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値上げはしないが、社員の給料は上げる…シャトレーゼが「前代未聞の宣言」をした本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年10月11日 14時15分

写真提供=シャトレーゼ

値上げラッシュの中、菓子大手のシャトレーゼはいち早く「値上げをしない」と宣言して話題を集めた。そこにはどんな意図があるのか。創業者の齊藤寛会長に、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが聞いた――。(第1回/全3回)

■シャトレーゼは単なる「洋菓子販売」ではない

シャトレーゼグループの従業員数は連結で約3000人、売上高は同じく連結で1100億円。連結決算の対象は菓子、ワイナリー2カ所、ホテル4カ所、ゴルフ場19カ所(2021年3月期)だ。洋菓子、和菓子、生ワインなどを売る小売り店舗数は700店。うち600を超える店舗はフランチャイズである。

シャトレーゼグループはコロナ禍をものともせず成長している。2015年の売り上げは540億円だったのに、6年後の21年は1100億円。急成長といっていい。

グループの柱となる株式会社シャトレーゼのことをメディアは「洋菓子販売」と単純に表現しているが、それは正確とは言えない。

連結決算に見るようにグループにおいては菓子とワインなどの他、ホテル、ゴルフ場を経営している。また、菓子事業において菓子類は単に製造しているだけではない。通常、菓子、の流通は製造工場から問屋へ行き、そこから店舗へ配送される。シャトレーゼは自社製造工場で作った商品を問屋を通さず、直接、小売店に運んで販売している。衣料品の世界で言うSPA、つまり製造小売業だ。

物流もまた自社で行い、製造から販売までのリードタイムを短縮している。むろん、工場でも製造ラインやラインの間のムダをなくして、ジャスト・イン・タイムで製造している。通常のスイーツの場合、製造してから販売まで5日間はかかるのが標準だという。だが、同社の生菓子は「作ってからお客さまが食べるまでは2日間」と決めて、実行している。

加えて、同社は「家業的経営」を標榜し、組織を小集団に分けて、トップに社長(プレジデント)を置いている。シュークリームの製造ライン統括者はシュークリーム社長であり、店舗数店を統括する営業責任者もまた地区統括の社長だ。

つまり、シャトレーゼはユニクロのようなSPA(製造小売業)であり、トヨタが誇るジャスト・イン・タイム生産を実行し、稲盛和夫の小集団経営手法「アメーバ経営」を活用している。

ユニクロとトヨタと稲盛和夫のいいところをうまく移植した複合企業がシャトレーゼだ。山梨県の田園風景のなかで、のんびりシュークリームやどら焼きを作っているお菓子屋さんではない。

では、そんな会社はどうやって次々とヒット商品を生み出しているのか。

■値上げはしないが給料は上げる

同社創業者、88歳の齊藤寛会長に甲府市郊外の本社兼工場で話を聞いた。老齢という印象の人ではない。胸板が厚く、日に焼けていて精悍(せいかん)。生命力にあふれる人だ。むろん現役の経営者である。

シャトレーゼ 斎藤寛会長
撮影=プレジデントオンライン編集部
シャトレーゼ 齊藤寛会長 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

第一声は「値上げはしない」だった。

「ロシアのウクライナ侵攻以降、小麦は20パーセント、油脂類は5割上がっています。他の材料も値上げされている。それでも、当社は商品の値段を上げることはしません。お客さまは給料が上がらないのです。それなのにお客さまに負担をかけるのは申し訳ないからです」

商品の値段を上げないためにやることは製造段階、物流工程のムダを省いたり、改善してコストを下げたりするという。加えて電気、水道などを節約し、包装の簡素化を進める。

同社は「値上げをしない」と宣言しただけではない。同時期に「社員の給料を10パーセントアップする」とも発表している。

ワークウエアのワークマンをはじめ、物価高でも値上げを凍結した会社はある。しかし、同時に社員の給料アップを断行したのはシャトレーゼだけではないか。

■本心から「お客さまのため」を考えている

齊藤会長は言った。

「物価が高くなった今だからこそ給料を上げなくてはならないのです。うちの給与の平均は少し前は年間580万円くらいでしたが、今は620万円にはなってます。ゆくゆくは800万円にはしたい。山梨県ではトップレベルの給与水準をめざします」

インタビューを行ったシャトレーゼの本社は決して新しくはない。節電しているから廊下は薄暗い。しかし、内部は掃除が行き届いていて清潔そのものだ。

食品企業であり工場も併設されているから、衛生管理に厳しい。オフィスへ入るには入り口で室内履きに履き替えなくてはならない。

履き替えるために下駄箱を見たら、会長と社長(齊藤貴子 会長の次女)の外履きの靴が並んでいた。失礼ながら、どちらも高級ブランド品ではなかった。会長、社長ともかなり使い込んだウォーキングシューズだった。

わたしは感心したし、「なるほど」と思った。

会長、社長ともに質実だ。ヒット商品のツートップ、シュークリームやバターどら焼きの価格を上げないために、ふたりとも贅沢とは言えない生活をしているのである。

齊藤寛は本心から「お客さまのため」を考えている。だから値上げしないと決めた。

■「おいしい」だけではヒットしない

齊藤の話を聞いてると、ヒット商品とは「おいしいだけではダメ」だとわかる。おいしいに加えて、さまざまな要素が必要だし、また、開発チームが優秀なだけでもヒットは長続きしない。ヒット商品を長く売っていくには経営の力が必要だ。

シャトレーゼ最初のヒット商品、シュークリームが好例だ。シュークリームの製造を開始したのは半世紀以上も前の1967年で、今も売れているヒット兼ロングセラー兼定番商品である。

値段は1個、100円。コンビニで同じようなシュークリームを買おうとすると、180円程度になる。町の洋菓子店だったら250円はする。

シャトレーゼのヒット商品は同業他社と比べると格段に安い。

シュークリームと並ぶヒット商品、バターどら焼き(1個129円)、粗搗(あらづ)き大福(1個108円)もまた同種のそれより安い。

良質の材料を使用し、製造から販売までが短いからシャトレーゼの商品は新鮮だ。新鮮で安いから売れるのは必至だ。

■始まりは「アイスクリームが売れない」だった

しかし、新鮮で安い商品を作るのは簡単にできることではない。ヒット商品を生む方法について、齊藤は次のように語った。

「シュークリームは自社製アイスクリームが売れなかったからこそできたヒット商品なんです」

齊藤が仕事を始めたのは1954年、彼は20歳だった。「甘太郎」という今川焼きのような、あんこが入った焼き菓子の店を甲府市内でオープンした。

「甘太郎」の前で。中央が齋藤寛会長。
写真提供=シャトレーゼ
「甘太郎」の前で。中央が齊藤寛会長。 - 写真提供=シャトレーゼ

焼きたてを売る菓子だから、冬場は売れるが、夏はパッとしない。店の数は増えたが、夏の売り上げが上がらないという問題は解決できないままだった。

そこで齊藤は夏向けの商品、アイスクリームの製造と販売に手を付けることにしたのである。

ちょうど叔父が東京で国会議員会館などで食堂経営をしていた。かたわら、アイスクリームの製造をやり、喫茶店やレストランに卸していた。叔父が「工場が狭い。もっと広い工場を作りたい」と言っていたので、齊藤が勝沼(山梨県)に新工場を建てることにしたのである。

■大量生産には成功したが…

東京の喫茶店、レストランへは勝沼からアイスクリームを運び、それ以外は地元の山梨県で売ればいい。自分がやっていた甘太郎の店でも売れる。そうすれば夏場はアイスクリーム、冬場は焼き菓子で儲けることができると考えたのだった。

齊藤はアイスクリーム工場を建設し、最新式の冷蔵、冷凍設備を整え、菌の繁殖を防ぐための衛生管理を徹底した。

シャトレーゼ 斎藤寛会長
撮影=プレジデントオンライン編集部
シャトレーゼ 齊藤寛会長 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

工場が完成し、操業をスタートしたのだが、できあがった商品を売ろうとしたら、明治乳業、森永製菓といった大手メーカーが販路を押さえていたことがわかった。

当時、アイスクリームが置いてあったのは洋菓子店やスーパーの店内にあるアイスストッカーだ。大手メーカーは自社のロゴが入ったアイスストッカーを貸し出し、売り場を押さえていた。齊藤がいくら営業しても、大手が優先権を持っているアイスストッカーの片隅にしか置くことができない。品質のいいアイスクリームを大量に製造することはできたけれど、売るところがないといった状態に陥ってしまったのである。

■「もうダメだ」と思ったところからヒットは生まれる

齊藤は思い出す。

「アイスクリームでは利益は出ませんでした。あの時、大手メーカーが先行している商品と正面から勝負しても勝てないとわかりました。そこで、アイスクリームではなく、大手が手を出したがらない商品を開発することにしたのです。

大手がやらないのはシュークリームのような生菓子でした。そこで、シュークリームを大量生産して価格を下げて売ることにしたのです。

幸い、アイスクリーム工場を作った時、製造技術、衛生管理技術を学んでいました。大量に製造する自信はあったのです」

1967年、齊藤はシュークリームの本格的な製造を開始した。当時、シュークリームを売っていたのは洋菓子店だけで、いずれも手作りだった。洋菓子店のそれはいくら安くても1個50円はした。その頃の大学卒初任給(公務員上級)は2万5200円、ガム1個(クールミントガム)は20円の時代である。

齊藤がシュークリームであれば工場の製造ラインで大量生産できると考えたのは正しかった。

シュークリームの製造工程は、シュー生地を焼く、カスタードクリーム(今は生クリーム)を注入するというふたつしかない。ふたつの工程を機械化すればいいのである。齊藤は東京の機械メーカーと一緒に自動の製造ラインを完成し、製造をスタートした。

■赤字に耐えるという覚悟がいる

齊藤は思い出す。

「できたことはいいのですが、また問題にぶち当たりました。町の小売店にはシュークリームを保存する冷蔵ケースがなかったのです。かといって小売店に冷蔵ケースを配る予算はありません。

どうしようかと悩んだ時、ふと思いついたのが店頭に置く時間を短くすること。店頭に長く置かない工夫をすればいい。それなら冷蔵ケースはいらない。そこで思い切って安い値段にしたのです」

彼はシュークリームを1個、10円にした。ガム1個の半分だ。売れないはずがない。

冷蔵ケースのない小売店に250個単位で卸したところ、瞬く間に売り切れて、追加注文が殺到した。

1967年、社名をシャトレーゼにした年、初めての大ヒット商品が誕生したのである。

焼き上がったシュークリーム。本社近くの豊富工場で生産されている。
撮影=プレジデントオンライン編集部
焼き上がったシュークリーム。本社近くの豊富工場で生産されている。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

ただし、値段が安いから当初は利益が出なかった。2年目になって1日に7万個を作れるようになってからやっと儲けが出た。それまでは赤字に耐えながら会社を経営していたのである。

ヒット商品を作るには赤字に耐えるという覚悟がいる。

■ジャスト・イン・タイムの発見

ただ、シュークリームというヒット商品が生まれたことで問屋との付き合いができ、アイスクリームの販路を確保することができた。お荷物だったアイスクリームも利益を生んでくれるようになったのである。

ヒットの理由はいくつもある。

なんといっても値段を安くしたことだ。同業者の5分の1だから競争力は圧倒的である。値段を下げた結果、飛ぶように売れ、結果として店頭に置いてある時間が短くなった。

齊藤は製造と物流におけるジャスト・イン・タイムの価値を知った。最後は赤字に耐える力だ。爆発的に売れることを予想し、薄利でシュークリームを製造したのである。

1個10円という値段は原価を積み上げてはじき出した値段ではない。経営者がリスクを背負い、赤字を覚悟して商品に賭けた意気込みで付けた常識破りの値段だ。だから、売れた。

齊藤はシュークリームというヒット商品を生んだだけではない。シュークリームを手始めにして、ヒット商品を生み出す経営を確立したのだった。(第2回に続く)

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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