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戦国時代が終わって「用済みの人間」になったのに…豊臣方の勇将・立花宗茂は、なぜ江戸幕府に重用されたのか

プレジデントオンライン / 2022年10月25日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

「定年後の人生」にはどう向き合えばいいのか。今年63歳で大手出版社を退職し、作家になった羽鳥好之さんは、戦国時代の勇将・立花宗茂の晩年にヒントを求めた。関ケ原で徳川家に敵対した大名のうち、旧領を回復したのは立花家だけ。「西国無双」と称賛された宗茂は、なぜ平和な時代にも重用されたのか。羽鳥さんが歴史小説『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』で描いた宗茂の秘密とは――。

■「僕はもうこの会社で用済みの人なんだ」

人生が長くなり、社会人生活に一区切りをつけた後の時間をどう充実させてゆくか、多くの人たちの切なる関心事であり、重大なる課題です。私自身、本年、63歳で出版社を退社したものの、残る人生にどう向き合ってゆくのか、戸惑いの日々でした。

正直、もう1年で任期が終わるとなった時には、自分でも驚くほどにうろたえ、あてもなく都内をうろついて、気持ちの整理をつけようともがいていました。当然、予測されたことなのに、残りが1年になるまでこの問題と真剣に向き合うことがなかった。

いや、避けてきただけなのかもしれません。ああ、そうなか、僕はもうこの会社では用済みの人なんだ、この実感は相当にショックキングなものでした。

そうか、ならば、この思いを小説にしてみたらどうだろうか、そう思ったのは、いいかげん都内の散歩にも飽きたころでした。

そうした先行作品がないわけではないことは知っていましたが、何か、これまでになかったアプローチができるならば、読んでくれる人がいるかもしれない、いや、読んでもらえるようなものができなかったとして、さして支障があるわけでもなし、何を恐れることがあるだろうか、そんな思いがふつふつと沸き上がりました。

幸い、コロナ禍で友人知人たちと過ごす席もなくなり、夜、時間はたっぷりとあります。もともと小説の編集の仕事が長かったこともあって、見よう見真似、ともかくは書き出してみようと腹を決めました。

■戦国屈指の勇将・立花宗茂に注目したワケ

そもそも歴史好きだった私は、大好きだった戦国武将のひとり、九州の立花宗茂が晩年、江戸幕府から厚遇を受けたことに興味を抱いていました。

戦場の勇猛な宗茂を描く小説はあっても、その晩年を描いたものは読んだことがない、ならば、60代も半ばに至った戦国屈指の勇将が、戦いのない世をどんな思いで生きたのか、それを描いてみるのが、いまの自分に一番ふさわしいテーマには違いない、そう考えたのでした。

主人公の立花宗茂は、豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で奮戦し、“西国無双”と称賛された名将です。

しかし、天下分け目の決戦、関ケ原の戦いでは、秀吉への恩義から劣勢を承知で西軍に合流します。しかし、宗茂が別の戦場に派遣されている折、決戦はわずか一日で徳川方の勝利に終わり、敗将となって改易処分となりました。

ここまでは戦国ファンにはよく知られたこと。実は、その後、浪人生活の辛酸をなめたものの、家康、秀忠からその高い能力を惜しまれて、かつての領地、筑後柳川藩の大名に返り咲きます。関ケ原で徳川家に敵対した大名で、旧領を回復したのは立花家だけでした。

■三代将軍・家光からの突然の呼び出し

平和の世に、二代将軍秀忠の「御伽衆」として側近く仕えた宗茂は、60代も半ばを過ぎた老境に至り、三代家光に一層、重きを置かれます。

あまり知られてはいませんが、茶の湯や連歌、能や蹴鞠といった芸事に通じたインテリでもあったので、江戸のサロンでは幅広い交際を結んでもいます。晩年には「御伽衆随一」と称され、諸大名から大いに羨まれたことが幕府正史に記されています。

かつての江戸城、現皇居
写真=iStock.com/ziggy_mars
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ziggy_mars

さて、物語は、二代秀忠の病いが重篤になり、新たな時代が幕を開けようとする寛永8年から始まります。親政に気持ちを昂らせる三代家光は、神君家康がいかにして関ケ原を勝ち抜いたのか、老将宗茂を召して、その考えを開陳するよう命じます。

宗茂にとって、これはかなり剣呑な諮問でした。なぜ、いま関ケ原なのか、その意図がはっきりしないからです。

前回の代替わり、家康が亡くなって秀忠の親政が始まるや、福島正則、出羽最上家といった大大名が次々と改易されて、諸国を震撼(しんかん)させたことが脳裏をよぎります。もし親政への昂りからまた改易騒動が引き起こされるとしたら、その材料に関ケ原が使われるとしたら――。

いざ、家光へのご進講が始まり、宗茂が関ケ原に関する自身の経験や考えを開陳する中、ふたりの論議はある結論に至ります。

■豊臣方だった老将から見た関ヶ原の戦い

決戦の勝敗を分けた要因は、やはり、西軍の毛利が戦況を傍観し、結局は戦場に出なかったことが決定打ではなかったか。

毛利はなぜ、総帥の輝元が総大将として大坂城に入りながら、前線指揮官の吉川広家が家康に寝返ったのか。

この広家の裏切りを、同じ前線にいたもう一人の大将の毛利秀元、一時は輝元の養子となって本家を継ぐはずだった気骨の武将が、なぜ、容認してしまったのか。

二人は、当の秀元を御前に呼び出し、その疑念を質すことにいたします。

これは、毛利家には相当に厄介な話でした。家康に歯向かった家として、改めて、何か言いがかりをつけられるのではないか、返答如何によっては、重大な危機に陥る恐れもあるからです。

しかし、将軍家の呼び出しを断ることは許されません。

恐る恐る御前に現れた秀元は、家光の熱い思いに抗しきれず、遂に、いままで語ることのなかった決戦前夜を語り出します。徐々に「関ケ原」の真実が明かされてゆく――。ここは法廷ミステリのような描き方を試してみました。

■将軍家の厚遇に報いる道を探し求める

歴史は謎に満ちています。なかでも、史上最大の合戦であった関ケ原は、いまなお多くの歴史学者や愛好家によって、さまざまな絵解きがなされています。

私自身、関ケ原に関してずっと疑問を抱いていた点もあり、今回、多数の資料に目を通し、積年、興味を抱き続けてきた「天下分け目」の謎に挑んでみました。結果、ある結論に至ったことも、書いていてとても興奮したできごとでした。さて、多くの関ケ原ファンにどう読んでいただけるか、怖くもあり、楽しみでもあります。

ここまでが前半部です。後半からが、今回の主要なテーマ、立花宗茂の晩年の境地に迫ることになります。

ストーリーは、家光の弟である駿河大納言忠長を巡る騒動から、熊本の加藤家、そう、あの加藤清正の藩の改易へと話が進みます。

やはり、代替わりの改易騒動は勃発しました。幕府のさらなる安定に向けて、大名統制を強化しようとする家光に対して、宗茂は懸念を深めてゆきます。

もはや「残躯」となった自分にできることがあるとすれば、それは若き将軍家が「大樹」(江戸時代はこの言葉が将軍を指しました)となる手助けをすることではないか。それが、将軍家の厚遇に報いる道ではないのか。

宗茂は腹を切る覚悟で、家光との面談を求めます。

島津家久ら、親しい友人たちの制止も振り切り、宗茂が江戸城本丸御殿の奥深く、家光の御座所で決死の諌言を試みる場面は、我ながら、迫力満点の描写ができたように思います。

■残りの人生に必要なものは何か

描き終えて思うことは、晩年の人生を彩るのは、友人知人の存在、それまで生きてきた自分の道筋を知ってくれている存在との、語らいの時間ではないでしょうか。それが、ともすれば安易に流れてゆきがちな晩年の時間を、正してくれるように思います。

羽鳥好之『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』(早川書房)
羽鳥好之『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』(早川書房)

最後に。立花宗茂は戦場での生活が長かったゆえか、愛する正室との間に良好な関係を築くことができず、その若すぎる死にも立ち会うことができませんでした。

それを生涯の悔いとしていた宗茂の晩年の恋、徳川きっての姫君への密かな恋慕を描くことにも、丁寧に筆を重ねました。

そこにも宗茂の人生の足跡、誰にも語ることのできなかった深い思いが隠されていると思ったからです。お楽しみいただけましたら幸いです。

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羽鳥 好之(はとり・よしゆき)
作家
1959年生まれ。群馬県出身。早稲田大学第一文学部卒。1984年文藝春秋に入社し、「オール讀物」編集長、文藝書籍部長、文藝局長などを歴任。2022年文藝春秋退社後、『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』(早川書房)で作家デビュー。原型となる作品が2021年、日経小説大賞最終候補作となる。

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(作家 羽鳥 好之)

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