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個人を搾取する宗教団体を法的に罰する…旧統一教会問題で「フランスの反セクト法」を参照すべき理由

プレジデントオンライン / 2022年10月17日 15時15分

記者会見中に涙ぐむ旧統一教会の元2世信者。2022年10月7日、外国特派員協会にて - 写真=アフロ

旧統一教会をめぐる問題で、日本にもフランスのカルト規制「反セクト法」を導入したほうがいいという声が上がっている。フランスの政教分離政策に詳しい東京大学大学院の伊達聖伸教授は「信教の自由を守りながら、逸脱行為を規制することはできる」という――。

■統一教会に解散命令を出すことは可能なのか

旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)関連団体と関係があった現職国会議員は168名――。ジャーナリストの鈴木エイト氏が、そのリストを『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』(小学館、2022年)で公開している。

組織票で当選できた議員から、関連団体のイベントに出席ないし祝電を打った程度の議員まで濃淡はあるが、168名のうち113名が自民党議員。ここまで政治に食い込んでいたのかと驚きが広がっている。

他方、旧統一教会から被害を受けてきた人の声にも注目が集まっている(2015年に名称変更があったことに鑑み、以下では文脈に応じて「統一教会」または「旧統一教会」と表記する)。10月7日には、元2世信者の20代女性が日本外国特派員協会で会見を開いた。生い立ちや両親と教団との関係を語り、「被害者や子どもの権利が守られる国であってほしい」と述べ「教団を解散させて」と訴えた。

10月11日には、全国霊感商法対策弁護士連絡会が文部科学省と法務省に対し、旧統一教会の解散命令を請求するように申し入れた。とはいえ、宗教法人の所轄官庁で解散命令請求権を持つ文化庁の姿勢は消極的である。

社会的に問題のある宗教と政治の関係を断ち切り、被害者支援を充実させるには、現在の法律や活動の枠組みで可能だろうか。それとも法改正や新しい取り組みが必要なのか。

■フランスのカルト対策「反セクト法」への2つの誤解

このような状況で、フランスの「反セクト法」が参考になるのではと、「霊感商法等の悪質商法への対策検討会」などでも一定の関心を集めている。

フランス語の「セクト」は、日本語なら「有害なカルト」に相当する。フランスは厳格な政教分離と説明されることの多い「ライシテ」を国是としている国で、2001年に制定された「反セクト法」はこの国のカルト対策の姿勢を示す象徴的な法律と言える。

ただし、この反セクト法については、ともすると2つの誤解があるように見受けられる。ひとつは、この法律を導入すれば日本の問題も解決できるとするものである。もうひとつは、この法律は特殊フランス的なものだから日本にはなじまないとするものである。

もう少し腰を据えた比較をしてみる必要があるのではないか。ライシテの国の「反セクト法」とは実際にはどのようなものなのか。フランスのライシテを鏡として用いると、日本の現状はどのように映るだろうか。

■「反セクト法」でもカルト団体の定義はしていない

フランスの反セクト運動の始まりは1970年代半ばで、統一教会の被害を受けた家族が結成した団体がもとになっている。だが、国レベルでセクト対策が必要との認識が高まり、社会で広く共有されるようになるのは1990年代半ば以降だ。そのきっかけとなった事件に、1995年3月に日本で起きたオウム真理教の地下鉄サリン事件も含まれる。

1995年末にまとめられた議会の委員会報告書では、ある団体が「セクト」であるか否かを識別するための10の基準が示された。

「精神の不安定化」「法外な金銭要求」「元の生活からの引き離し」「身体に対する加害」「子どもの加入強要」「反社会的な言説」「公序に対する脅威」「訴訟を多く抱えている」「通常の経済流通経路からの逸脱」「公権力への浸透の企て」である。多くの項目が統一教会に当てはまるものと思われ、参考になる。

ただし、2001年に制定された「反セクト法」では、「セクト」の定義はされなかった。たしかにライシテには、宗教に対して戦闘的な面や、厳格な政教分離の面がある。だが、国家の宗教的中立性や、良心の自由および礼拝の自由の保障も柱にしている。

ライシテの国だから反セクト法ができたと言えるところがある反面、ライシテの国だから「セクト」の法的定義ができなかったのである。ライシテの国家の使命は、一部の宗教団体を「セクト」と規定することではなく、「セクト的運動団体」の逸脱行為を規制することにある。

■「反セクト法」は宗教団体を解散させる道具ではない

この法律は第1条で、当該法人が裁判で有罪が確定したときには解散の宣告がなされうると解散規定を定めているが、実は法律制定以来まだ適用されたことがない。

条文の存在自体がセクト的逸脱の歯止めとして機能してきたことは考えられるが、使い勝手よく団体を解散させる道具として運用されてきたわけではまったくない。フランスの「反セクト法」を日本に導入すれば、宗教団体の解散が容易になると考えるのは誤解である。

なお、同法は第20条で「無知・脆弱状態不法利用罪」を定め、身体的・精神的・社会的に弱い立場にある者を不当に利用することを処罰の対象としている。こちらは適用例がある。そこには個人の弱みにつけ込む集団には国家が介入することも厭わないという明確な態度が見られる。

この共和主義的な精神は、ある観点から見れば信教の自由を脅かす宗教弾圧のように映るかもしれないが、別の立場から言えば個人の自由と権利を重視する態度の表れである。

フランス・パリの凱旋門の下で舞う、大きなトリコロール
写真=iStock.com/olrat
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/olrat

■オウム事件後、統一教会は捜査されたが解散命令には至らなかった

戦後の日本は、戦前の宗教弾圧への反省もあり、憲法で保障された信教の自由を尊重して、国家が宗教団体に介入することは極力控えられてきた。

オウム真理教の地下鉄サリン事件は世界に衝撃を与えたが、すでにさまざまな違法行為で知られていた団体に当局が介入を避けてきたことも驚きの念をもって受け止められた(ナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』、白水社、2014年)。

ただし、宗教団体にさまざまな優遇措置を設けている宗教法人法も、宗教法人が「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」をした場合には、裁判所は所轄庁の請求などにより解散を命ずることができると第81条で解散命令を規定している。そしてこの規定が事件後のオウムに適用され、1996年1月には最高裁で解散命令が確定した。

これまでに解散命令が適用されたのはオウムだけではない。

2002年には和歌山地裁が明覚寺に対して解散命令を出している(法の華三行は2001年に破産して解散)。警察庁はオウムの次は統一教会と狙いを定めており、2008年から翌年にかけては統一教会関連組織が警視庁公安部などの捜査を受けたが、解散命令請求までには至らなかった。背後には「政治の力」があったとされる(有田芳生『改訂新版 統一教会とは何か』大月書店、2022年)。

■大きな違いは「政治との距離」

オウムと統一教会は、反社会的な行為をしてきた点では似ている。

大きく異なるのは、違法行為のレベルだけではなく、戦後の日本で政治的正統性を有してきた集団との距離である。オウムは真理党を結党して国政に挑んだが、全員落選した。統一教会は国際勝共連合という政治団体を作って反共を掲げ、右派政治家の庇護を取りつけることに成功した。

千代田区永田町にある自民党本部
写真=iStock.com/oasis2me
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oasis2me

その点では、統一教会はむしろ神道政治連盟や日本会議と同じような位置を占めている(櫻井義秀「戦後日本における二つの宗教右派運動 国際勝共連合と日本会議」同編『アジアの公共宗教』北海道大学出版会、2020年)。政党ではなくロビー団体を作り、政策の一致する政治家を選挙で応援するというやり方である。

神道政治連盟や日本会議と自民党の関係は、2012年以降の安倍長期政権で大きく明るみに出た(菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年など)。この宗教右派は、「宗教」であることを表立ってうたうことは少なく、むしろ隠すという特徴を持っていた。

安倍晋三元首相銃撃殺害事件を受けて、現在大きく明るみに出ているのが、旧統一教会およびその関連団体と自民党との関係である。右派で、政治と「ズブズブの関係」で、「宗教」であることを隠す傾向を持つところまで、神道政治連盟や日本会議と旧統一教会およびその関連団体はよく似ている。

■憲法改正や家族観の共有から「異端」と結びつく政治

安倍元首相が政権の座にあった時には神道系の団体との密接な関係が、その死後には旧統一教会との関係がクローズアップされている。この時間差もさることながら、政治と宗教の関係を見直すべきという声がより強まっているように思われることも興味深い。

これは、神道系の宗教が日本の政治と結びついていても「まつりごと」としてさほど違和感を持たない日本人でも、異端的なキリスト教で韓国ナショナリズムの特徴も持ち、霊感商法などで人びとに大きな被害をもたらしてきた旧統一教会が、日本の政治に深く浸透していた事実に衝撃を受けていることの表れと考えられる。

韓国にある世界平和統一家族連盟の教会の前で
写真=iStock.com/Koshiro Kiyota
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Koshiro Kiyota

歴史家の安丸良夫は、戦前の天皇を中心とした国体論を正統とする説のなかに生まれた異端的な宗教運動を「O(オーソドキシィ)異端」、まったく異質な系譜に連なるものを「H(ヘテロジーニアス)異端」と名づけた。宗教社会学者の塚田穂高はこれを戦後日本の政教関係に応用している(『宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』花伝社、2015年)。

この区別を用いると、国家神道の流れをくむ神道政治連盟や日本会議は正統的宗教ナショナリズムに近いO異端、韓国出自でキリスト教系の統一教会はH異端ということになるだろう。そのうえで統一教会が独特なのは、憲法改正をめぐる問題や家族観などでは、政権与党の自民党とむしろ考えの一致が見られることである。

■日本は政教分離の国であるはず

統一教会は、霊感商法などで日本の国民を搾取し、嫌がる信者を虐待してきたという点に注目すれば、まさしく反社会的と呼ぶのがふさわしい団体である。しかし、自民党にとっては、手堅い票田を持つ宗教団体として選挙を応援してくれるありがたい存在であり、少なくとも面と向かってこれを反社会的とは言いにくい。

市民社会にとって反社会的な相手が、政治社会にとってはそうではないとは、なかなか由々しき事態である。

ここに見られるのは、国民にあるべき主権が為政者によって簒奪され、しかもその為政者が宗教とのつながりを持つという構図である。日本は政教分離の国であるはずだが、この点はどうなっているのだろうか。

なるほど、宗教団体が特定の政党や政治家を支援することは憲法違反ではない。しかし、それは当該宗教団体が市民社会を支えるものとして機能している前提での話である。

■政教分離は「主権の問題」

旧統一教会問題で日本の政教関係のあり方が問い直されている。日本の「政教分離」はフランスの「ライシテ」とどう違うのだろうか。ここで、ライシテの基本法である1905年の政教分離法が主権の問題とも関わっていたことに注意を促したい。

1905年法制定前夜、作家のアナトール・フランスは『教会と共和国』(1904年)を著し、カトリック教会が精神的権力であるのみならず世俗的権力と化していることを問題視している。保守的なアカデミー・フランセーズの会員でありながら、人権を重視する反教権主義者だった彼の目に、教皇庁は宇宙の主権=至高性(souveraineté)を教会の聖なる法規に基づかせようとしていると映った。このような教会のあり方は、フランスの主権を脅かすものである。

冷戦時代に反共思想で自由主義陣営とりわけ日米の有力政治家に取り入った統一教会の世界戦略にも、同じような面があったと言えるのではないか。

■戦後日本の主権を脅かすアメリカと統一教会

日本は戦後、米国の占領を経て1952年に主権を回復したことになっているが、それは日米安全保障条約とセットで、沖縄は割譲されたままであったし、現在でも米軍基地を多く持つ。戦後日本はこのような意味での「主権国家」なのであり、親米右派がナショナリズムの主流をなしている。それが岸信介以来の系譜にあることは、第2次安倍政権の発足以降、非常に見えやすくなった(矢部宏治『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』講談社現代新書、2018年)。

統一教会の教祖である文鮮明は1967年に来日して岸信介や笹川良一と会談し、翌68年に韓国と日本で国際勝共連合が設立された。統一教会が自民党右派に食い込み、現在のような状況を作り出すに至ったきっかけである。

戦後日本の主権は、アメリカに支えられつつ奪われてきたように、勝共連合=統一教会によっても脅かされてきたところがあったのではないか。このような視点からも戦後日本の政教関係を見直してみる必要があるだろう。

もちろん、統一教会が戦後日本の政治を動かしてきたかのような語り方をするのは陰謀論の類いであろう。信者数も現在では2万人を上回る程度のようである。とはいえ、選挙で8万票程度を左右するとも言われ、当落線上にある候補者を当選させてきた「実績」も無視できない。

戦後日本の統一教会を20世紀初頭のフランスにおけるカトリック教会になぞらえるのは妥当ではないかもしれない。だが、ライシテの成立状況を鏡にすると、政教分離が主権の問題とも連動していることが見えてくる。フランスは、国家の主権を脅かす宗教との絆は断ち切って、政治社会の宗教的自律性を確保したのである。

国民議会(下院)のブルボン宮殿(パリ)
写真=iStock.com/aristotoo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/aristotoo

■信教の自由を盾に、子どもの虐待が続いてしまう

戦後日本で信教の自由は最大限尊重されてきた一方、国民の多くは無宗教を自任し、必ずしも宗教に好意的ではない。反社会的で国家の主権も脅かすような宗教に敵意を向けるのは、何もフランスにかぎった話ではない。日本でも十分に起こりうる現象である。

反教権主義はフランスのライシテの一面だが、その背後には個人の弱みにつけ込んで搾取する集団は許さないという人権の理念がある。集団から解放された個人が、市民として政治に参加し主権を下から作りあげるのが共和国のあり方である。

セクト問題について言えば、とりわけ未成年者をセクト的逸脱から保護する必要があるとの意識がフランスでは高い。子どもに対する虐待があると教師や医師などからの指摘があり、実際に問題があると認められれば、子どもを親から引き離すことができる。

日本では、子どもに対する虐待が疑われても、信教の自由を盾に取られると、なかなか踏み込めずにここまで来たのではないだろうか。宗教集団のなかでの人権侵害があっても、自己責任で済ませてきたところがあったのではないか。

■日本の実情に即した反セクト法は制定できるか

たしかにフランス流の人権は、そのままの形では日本社会になじみにくいところがあるかもしれない。しかし、日本社会にも立場の弱い者を搾取するのは許せないという感覚や、被害者の経験に心を痛める共感能力は、すでに現実のものとしてあるはずだ。

被害者への憐憫の情の感覚と、日本の主権が脅かされているという危機意識とが噛み合うとすれば、それはフランス的なライシテの理念とも十分に共鳴するものになりうる。そのような力に支えられてこそ、日本の実情に即した反セクト法導入の機運も高まるだろう。

とはいえ、反セクト法を制定できたフランスよりも日本の道は険しいかもしれない。フランスは国家がセクトを規制しようとして法律ができたが、なにせ今回の日本の場合はカルト的な団体が政権の中枢につながるパイプを持ち、そうした政治家たちの側も恩恵に浴してきたのだから。

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伊達 聖伸(だて・きよのぶ)
東京大学大学院総合文化研究科教授
1975年仙台市生まれ。東京大学文学部卒業。フランス国立リール第三大学博士課程修了(Ph.D.)。専攻は宗教学・フランス語圏地域研究。主な著書に『ライシテ、道徳、宗教学』(勁草書房 2010・サントリー学芸賞受賞)、『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書 2018)など。主な訳書にナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』(白水社 文庫クセジュ 2014)など。

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(東京大学大学院総合文化研究科教授 伊達 聖伸)

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