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「これが正解かどうかは分からない」天才レスラーの最後の対戦相手になった男が再びバックドロップを放つまで

プレジデントオンライン / 2022年10月17日 15時15分

2006年の試合で、三沢さんのエルボーを受ける斎藤さん - 写真提供=プロレスリング・ノア

2009年、プロレスラーの三沢光晴さんが試合中の事故で亡くなった。対戦相手だった斎藤彰俊さんは、責任を感じ、一度は自ら命を絶つことも考えたという。その後、斎藤さんはどのような思いを抱え、どんな人生を歩んだのか。読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた書籍『人生はそれでも続く』(新潮新書)より紹介する――。(第2回)

■「天才」と呼ばれたレスラーが受けた最後のバックドロップ

約2300人のファンの熱気で、会場は沸いていた。2009年6月13日、広島県立総合体育館。「プロレスリング・ノア」の人気プロレスラーだった三沢光晴さんと、斎藤彰俊さんが、リング上で渾身(こんしん)の技をぶつけ合った。

試合開始から30分。斎藤さんがバックドロップを放った。どんな技を受けても不死身のように起き上がり、「受け身の天才」と呼ばれた三沢さんが、倒れたまま動かない。

会場は騒然となり、心臓マッサージが始まる。「三沢さんなら必ず起き上がる」。斎藤さんは祈り続けた。だが、三沢さんが目を覚ますことは、二度となかった。

リングで倒れた三沢さんが運ばれたのは、広島市内の大学病院だった。斎藤さんも駆けつけた。

背後から相手の腰を両腕で抱え、後ろへ反り投げる「バックドロップ」。その技を、斎藤さんが三沢さんにかけた。それからわずか1時間余り。三沢さんが亡くなった。46歳だった。午後10時10分。死因は頸髄(けいずい)離断という。斎藤さんは病室で三沢さんと対面し、立ち尽くした。

■死んでおわびをするか、引退か、それとも…

夜が明け、朝になった。その日も、福岡県で試合が予定されていた。対戦カードは、多くの関係者が苦労して練り上げている。プロとして、「休む」という選択肢はない。

死んでおわびをするか、引退してリングから去るか、試合に出るか。この三択しかないと、斎藤さんは考えた。

所属するプロレス団体「プロレスリング・ノア」の指示もあり、病室を出て、宿泊先のホテルに向かった。途中、大きな川にさしかかり、橋のたもとから河原に下りた。

ここで自分の一生を決めなければ。川のせせらぎを見つめながら、思い定めた。

憧れ、尊敬していた三沢さんに全身でぶつかった。自ら命を絶ったり、引退したりするのは逃げになる。「自分が消えれば、ファンの怒りや哀(かな)しみの行き場がなくなる。リングに上がって、皆さんの見える所で、全てを受け止めよう」

斎藤さんは「試合に出る」という決断をした。

■元水泳選手の空手家が進んだ傍流

仙台市出身の斎藤さんは、小学生で競泳を始めた。愛知・中京高に進んでインターハイを、中京大でインカレなどを制し、五輪の強化選手に選ばれた。だが、1988年のソウル五輪の代表選考会は5着。五輪には行けず、競泳は引退した。名古屋市のスポーツ関連団体に就職した。

インカレ優勝時の斎藤さん
写真提供=斎藤さん
インカレ優勝時の斎藤さん - 写真提供=斎藤さん

実は、幼い頃からプロレスや空手漫画も好きで、高3からは、空手道場にも通い始めた。水泳はやめられても、プロレスへの熱い思いは消えない。90年、斎藤さんは愛知県半田市で行われた試合に上司に黙って出場し、デビューを果たす。「技が効いているかいないかも、わからなかった。でも、リングに立てた感動が忘れられない」

まだ20歳代半ば。体は動くし、体力には自信がある。所属先のあてもないまま職場に辞表を出した。フリーの立場で、小規模団体が主催する興行への出場を重ねた。

日本のプロレス界には、かつてジャイアント馬場さんが率いた「全日本プロレス(全日)」と、アントニオ猪木さんが創設した「新日本プロレス(新日)」の2大潮流がある。〈元水泳選手の空手家〉の斎藤さんは、そのどちらにも縁(ゆかり)がなく、いわば「傍流」を漂っていた。

そんな斎藤さんは、92年1月、新日本プロレスの東京ドーム大会に空手団体の仲間と乗り込んで注目され、新日への参戦が認められる。だが、プロレスの基礎を知らない。

「まずは受け身を覚えさせなきゃダメだ、と思ってね」。ベテランレスラーのザ・グレート・カブキさんが、見るに見かねて教えてくれた。「蹴りは速くて運動神経もいい。何より素直で、やる気があったから」

少しずつ技を身につけた斎藤さんだが、生活や立場が安定してくると、「自分にはハングリー精神が足りない」と思い始める。「今までやったことがないことを、一番条件の悪い所でやろう。成功したら、プロレスに戻ろう」

99年、突然、新日を脱退し、不動産業者が「絶対に繁盛しない」と言った名古屋市内の路地裏の雑居ビルでバーを始めた。

バー時代の斎藤さん
写真提供=斎藤さん
バー時代の斎藤さん - 写真提供=斎藤さん

昼はアルバイトもしながら生計を立て、やがて800種類の酒を揃(そろ)えたこだわりの店として知られるように。経営が軌道に乗った頃、三沢さんの「ノア」設立を知った。

■「三沢さんの下でリングに上がりたい」

同じプロレスラーでも、三沢さんは「育ち」が違った。レスリングの名門高校の出身で、全日本プロレスでは2代目タイガーマスクとして活躍。全日を脱退後、2000年8月にノアをつくると、三沢さんを慕って多くの選手が移籍した。

「2大潮流のうち、自分は新日を経験した。全日にいた三沢さんの下で、もう一度リングに上がりたい」

三沢さんが名古屋に来ると聞き、斎藤さんは直談判に行った。ほんの数分。立ち止まって話を聞いてくれた三沢さんは「包み込むような大きさがあった」。後日、ノアの試合で力量を試してもらえることになった。

リングから離れた間も体は鍛えていた。結果は「合格点」。バー経営をどん底からなし遂げたことで、ハングリー精神が戻った手応えがあった。

プロレスに復帰した斎藤さんは、持ち前の「真正面からぶつかる」スタイルで突き進んだ。三沢さんとも何度も対戦した。そのたびに、三沢さんの強烈な「エルボー」の威力と、受け身のうまさ、どんな攻撃を加えても立ち上がる強靱(きょうじん)さに、畏怖の気持ちがどんどん大きくなった。

■決して危ないバックドロップではない

「本当に普通のバックドロップで、写真を見たら、技にも受け身にもミスがなかった。あれは危ないシーンではなかったと、その事実を伝えなければと思いました」

斎藤さんが三沢さんにかけた最後の技について、雑誌「週刊プロレス(週プロ)」の当時の編集長だった佐久間一彦さんは言い切る。会場にいたカメラマンの落合史生さんの連続写真が、それを示していた。

斎藤さんは、試合の流れを変えるためにこの技を使う。「試合が動くタイミングを逃さないようシャッターを切った。違和感のないバックドロップだった」と落合さん。佐久間さんの判断で、一連の写真は週プロに掲載された。

当の斎藤さんは、どんな厳しい言葉も受け止める覚悟で、三沢さんの死の翌日、09年6月14日に福岡で行われたノアの試合に出た。

試合中、罵声は飛ばなかった。「むしろ、温かい励ましの雰囲気だった。三沢さんのファンは三沢さんの人間性も支持していたと思うけど、その偉大さを改めて感じた」

だが、リングの外は違った。「危険なバックドロップ」「三沢を返せ」――。斎藤さんのインターネットのブログには非難が相次いだ。

■三沢から届いた最後の手紙

三沢さんの死から数カ月後。斎藤さんはノアの幹部から1通の手紙を受け取った。三沢さんの知人が、生前の三沢さんとの会話を思い出しながら書き起こしたという。手紙によれば、三沢さんは、試合中の不慮の事故で自分が死ぬ状況を想定し、対戦相手への言葉を遺(のこ)していた。

三沢さんの言葉記した手紙
写真提供=読売新聞社
三沢さんの知人が、生前の三沢さんの言葉を思い出しながら書き起こした手紙 - 写真提供=読売新聞社

「本当に申し訳ない 自分を責めるな 俺が悪い」「これからも、己のプロレスを信じて貫いてくれ」

何十回、何百回と読み返して、斎藤さんはその言葉を心に染み込ませた。

三沢さんと共にノアを牽引(けんいん)した元プロレスラー、小橋建太さんは言う。「必死に闘った中で起きたこと。三沢さんは、斎藤選手の十字架を早く取ってあげたいと、そんなもの背負うなよと、思っているはずなんです」

■「これが正解かはわからない。でも…」

斎藤さんは自分の年齢を公表していない。調子が悪い時、「年だから仕方がない」と思いたくないからだ。コロナ禍で試合は減ったが、今も月に5、6回はリングに上がる。

読売新聞社会部「あれから」取材班『人生はそれでも続く』(新潮新書)
読売新聞社会部「あれから」取材班『人生はそれでも続く』(新潮新書)

ツイッターには、「よくのほほんとノアのリングで試合できますね」といったメッセージが今も届く。それには、「辛(つら)い思いをさせてすみません。考え抜いて出した結論ですので、闘い続けようと思っております」と返信している。

「皆の気持ちを受け止める、なんて偉そうに言ったけど、実際には自分の容量をはるかに超えていて。でも、筋肉もそうですけど、衝撃で破壊された後に休息を取ると、以前より大きくなりますよね」。心も、何回も壊れて修復したら大きくなると、自分に言い聞かせている。

あの事故以降、バックドロップはほぼ封印してきた。だが20年6月、かつて三沢さんとタッグを組んでいた潮崎豪さんに、久々に放った。斎藤さんは、三沢さんにアピールするかのように、人さし指を天に向けた。

今年は、三沢さんの十三回忌だった。プロレスラーを続けた自分の選択に後悔はない。「これが正解かどうかは分からない。でも、天国に行った時、三沢さんから『それで良かったんだよ』と認められるような、胸を張れるプロレスを続けたい」

若手レスラーと真正面からぶつかれなくなるまで、斎藤さんはリングに上がろうと思っている。(2021年12月12日掲載/沢村宜樹)

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読売新聞社会部「あれから」取材班 過去のニュースの当事者に改めて話を聞き、その人生をたどる人物企画「あれから」を担当。メンバーは社会部の若手記者が多い。人選にこだわり、取材期間は短くても3カ月。1年近くかけることもある。2020年2月にスタート。ネット配信でも大きな反響を呼び、連載継続中。サイトはhttps://www.yomiuri.co.jp/feature/titlelist/%E3%81%82%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89/

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(読売新聞社会部「あれから」取材班)

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