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朝から晩までテレビの前でボーッとしている…医師が実母の認知症に気づいた「生活の変化」とは

プレジデントオンライン / 2022年10月2日 10時15分

知的な母が、日がな一日ゴロゴロ過ごすように… - 写真=iStock.com/AlexanderFord

認知症を早期発見するには、どうすればいいのか。医師で医療ジャーナリストの森田豊さんは「家族のちょっとした変化が、実は認知症の初期症状だったというケースも多い。私の実母の場合は、テレビの前でボーッとする時間が増えたことが気づくきっかけだった」という――。

※本稿は、森田豊『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)の一部を再編集したものです。

■母がおしゃれをしなくなった

しっかり者の母が甘えてわがままを言うようになったこと以上に、唖然とさせられる性格の変化が、目に見えて起きるようになった。

身だしなみを整えなくなり、清潔感がなくなっていったのだ。

これまでの母は、身だしなみに気を遣う、とてもおしゃれな人だった。朝起きるときちんと着替えて化粧をし、だらしない格好で家の中をうろつくことなど絶対になかった。

特に身につけるものについては意識が高く、毎日コーディネートを変え、清潔なものを着るよう心がけていた。もともと洋服や化粧が大好きで、姉や妻が着ているものを見ては、「どこで買ったの?」「その色、いいわね」と興味を示すことも多かった。

僕はそんなおしゃれな母を、心ひそかに自慢に思っていた。

ところが、その母が日に日におしゃれをしなくなっていった。

スッピン、寝間着のままで一日の大半を過ごしたり、毎日同じものを着て、シミのついた服でも平気で着続けるようになってしまった。

これだけでも僕にとっては相当なショックだったが、追い打ちをかけるように、母は次第に無気力になっていった。朝からソファに横になり、見るともなくテレビばかり見て、日がな一日ゴロゴロ過ごすようになっていった。

■「頭の回転が早い母」が、朝から晩までボーッと過ごすように…

本来の母は、何もせずに時間を浪費するような人ではない。習い事をしたり、難しい英語の本を読んだり、世の情勢を知るために新聞に目を通すなど、常に頭を使い、知的活動に勤しんでいた。

また、母は指先を使うのも得意で、料理や裁縫(さいほう)をプロ並みにこなしていた。やるとなったら徹底的にやるタイプで、たった1日でスーツを1着作り上げてみせ、妻を驚かせることもあった。

それに、母は何より人としゃべるのが大好きだった。というか、誰かとしゃべらないと気が済まない人だった。ひとたび口を開こうものなら、お笑い芸人のようなしゃべりっぷりで、マシンガントークを繰り広げるのだ。

ちなみにそんな母の影響を受けてか、僕も姉もおしゃべりで、森田家の一家団欒(だんらん)はしばしばトークバトルの様相を呈した。

「ちょっと待った!」
「今、私がしゃべってるんだから!」
「アンタは黙って私にしゃべらせなさいよ!」

と、それぞれがガンガン好き勝手にしゃべる。けんかしてるのかと勘違いされるくらいの勢いで、しゃべってしゃべって盛り上がる。

しかしいくら僕や姉がまくしたてようと、母には到底かなわない。気づけばみんな母の話に耳を傾けてしまう。母はそのくらい弁が立ち、頭の回転も速い人だったのである。

その母が、朝から晩までボーッと過ごし、何にも関心を示さず、しゃべりもしない。

いくらかしゃべることはあっても、テンポは遅いし、以前のような勢いはない。

■園遊会への出席を断る

「これは何かおかしい」

と誰もが気になり始めた矢先、さらなる変化が母に訪れた。

外出を極端に嫌がるようになったのだ。

母はアクティブな人で、家にいるより出かけるのを好んだ。友達と連れ立って、食事に行ったり映画を見に行ったりもしていた。

もちろん、家族と出かけるのも大好きだった。みんなで何か食べに行こうと僕が休みの日に誘うと、母は「待ってました!」とばかりのリアクションを見せた。

ファミレスでも居酒屋でもいいから、どこか食べに連れて行ってほしい。食べるのもお酒を飲むのも大好きな母は、家族で外食に出かけるのを心待ちにしていた。

また、母は対外的にも社交家だった。父の仕事の関係者を家に招いてもてなすのは得意だったし、父と会食に出かけるのも楽しみにしていた。

かつて父が藍綬褒章(らんじゅほうしょう)をもらった時も、母はとっておきのドレスを身につけて、喜び勇んで授賞式に出かけた。著名人とも臆(おく)することなく挨拶を交わし、華やかなパーティーを心から楽しんでいた。

しかし、母に変化が生じ出したこの頃、父が勲四等を受勲した時には、以前とは打って変わってまるで興味を示さなかった。父とともに園遊会に呼ばれたこともあったが、行きたくないと言って出席を断っていた。

社交家の母が、外出を極端に嫌がるように…
写真=iStock.com/pixelfit
社交家だった母の性格に変化が… - 写真=iStock.com/pixelfit

■「うつの薬」を処方される

にぎやかな集まりが大好きな母が自ら出席を断るなんて、これはやはりただ事ではない。

僕と父はさすがに心配になり、母をできるだけ外に連れ出すようにした。

食べることが大好きな母のために、おいしいと評判のお店に連れて行ったりもした。

その甲斐あってか、しばらくは母も誘われるまま外出していた。

だが1年、2年と経つうち、母はほとんど外出しなくなっていった。食事に誘っても、「私はいいから、みんなで行ってきて」と言うようになってしまった。

外出が億劫(おっくう)なら、せめて電話で友達と話をしたらいいのではないかと思い、携帯電話を買おうかと勧めたが、母はこれもいらないと関心を示さなかった。

これはまずいと思った僕は、姉に頼んで、母に再び精神科を受診させることにした。

趣味に関心がなくなったり外出を嫌がったりするのは、うつのせいではないかと考えたからだ。

診察の結果、母はうつの薬を処方された。

だがいくら薬を飲んでも、母が以前の母に戻ることはなかった。

■「認知症」の「に」の字も出なかった

物忘れに性格の変化、うつのような症状……。

これはひょっとすると、認知症の始まりなんじゃないか。

そういう考えが頭をよぎらなかったわけではない。可能性としては十分考えられると、心のどこかでわかってもいた。

だが、僕は認知症の専門医ではない。心療内科を受診している患者さんは診ていたものの、認知症に関しては門外漢に等しい。

そんな自分がしゃしゃり出て、「認知症じゃないのか」と主治医に詰め寄るのは気がひける。

明らかな誤診であればそれなりの相談もできるが、「もしかしたら」という漠然とした思い込みだけで医師の診断に物申すのは、同じ医師としてためらわれる。

当時はセカンドオピニオンを申し出ることは一般的ではなかった。

そういう思いもあり、通院の付き添いをしてくれた姉には、念のため「認知症かもしれない」と申し添えてくれとだけ告げた。

ただし、物忘れが進み、外出もしたがらないという状況を、医師にできるだけ具体的に伝えるよう頼んだ。

だが、母を診た主治医の口からは、「認知症」の「に」の字も出なかった。認知症検査を強く勧められることも、この時点ではまだなかった。

■「主治医の前ではシャキッと」してしまう母

この時認知症という可能性が示されていれば、早期発見により進行を食い止められたのではないかという思いもないではないが、恐らくそれは不可能に近かったと思う。

認知症の早期発見には困難がつきまとう
写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz
認知症の早期発見には困難がつきまとう - 写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz

というのも、母は病院に出かけるときに限って身なりを整え、主治医の前ではシャキッとしてみせ、「私は何の問題もないのよ」という顔をしてしまうからだ。

実際、物忘れが進んでいると姉が医師に説明しても、母自身はそれを認めようとしなかった。それどころか、持ち前のトーク力で自らの健在ぶりをアピールし、大したことはないと医師に思わせてしまった。

これでは、いくら姉が現状を伝えても、主治医が正しく判断できるわけもない。

■認知症という病の「ものすごく厄介なところ」

そもそも性格の変化を説明したところで、普段の母を知らない主治医がその変化の度合いを理解できるはずもない。

これが癌(がん)や内臓の病気だったら、検査ですぐに明らかになる。「大したことはない」といくら口で否定しようと、深刻な変化があれば即発見することができる。

ところが認知症の場合、画像診断や血液検査などで診断が比較的容易な病気とは異なり、医師の診断基準の主体となる目に見えやすい変化は現れにくい。

画像診断や血液検査ではわからない
写真=iStock.com/Morsa Images
画像診断や血液検査ではわからない - 写真=iStock.com/Morsa Images

明らかにそれとわかる基準に乏しかったのが当時の状況だった。

これが認知症という病の、ものすごく厄介なところなのだ。

現在は、こういうことはないかもしれない。当時の母のような症状が見られる場合、認知症の可能性を疑うことが当たり前になってきている。

森田豊『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)
森田豊『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)

最近では、認知症の初期段階である「軽度認知障害」という概念も広まりつつあり、当時に比べたら格段に早期発見の割合は高くなっていると思う。

でもこの当時はまだ、軽度認知障害を知る医師はほとんどいなかった。ようやく海外で話題に上り始めたばかりで、その情報を認知症の専門医ではない僕も知らずにいた。

だから僕は、当時の主治医を責めるつもりはない。できる範囲で、誠実に母を診てくれていたと思っている。

思うことがあるとすれば、なぜもっと早く母の異変に危機感を抱かなかったのか、どうしてもっと積極的に検査を勧めなかったのかという、自分自身への反省と後悔だけである。

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森田 豊(もりた・ゆたか)
医師、医療ジャーナリスト
1963年東京都台東区生まれ。秋田大学医学部、東京大学大学院医学系研究科を修了、米国ハーバード大学専任講師等を歴任。現役医師として医業に従事し、テレビ朝日系『ドクターX~外科医・大門未知子~』の医療監修を行うなど、種々のメディアや講演等で幅広く活躍中。

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(医師、医療ジャーナリスト 森田 豊)

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