の別注「レインボー」カラーを発売した。いずれも売れ行きは順調だった。

アメリカの企業であるナイキと仕事をするには、いい加減さも必要。1から10まで自分たちの意見を押し通せば、こんなに別注なんてできなかっただろう。分業制なのだから、それぞれの業務をリスペクトすることが大切だというのは肌で感じていた。そういった社内の温度感は、アトモスの担当だったナイキジャパンの営業、高見薫さんが僕たちに腹を割って話してくれた。

■奇抜なアニマル柄を採用したワケ

2004年ごろ、僕はちょうど、ジョン・アーヴィングの『熊を放つ』(原題:Setting Free the Bears、村上春樹訳)を読んでいた。物語は、第二次世界大戦中の影響が色濃く表れるヨーロッパを舞台に、2人の青年がお金を出し合ってバイクで旅行する。旅先でトラブルが続き、青年の一人が転倒事故で亡くなってしまう。残された日記には、ウィーンの動物園で目撃した動物への虐待について書いてあった。主人公は、亡くなった青年の遺志を継ぎ、動物たちを解放するためにウィーンに向かうというもの。

僕はその本に影響され、動物柄をスニーカーに使いたいと考えた。下着としては見慣れた柄ではあったけど、スニーカーに使うには突拍子もない柄だった。「動物柄の下着が売れるなら、スニーカーだって売れるはずだ」と高を括り、アッパーにヒョウや虎、牛、シマウマといった動物柄を配した。それが本書のカバーにも掲載されている、2005年に発売した「アトモス アニマル パック」の「エア マックス 95」で、最初に作ったのは3000足だった。

サンプルを見たときは「僕って天才だな」と思ったぐらい良い仕上がりだったのに、蓋を開けてみたら全く売れず、2カ月かけて売り切るのが精一杯だった。それが原因で、ナイキジャパンから、またしてもめちゃくちゃお叱りを受ける羽目になった。正直、売れる自信もあったのに、なぜ売れなかったのか不思議だった。

ところがしばらくして、奇跡が起きた。アメリカで、有名なラッパー数人が「アトモス アニマル パック」を履いたのだ。動物柄を組み合わせた奇想天外なデザインが彼らの目に留まった影響で、今度は700ドルや800ドルで売買されるようになり、最終的には1500ドルにまで値上がりした。

ナイキジャパンも手のひらを返したように喜んでくれた。そして、もう一度同じコンセプトで作ったのが翌年発売した「エア マックス 1 アニマル」だ。これが、今ではアトモスの象徴にもなったアニマル柄を印象付ける最初の出来事となった。

NIKE-AIR-MAX-95-ANIMAL-1
写真=アトモス提供
ナイキ「エア マックス 95 アニマル パック」 - 写真=アトモス提供

ちなみに、アニマルシリーズの元になったものに、2001年の秋に発売したベージュピンク色の「エア フォース 1」がある。これは、通称“豚フォース”。ジョージ・オーウェルの小説『動物農場』から着想して、僕が考案したカラーリングだ。

■スニーカーブームの始まり

僕たちが最初にアトモス別注を作ったころから、ナイキジャパン独自の企画で、次第に別注が広がっていった。

本明秀文『SHOE LIFE』(光文社)
本明秀文『SHOE LIFE』(光文社)

別々の何かを掛け合わせたという意味で使っていたこのころの「別注」は、今でいうコラボレーションと同義。まだまだコラボレーションが世の中に氾濫する以前は、“別注”というだけで、どんなものでもとにかく売れた。ナイキは、“アトモスデザイン”と発信しろと言っていたものの、別注という言葉は、雑誌でも多用され、一人歩きしていた。

そして、きちんと発売日が設けられると、別注スニーカーを買うために行列ができるようになった。これがスニーカーの行列の始まりだ。4~5人のスタッフを従えて、一人は店前で交通整理。店内では、お客さんの試着に対応しながら、スタッフ一人当たり200足前後を売る。1日でさばける手売りの限界は1店舗で800足だった。インターネット通販がまだない時代は、大変だったけど、店頭に全ての熱狂があった。

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本明 秀文(ほんみょう・ひでふみ)
アトモス創業者
1968年、香川県生まれ。日本未発売のレアスニーカーを販売し、原宿を代表するスニーカーショップとなった「チャプター」、ナイキなどとの大型コラボを展開する世界的なスニーカーショップ「atmos(アトモス)」を経営する、株式会社テクストトレーディングカンパニーの創業者。2021年、米スニーカー小売最大手のフットロッカー社に、3億6千万ドル(約400億円)で会社を売却。現在はフットロッカーアトモスジャパン合同会社のCEO兼チーフクリエイティブオフィサーとして、引き続きアトモスなどの経営を行う。

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(アトモス創業者 本明 秀文)

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