50年前からSDGsを見通していた…「資本主義と闘った経済学者」宇沢弘文が日本人に伝えたかったこと
プレジデントオンライン / 2022年10月13日 9時15分
※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 11杯目』の一部を再編集したものです。
■米子が生んだ経済学者、宇沢弘文から得た病院経営のヒント
【原田省(鳥取大学医学部附属病院長)】永井さんと初めてお話させて頂いたのは、今から6年前、2016年のことでした。鳥取大学の副学長を兼務することになり、(鳥取市、湖山キャンパスの)経営協議会に出席するようになった。永井さんはこの経営協議会の委員でした。
【永井(認定NPO法人 本の学校顧問)】会議の後、米子まで同じ電車でしたね。
【原田】そのとき、永井さんが「いつも医学部にお世話になっています」とおっしゃったんです。永井さんが関わっておられる「よなご宇沢会」で医学部の記念講堂を使用されていたんです。恥ずかしながら、ぼくは「よなご宇沢会」を全く知らなかったんです。
永井さんから、会の冠となっている宇沢(弘文)さんが米子出身で、ノーベル経済学賞に値するほどの評価を受けた経済学者であることを教えてもらいました。この若造、病院長とかいいながら、何にもしらないと思われたんじゃないですか(苦笑い)。
【永井】(手を振って)いやいや、そんな風には思っていないですよ(笑い)。
【原田】永井さんから宇沢先生の名前をお聞きした直後、中海テレビで『米子が生んだ心の経済学者~宇沢弘文が遺したもの~』(2016年9月)がオンエアーされました。この番組を観て、こんなに凄い人が米子にいたことを知りました。そこから宇沢先生の本を読むようになったんです。
私は病院長になった後、悶々としていたんです。とりだい病院は、経済規模で考えれば山陰で最も大きな企業の一つ。その企業が高度医療の実践をするだけでいいんだろうかと。地域につながり、一緒に発展していくべきであるとは漠然と考えていました。
同時に病院がそこまで手を出してもいいのだろうか、それは医療機関の本分からはみ出すことではないだろうかと。
■宇沢弘文の社会的共通資本に基づいて医療を再構築
【永井】宇沢先生の言葉にヒントはありましたか?
【原田】社会的共通資本という言葉ですね。永井さんには釈迦に説法ですが、宇沢先生は社会的共通資本を〈ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置〉と定義されています。
【永井】はい。そこには「自然環境」「社会的インフラ」、教育や医療などの「制度資本」の3つのカテゴリーが含まれると。
【原田】宇沢先生の娘さんである、医師の占部まりさんから「(宇沢先生が)病院は社会的共通資本だって言ってましたよ」と教えられました。社会のためにこの病院を生かす、そのためには色んなチャレンジをしてもいいのだという裏付けをしてもらった気になりました。
【永井】原田先生が宇沢先生の考えに触れた時期、2016年から17年というのは、宇沢先生の功績が再評価される時期でした。2017年に日本医師会の横倉義武会長が世界医師会会長になっています。
会長が宇沢先生ゆかりのシカゴ大学で講演したとき、宇沢先生の社会的共通資本に基づいて医療を再構築しなければならないとおっしゃった。
■宇沢先生との印象的な出会い「まるで哲学者の問答のよう」
【原田】宇沢先生は2014年に亡くなられていますが、永井さんは生前の宇沢先生とお付き合いがあったんですよね。
【永井】本当に偶然の出会いでしたね。ある教科書出版社の記念式典があったんです。私は鳥取県の教科書供給会社の専務をやっていた関係でその会に出席しました。
会には、教科書の著者、監修者なども参加していた。私と同じテーブルに宇沢先生が座っておられたんです。
【原田】そのとき、すでに宇沢先生の本は読んでおられたんですか?
【永井】『自動車の社会的費用』は読んでいました。
【原田】自動車は現代機械文明の輝ける象徴である、利便性は上がっている一方、公害、歩行者の事故などの問題がある。自動車の“社会的費用”を具体的に算出した名著ですね。
【永井】この本がきっかけで、宇沢先生は社会科の教科書の監修をしておられたんです。すごい人がいるなとは思っていたんですが、米子出身の方と認識していませんでした。
私の胸についていたプレートの“鳥取県”という文字を見つけたとたん、宇沢先生の目が変わったんです。もう、らんらんというか。ぐーっと迫ってきたんです。「鳥取県、それも米子から来たのか」っておっしゃって(笑い)。
【原田】写真を見ると、宇沢先生は白く長い髭を生やしておられる。なかなか迫力ありますよね。
【永井】もう他のテーブルの方は全然無視。私に色んな話をされる。テストを受けているような感じでした。
【原田】永井さんがどのような人間なのかを知ろうとしたんですね。
【永井】(首を横にふって)宇沢先生は私のことを見抜くのは簡単だったでしょう。問答ですよ。プラトンなどの哲学者の問答のようなものです。
【原田】その問答に永井さんはついていくことができた。
【永井】いや、なんとか答えたという感じでしょうか。とにかく博識、博学な方ですから。私の親父の本棚に助けられた、というか。
【原田】(首を傾げて)本棚?
【永井】私の親父は旧制高校出身で、当時の旧制高校出身の方はみんなそうだったと思うんですが、リベラルアーツ、つまり教養というものをすごく大事にしていた。
本棚には(元東京大学総長、植民政策学者)矢内原 忠雄さん、(東京大学経済学部教授、社会思想家)河合 栄治郎さんなどの本が並んでいた。それらの本はぼくの頭の隅にずっとありました。
■出版も教科書も社会的共通資本
【原田】うちの父親も旧制高校出身なのでその感覚はわかります。
【永井】同時に私は親父たちの世代、旧制高校出身者のエリート意識に対する反発心もありました。エリートがこの社会を支えるという使命感を持つのも大切。
しかし、それ以上に、一人ひとりの人間が自分のやるべきことを考えることが大切。そういう広く深い土壌が必要ではないかと。
【原田】そちらの方が成熟した社会ですよ。だからこそ、永井さんは、書店経営の他、本の流通、図書館の充実に尽力された。永井さんの生い立ちをお聞きしていいでしょうか? 生まれは米子市ですよね。育ちは……。
【永井】親父の教育方針で中学2年生から東京です。とはいえ、親父が望んだような大学、学部には進みませんでした。たまたま、卒業が近づいたとき、鳥取市の書店が新学期直前に傾いたんです。
そこは教科書の供給のかなりの部分を担う規模の書店でした。緊急に代行しないと地元の教育に支障が出る。
【原田】永井さんは東京に残って大学院に進むつもりで、家庭教師と新聞配達を掛け持ちして資金を貯めていたとか。
【永井】大学3年生になってようやく学ぶことの面白さに気がついたんです。しかし、親父とお袋が上京してきて説得されました。(第二次世界大戦の)戦中戦後と母がずいぶん苦労していたのを知っていました。母親の一滴の涙に負けました(笑い)。
【原田】今から50年以上前のことですね。当時、情報の地方格差は今以上に大きかったのではないですか?
【永井】地域の出版文化の構造的な問題、流通の問題。そのときの原体験が大きいですね。出版も教科書も社会的共通資本なんです。それを少しでも良くしようと、みんなで一生懸命やってきたという感じです。
■SDGsをいち早く体現した孤高の天才
【原田】現在、とりだい病院は新病院に向けて動き始めています。そこで社会的共通資本という概念は一つの鍵になると考えています。
【永井】98年に発刊された宇沢先生の『日本の教育を考える』という本で最終章として〈鳥取県の「公園都市構想」〉と一章を割いています。これは当時の西尾邑次(鳥取県)知事が提唱した公園都市構想に呼応したものです。
公園とは、それまで国王や貴族が私物化、占有していた美しい庭園や文化的、学術的、芸術的施設を一般市民に開放したものが公園の始まりであると。この公園を中心に街を作って行く。
【原田】西尾さんは83年から99年まで県知事を務められましたね。
【永井】宇沢先生は〈鳥取県の人間的、自然的、歴史的、文化的、経済的特性を考慮すると、教育と医療にかかわる社会的共通資本を中心として「公園都市」の形成をはかることが望ましい〉と書いています。これはまさに今、とりだい病院が計画している新病院と重なります。
【原田】教育と医療、まさに鳥取大学ととりだい病院のことです。
【永井】宇沢先生は、この理念を具現化するために、中高一貫の全寮制の「農社学校」、「リベラルアーツ」の大学としての「環境大学」などの事業を起こして、その実態と経験をふまえて、弾力的に未来を構築していくべきだとも書かれています。その中核事業が〈長期療養、リハビリテーションの医療機関を中心とした「医療公園」〉であると。
【原田】ここには自然環境もあるし、温泉もある。新型コロナでストップしていますが、他の地方から患者さんに来てもらうというメディカルツーリズムを我々も考えていました。
【永井】現在進んでいる新病院についても、自然と共生した市民に愛される新しい病院となって欲しいです。
【原田】自然との共生は宇沢先生の中核思想の一つですね。新技術、文明と自然が衝突することがあります。宇沢先生は前出の『自動車の社会的費用』で自動車という文明の利器の負の部分をとりあげています。
20世紀は自動車の時代ともいえます。あえてそこに戦いを挑んだ。相当な摩擦があったはずです。さらに成田空港問題、公害問題などに果敢に取り組まれました。
【永井】宇沢先生は、現実社会の中の弱いもの、小さいものの存在を常に視野に入れられていた。先生の優れた評伝『「資本主義と闘った男」宇沢弘文と経済学の世界』を書かれた佐々木実さんは、“前期宇沢”と“後期宇沢”と分けています。
宇沢先生は、『自動車の社会的費用』で前期宇沢の光り輝く栄光を捨てたんです。経済界、経済学の世界と溝が出来た。それを恐れることもなく自分の信念を貫き、行動した。今でこそ、SDGs(持続可能な開発目標)という概念があります。でも、当時は理解されることは稀だった。孤高ですよ。
【原田】天才の孤独といえるかもしれません。
■いま、宇沢弘文の理念を実践できるか問われている
【永井】温暖化など今、地球は宇沢先生が憂いた問題に直面しています。環境のコストや炭素税の数値化など、具体的で精微な分析を読み解くのは、宇沢先生のように数式に通じていないと難しい。
それでも一人ひとりがそれぞれの分野でできることがある。今、宇沢先生の理念を実践できるか問われているような気がするんです。
【原田】我々、とりだい病院は社会的共通資本として何ができるか、ですね。
【永井】私事になりますが、私は要介護4の妻との老々介護の生活を送っています。とりだい病院パンフレットの『トリシル』の中に看護師さんが原田病院長からこれから病院は積極的に街に出て行くように言われたという記事がありました。
【原田】「医療福祉支援センター」の木村公恵師長の〈大学病院と行政、地域の医療施設の「真の連携」を求めて〉ですね。
【永井】はい。とりだい病院には、高度医療はもちろんですが、地域全体を支える医療機関としての機能を期待しています。
【原田】ありがとうございます。今後ともご意見を宜しくお願いします。
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経済学者。1928年、米子市法勝寺町に生まれ、家族で東京に引っ越す3歳までを米子で過ごす。1951年東京大学理学部数学科卒業。河上肇著『貧乏物語』に影響を受けて経済学へ転向。アメリカの経済学者ケネス・アローの招きでスタンフォード大学の研究員となった後、助教授へ就任。35歳の若さでシカゴ大学教授となる。その後、東京大学経済学部教授、同学部長、新潟大学教授、中央大学教授などを歴任。1997年、文化勲章受章、米子市「市民栄光賞」を受賞。2014年9月18日に亡くなるまで、真に豊かに生きることができる条件を、生涯をかけて具体的に探求し続けた。主な著書に『自動車の社会的費用』『「成田」とは何か』『地球温暖化を考える』『日本の教育を考える』『社会的共通資本』など。
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認定NPO法人 本の学校顧問
鳥取県米子市生まれ。認定NPO法人本の学校顧問、ブックインとっとり地方出版文化功労賞実行委員会顧問、「よなご宇沢会」会員、元今井書店グループ役員(本年創業150年)。都立戸山高校卒業。早稲田大学教育学部入学・商学部1966年卒業。事業を継承し書籍小売、教科書供給、印刷出版の傍ら、児童文庫の輪を広げる「本の会」、読書推進と市町村図書館振興の活動に関わる。1991年サントリー地域文化賞。1994年日本図書館協会功労賞。1995年今井書店グループが本の学校設立。2009年、今井書店グループと本の学校が第57回菊池寛賞。2012年本の学校をNPO法人化。
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鳥取大学医学部附属病院長
1958年兵庫県出身。鳥取大学医学部卒業、同学部産科婦人科学教室入局。英国リーズ大学、大阪大学医学部第三内科留学。2008年産科婦人科教授。2012年副病院長。2017年鳥取大学副学長および医学部附属病院長に就任。患者さんと共につくるトップブランド病院を目指し、未来につながる医学の発展と医療人の育成に努めながら、患者さん、職員、そして地域に愛される病院づくりに積極的に取り組んでいる。好きな言葉は「置かれた場所で咲きなさい」
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ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『全身芸人』『ドラヨン』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。(株)カニジル代表取締役。今年8月より東京と米子の二拠点生活中。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太)
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